第七話 悪因悪果
(あくいんあっか):悪い行いや原因には、かならず悪い報いや結果がある。
『ダメダメ、足元がおろそかになってるっ!』
月人が繰り出す鞭のような蔓がヒュンと宙を切る。たちまち私の両脚はピタッと合わさったままグルグル巻きにされ、足をとられた体はあっけなくバランスを失った。地面に叩きつけられる、と目をつぶった瞬間、別の蔓が地面すれすれの位置で私を抱きとめた。視線の先にはすっかり淡くなった青空が広がっていて、そろそろ夏が終わることを告げていた。
さっきまで応戦して、かなり順調に後退させていた頭上の蔓までが、気づけば私をグルグル巻きにしていて両腕さえ動きがとれないようになっている。所謂『す巻き』状態というやつだ。ギリリと絞められた蔓はそれ以上締め付けることはなかったが、かなり体に食い込んで苦しい。
「ひどいよ、月人ぉ」
半泣きの状態で見上げると、月人が上から覗きこむ。
『こんな状態では、あっという間に苗床にされるか、絞め殺されるかどっちかだろうね。さぁ、のんびりしている時間はないよ。自力で脱出しなきゃ』
月人が冷たくそう言った途端、蔓の締め付けが少しきつくなった。
「うっ……くっ……」
思わず声が漏れる。
――鬼だ。鬼軍曹だぁぁ。
かろうじて動かせる指先で、ズボンのポケットに仕込んであったカッターナイフを何とか取り出すことができた。しかし蔓を切ろうとして躊躇する。
「ねぇ、切っても大丈夫なの? 月人は痛くないの?」
『痛くはないけど、ちょっと、なんて言うか、疲れる……かな? うまい表現が見つからないんだけど。でも、まぁ、君の脱出訓練の為だから、遠慮せずにすっぱり切ってくれて構わないよ』
「分かった。後で苦情は言いっこなしね」
植物の蔓と言うものは、確かに簡単に刃物で切ることができる。だけど放っておくと徐々に太く木質化していき、そうなるともうカッターナイフくらいでは歯が立たなくなる。だから巻きつかれたら素早く切って脱出する必要があるのだ。スピードがモノを言う。
――苦情は言わないって言った癖に~ 月人めぇぇ。
その日、月人が繰り出した蔓を三本ほど切ったところで脱出訓練は終了したのだけれど、月人は疲れた疲れたを繰り返し、痛かっただの(さっきは痛くないって言った癖に……)、喉が渇いただの、今日はもう疲れて食事の準備ができないから自分でしろだの、散々付き纏っては耳元で苦情を囁いた。囁かれるたびに、水をやったり、たくさん光に当たれるように気を配ったり、畑仕事だって一人でしたし、当然食事も自分で用意した。用意と言っても、トマトとナスとトウモロコシを収穫して食べただけだけど……。
更に夜になって寝る頃になっても、月人はベッドの脇に来て苦情を申し立てた。
『沙羅、布団に入れてよ』
「なんで~?」
何が悲しゅうて月下美人と一緒に寝なきゃならんのだ?
『だって、今日疲れたじゃん?』
「だから、いっぱい光合成できるようにって、午後からはずっと日向ぼっこさせてあげたじゃん」
『それ明反応だけなんだよね。炭素を固定させるには暗反応、つまりケルビン回路を働かせる必要があるんだけど、それには適度な温度が必要なんだよ。そろそろ秋めいて来て、夜は気温が下がるしさぁ。それに僕みたいなCAM植物(*)は夜に二酸化炭素を吸収して体内に貯蔵する性質があるから沙羅と一緒にいる方が、次の日元気になるんだよ』
そう言いながら月人はもぞもぞと布団にもぐりこんできた。
――猫か、君は……。
私は失笑する。
暗闇の中淡く光を弾く月人の顔に見とれる。月人は本当にキレイな顔をしている。
『ほら、やっぱりぽーっとした顔で見てる』
「んな顔で見てないよ。大体暗くて表情なんて分からないじゃん」
嬉しそうにクスクス笑う月人にむっとして背を向けると、腕が伸びてきて後ろから抱きしめられた。ひんやりとした冷たい手。
『あぁ、温かい。ちょっと温か過ぎるかな。でも沙羅はいつも温かくっていい匂いがするね』
「そうかな?」
私にしてみれば、月人の方がいい匂いだけどね。月人は瑞々しい若葉の匂いがする。……ん? 待てよ。私ってどんな匂いなんだ? ここ最近シャワーを使えないので体は拭くだけだし、髪もゆすぐだけだ。月人が作ってくれた精油入りの樹液水は確かにサッパリするけれども……。いやいやいや、どんな匂いなのかは聞かないでおこう。土の匂いとか肥料の匂いとか言われたら再起不能だ。一人赤くなったり青くなったりして入ると、月人のマッタリとしたまろい声が頭上から聞こえた。
『もう少し沙羅が敏捷に動けるようになったら会いに行こうね。もう一人の僕に……』
布団の中で囁く月人に苦笑する。
私は夏夜ちゃんに会いに行くつもりでトレーニングしてるんだけどね。
ふと思いついて、体を回転させて再び月人と向かい合う。
「ねぇ、根ットワークを使えば、もう一人の月人とも話せるんじゃないの?」
私ってば、なんですぐに思いつかなかったんだろう。
『……うん、話せるよ』
「もう一人の月人は今何を考えているの? 夏夜ちゃんは今どうしてる?」
『もう一人の僕は月人とは呼ばれてないよ。シロって呼ばれてる。白い花が咲くから……』
「ふぅん」
月人の話によると、シロはとても混乱しているらしい。実際のところ、ここ数カ月、根ットワークを使っても、まともなやりとりが出来なかったのだと月人は言った。何か計画を遂行中だってことは知ってたんだけど、まさかこんなことになるとはね。意気消沈した様子で、月人はそう言った。
今回の植物の暴走はシロが原因だったってこと? 私はすぐにでも夏夜ちゃんに会いに行った方が良いんじゃないだろうか。
月人にそう訊くと、闇雲に動いても良い結果は得られない、もう少し状況を確認させてほしいと言う。
もどかしさに唇を噛んだ。
◆◇◆
もう何もかもがうんざりだった。
相談に乗るふりをしてキスしようとする先輩も、突然教室にやってきて私から彼をとらないでとわめき散らす他のクラスの女子も、表では父親面して裏で私を犯し続ける義父も、それを認めようとしない母も、何も知らない癖に良い姉であることを強要する弟妹も、全部居なくなっちゃえばいいと思った。
だから私はそうすることにした。ゲームみたいにリセットすることにした。
シロは私の言うことなら何でも聞いてくれる。
シロは祖母の残した遺品の中にあった。
私が幼い頃に死んだ実父の実家は、一人っ子だった父が亡くなった後、祖母が一人で住んでいた。祖母が亡くなった時、その財産はすべて孫である私の名義に書き換えられていたのだが、母と義父は私が未成年だったのをいいことに、すべて勝手に処分してしまった。田舎の土地だから二束三文だったと文句さえ言いながら。
後片付けを手伝わされた時、(値打ちのあるものは既にほとんどが売り払われていたので、がらくた処理を手伝わされた) その中にシロが居た。私の背丈ほどもある月下美人の大株で、大きな蕾をぶらさげていた。
その日の夕方、当時身重だった母は片づけ途中で具合が悪くなり、急きょ双子の弟たちと一緒に近くのホテルに泊ることになった。一人、後処理要員として残された私は、その夜、月下美人が咲き誇るその下で義父に乱暴された。
ここ数カ月、嫌な目で見られている自覚はあった。相談に乗るふりをしてキスしてきた先輩と同じ目をしていると思っていた。だから、一人で残すのが心配だったからなどと言いながら戻ってきた義父を見た時には絶望した。
だけど、そんなことよりももっと更に私を絶望させたのは、それを聞いた時の母の態度だった。
「あなたは自意識過剰なのよ。ちょっと手が触れたくらいのことなんでしょ? 勘違いもいいところよ。大人のお父さんがあなたみたいな子供を相手にする訳がないじゃないの。ママ、嘘つきは大嫌いよ」
能面のような顔で母はそう言った。
私の勘違いだと言いたいのか、それとも私が嘘をついたと言いたいのか、私は母の言いたいことがさっぱり分からなかった。
今考えれば、母はそれが本当に起こったことだと分かっていたのだろう。だけどそれを認めたくなかった。だから私を黙らせることにしたのだ。
私が黙り、母が沈黙すると、義父はそれをいいことに私を好きなようにした。
――お前が悪いんだ。誘惑するから……。
義父は決まって私にそう言った。誘惑した覚えなどなかった。だけど誰も私の言うことなど信じないに違いなかった。そう断言できる根拠が私にはあった。
一度、怖くなった私は学校の保健師に相談したのだ。保健師に事情を訊かれた母は、私が難しい年頃であること、自分の再婚に不満を持っていたこと、最近頻繁に嘘をつくようになって心配していることなどを保健師に告げた。義父はそれなりに社会的地位のある人だったし、母がそう言ったことで、保健師は私に思春期にありがちな自己顕示欲の強い、自意識過剰な嘘つき娘だというレッテルを貼った。
そんな私の言うことなど誰が信用する?
人は真実を信じるのではない。容易に信じられることを、あるいは自分が信じたいと思うことを信じるのだ。私はそれを学んだ。
何もかもが最悪で、何もかもが汚らしくて、何もかもが絶望的だった。
私の絶望を吸い取ってくれたのがシロだった。
乱暴された夜、シロは私に話しかけてきた。
『僕を連れて行ってよ。全部とは言わない。葉を一枚折りとって、それを土にさしてくれたら、僕は君といつでも一緒に居られるよ。君が辛い時も悲しい時も僕がずっと傍に居てあげる』
たとえそれが醜いガマガエルだったとしても、私は喜んで連れて帰ったことだろう。私は私の味方になってくれる人が欲しかった。傍にいて慰めてくれる人が欲しかった。あるいは相談にのってくれる人が……。
たとえそれが悪魔だったとしても、私はちっとも躊躇わなかっただろう。
土に挿したシロはどんどん大きくなり、自由に動けるようになり、私の言うことを何でも聞いてくれるようになった。
時が満ちた。
「……シロ、もういいよね? 私もう我慢しなくていいよね? この世に残っていてほしい人なんか、自分も含めてもう誰もいないから……。だから、こんな世界なんて壊して? お願い……壊してよ!」
ベッドの端に散らかされた夜着を集めて抱きしめたまま、私は声をあげて泣いた。
『分かった。夏夜、もう我慢なんてしなくていいんだよ。時は満ちた。僕が強くなったのは君の為だ。君の願いを叶える為だ。今から世界を壊して造り変えてあげる。夏夜を傷つける人間をこの世から無くしてあげる。だから今日はもうおやすみ。何も心配はいらない。明日の朝、きっと世界は変わっているから……』
シロの蔓に巻きつかれて床に転がる二つの大きな繭と、天井からぶら下がっている小さな三つの繭はもう声を上げることも、蔓を揺らすこともなくなった。弟妹たちはちょっと可哀そうかなと思ったけど、父母を失くしたこの子たちを放っておくわけにもいかない。
だけど、苦しそうにもがいていた声が次第に小さくなり、動かなくなってしまうと私は怖くなった。
取り返しのつかないことをしてしまった。
その罪悪感が、真っ黒な底なし沼のように私を怯えさせた。親殺し弟妹殺し。それどころか、街中が魔緑に呑み込まれてしまった。もう誰も私を許さないだろう。死をもって償う以外に、なにも解決策を思いつかなかった。
「シロ……お願い……最後の願いを叶えて……」
(*)CAM植物とは
CAM型光合成(CAMがたこうごうせい)は砂漠などの多肉植物や、同様に水分ストレスの大きな環境に生息する着生植物に多く見られる光合成の一形態である。これを行なう植物をCAM植物と呼ぶ。この方法の特徴として、CO2の取り込みを夜に行い、昼に還元することが挙げられる。また、CAMとはベンケイソウ型有機酸合成のことで Crassulacean Acid Metabolism の略 (ウィキペディアより)