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第五話 相互理解

 昨夜、猫が死んだ。


 飼い猫ではない。うちの床下に逃げ込んでいた野良猫だ。いや、元々は野良猫じゃなくどこかの家の飼い猫だったのかもしれないけれど。キャラメル色の痩せこけたやつだった。それはとても衰弱していて、どうにか助け出した頃には鳴き声さえあげられないほどに弱っていた。


 私は、枝豆にするには少しばかり時を過ぎ、大豆にするには少しばかり若いその豆をカセットコンロで茹でて、すりつぶしてからガーゼで()して豆乳を作った。猫の口にそれを少しずつ含ませてみたが、豆乳はほとんどそのまま口からボタボタと零れ落ちた。食べ物を経口摂取するには既に遅すぎたのだろう。


 猫は間もなく死んだ。


 猫は植物性の食物を栄養として取り込めない。ここで助かっても後々行き詰っていたにちがいない。そうは思うものの、温かく柔らかだったその体が徐々に冷たく硬くなっていくことに、ひどい喪失感を覚えた。


 世界は、どうなってしまったんだろう。世界は、どうなるんだろう。そんなことばかりグルグル考える。

 初めて自分で作った豆乳は、少し甘くて苦かった。


 食欲もなく、したいこともなく、できることもなく、ただぼんやりと月人がせっせと畑仕事をしている様子を見る。庭だけなら外に出ても大丈夫だよと月人は言うけど、何をする気にもならない。ただ、悲しくて、むなしくて、ぼんやりと窓際に座る。しんと静まり返った家に居ると、人類最後の生き残りになってしまった気分だ。涙が勝手にはらはらと零れ落ちる。


 日差しが翳って、ふと見上げると月人が目の前に立っていた。


『沙羅、なぜ泣くの? お父さんもお母さんも無事だって分かったのに、状況が落ち着けば探しに行けるよって言ったのに、どうして泣くの?』

「……分かんない」


 月人は私の頬に手を滑らせる。月人の手はハンカチのように涙を吸い取る。吸い取った涙は水分と塩分に分離されてリサイクルされる。それだけのことだ。それだけのことが、何故かとても切ない。死にかけた猫よりも月人を遠くに感じて、とてもとても切ない。


『ちゃんと言ってくれないと分からないよ』

「……なんか分かんないけど、哀しいんだよ。寂しいって言うか……。一人ぼっちになっちゃった気がしてさ。世界から忘れられちゃった気がしてさ……」

『僕がいても?』

「……」

 月人は植物だ。動物である自分とは違う。


 植物ならば、誰か他者の温もりや存在を恋しく思ったり求めたりすることはないのではないか。そもそも植物は、ほとんどがその個体のみで完結している言わば完全体だ。しかし動物は違う。別の個体、しかも雌雄の異なった個体がいて初めて存続を可能とするものだ。根本的な立ち位置が違う。その考えが、自分と月人の間に横たわっている溝であると認識していた。


「……月人は寂しいとは思わないんだよね? もし、周りに他の植物が居なくなって月人だけになっても……」

 涙声で愚痴をこぼす。

『僕には寂しいという感覚がない……そう思っての質問だよね?』

 月人の少し剣のある言い方に私は怯んだ。


「……って言うか、月人は植物だから、月人だけで完結してるじゃん。花をつけて実をつけて……そんな回りくどいことしなくたって葉っぱを土にさすだけで増える訳だし……寂しくないよね……」

 ぐずぐずしゃくりあげながら、私はぼそぼそと言葉を紡ぐ。


 そんな私に月人は軽くため息をつきながらゆっくり語り始めた。


『……僕はね、あの猫を見つけた時、最初ほっとしたんだ。沙羅が積極的にあれこれやるようになってほっとした。このまま泣きながら暮らしていたら、いつか君が溶けてなくなっちゃうんじゃないかって心配だったから。だけど、今はあの猫が死んでくれてほっとしてる。だって、あの猫が生きていたら沙羅はきっとあの猫のことで頭がいっぱいになって、僕のことなんかほったらかしにしていただろうからね』


「……月人?」


『あの猫が死んで沙羅はまた僕に話しかけるようになった。僕はとても嬉しくて、同時に理解した。沙羅にとってあの猫は寂しさを埋めるためのペットだったんだろうって。だったら、僕にとっての沙羅はなんなんだろうって考えたんだ』

 少し不穏な口調の月人に私は首を傾げる。


『つまり、君は僕のペットなんだ。僕の寂しさを埋めるための……』

「……ペット? 私が? 月人のペット?」

『だってそうだろう? 君は毎日何をする訳でもない。ただ眠って起きて、僕が与えるエサを食べて、僕に可愛い声で話しかけてきて楽しませる。それってペットって言うんじゃないの?』

 ショックだった。


 知能を持っていて、様々な文明の利器を生み出したと自負している人間だって、こうやって文明から切り離されてしまえば一匹の弱い動物でしかない。月人なしでは私は自分の身さえ養えない弱い生き物だ。養っている側がペットだと言えば、その立場を覆せないほどに……弱い。自分はなんという弱い立場になりさがっていることか。


「……月人は……私のことをそんな風に考えてたんだ……」

 屈辱……と言う前に、反論さえできない自分が情けなかった。涙がボロボロ零れる。声を張り上げて泣き叫びたいくらいなのだが、なけなしのプライドでそれを押しとどめた。

 唇を噛みしめたまま俯いていると、月人の深いため息が聞こえた。


『……冗談だよ。僕は沙羅のことをペットだなんて思ってない。考えてもみなよ。僕たちは会話できるんだよ? 意思の疎通ができるんだ。君は猫の方が動物である分だけ自分に近いと思っているようだけど、あの猫と会話を交わしたのかい? あの猫、最期になんて言ってた? 助けてくれてありがとうって言ってたかい? 豆の汁なんか飲ませんじゃねぇとか言ってなかったかい? そんなの分かりゃしないじゃないか。話せないんだから。動物だ植物だって言う前に、会話できるってことの方がよほど重要だと思わない? 僕はそう思うよ。だから、あの猫がもし生き延びていたとしたら、僕にとってあの猫はペットにはなるけど友達にはならなかった。逆に僕にとって君は友達にはなるけどペットにはならない。そう言うことだ』


 淡々と、しかも自分よりはるかに理路整然と話す月人に私は打ちのめされていた。恥を承知で言うならば、その時私が感じたのはひどい劣等感だった。私はもっとしっかりしなくちゃいけないのだ。


「……ごめん、月人にそこまで言われないと分からない私って、やっぱり馬鹿だよね。本当に馬鹿で……馬鹿でごめん。月人……ごめん」


 そう言ってやっぱり泣くしかできない私に、月人はいたわるように穏やかな声でこう言った。

『あの猫は、やっぱり沙羅に感謝していたと思うよ。最期に一人ぼっちじゃなくてさ』


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