第二話 月下美人
『沙羅、庭の草を抜きなよ』
月人がそう言いだしたのは一週間前のことだ。
ようやく鬱陶しい梅雨が明け、梅雨に負けないくらい鬱陶しい期末テストが終わった金曜日の昼下がりのことで、私がサイダーを片手にバラエティ番組のギャグに大笑いした瞬間だった。
「はぁ? 何? 庭の草?」
私は、眉間にしわを寄せて窓際に佇んでいる月人を振り返る。
月人は青白く無表情な、しかし秀麗な顔で頷いた。
私の家は都心から少し離れたベッドタウンにある戸建てで、南側にこぢんまりとした庭が付いていた。共働きの両親は都内で働いているのでいつも帰りが遅い。週末に部屋の掃除をしたらもうそれだけで疲れ果て、庭の手入れができていないのは知っていた。しかし、私自身、学校に部活に塾にと忙しかったし、第一、一人で草むしりするほどできた子どもでもなかった。
「えー、なんで私が?」
チョコチップ入りのクッキーを頬張りながら、モゴモゴと返答する。
庭にはイネ科の雑草が繁茂していて、明らかに見苦しい状態になっていた。
――うちの玄関は西側にあるから、庭を見られる心配がなくって良かったわぁ。
というのが母の言い分で、
――次の週末には絶対草むしりやるからっ。
というのが父の口癖だった。
『ナンでも、カレーでもないよ。やれと言われたらやる!』
元々言い出したら引かない性質ではあったのだが、その日の月人は妙に強硬だった。
「だって、疲れてるもん。今日はゆっくりしたいしぃ、明日は塾だしぃ……」
『じゃあ、明後日早起きしてやるといい。昼前には片付くだろうからね。さほど広い庭でもないんだし』
「えぇー 面倒くさいよ。月人がやればいいじゃん」
そう言ってソファに寝転んだ私を、月人は不愉快そうな同時に蔑むような眼つきで睨みつけながら腕を……もとい、茎を組んだ。
『誰に向かって言ってる? 言っていいことと悪いことの区別もつかなくなったのか?』
絶対零度の冷たい声色に凍りついた私は、そろりと起きあがるとソファの上に正座した。
すみませんでした。喜んで草を抜かせていただきます。
一度、月人の頼みを無視したことがあったんだけど(だって面倒くさかったし……)、あの時はひどい目に遭った。何がひどいかって……やめておこう。何もこんな所で恥を晒すことはない……。
ところで、もうお気づきだろうか? 月人は人ではない。そして動物ですらなかった。未確認植物(UMP: Unidentified Mysterious Plant) と言うべきだろうか? いや、しかし彼にはきちんと植物名も学名もあった。
月人は月下美人という名の植物だ。
サボテン科クジャクサボテン属、常緑多肉植物。学名をEpiphyllum oxypetalum「エピピュルム・オクスュペタルム」という(舌を噛みそうだ)。夏に大きな蕾をつけるのだが、その白くて美しい花は一夜限りの一夜花だ。それが月下美人という名前の由来になっている。その植物名から『月人』という名前をつけたのは私だった。
しかし月人の特殊性は、その種類ではなくふるまいにあった。
月人は植物でありながら、動物のように歩き回ったりしゃべったりすることができるのだ。
月人はとても青白い顔をしている。目も鼻も口も耳も人間そっくりなのだけれど、それは単に人間に似せただけで、目で見ている訳ではないし耳で聞いている訳でもなく、口も鼻も単に付いている状態なのらしい。顔は私が当時夢中で読んでいた少女漫画の主人公の吸血鬼に似ていた。
『沙羅はこの顔が好きなんでしょ? 漫画の表紙をいつもぽーっとした顔で見てたじゃない。サービスなんだ。沙羅には助けてもらったからね』
月人は無表情な顔でそう言う。
ぽーっとした顔なんてしてないよ、と文句を言うと月人は小馬鹿にしたように肩を竦めた。忌々しいったらありゃしない。
ちなみに、私たち人間は目で光を感じる。目に光を感じる物質ロドプシンがあるからなのだが、同様に植物にも光を感じる物質があるらしい。フィトクロームという。それを最大限活用してモノを見ているのだと月人は言った。(ちなみに、彼の知識の豊富さは主にインターネットに依るものだ。もっともネットに限らず文字を読むのが大好きで、窓際で陽に当たりながら一日中でも本や新聞を読んでいる)
だから、私がぽーっとしていた顔もちゃんとこの目で見たのだと月人は自信たっぷりに言った。
まぁ、確かにぽーっとしてたかもしれないよ。だって主人公の吸血鬼、美形なんだもん。
ところでさ、光を感じる物質が違うってことは、私が見ているものと月人が見ているものは違うってことじゃないのかな、と思うよね? かつて聞いたことがあった。
――ねぇ、私の顔ってどんな風に見えてるの?
――普通かな。
月人は間髪いれずに答えた。
物質が変わっても私は普通なのか……。ちっ、聞かなきゃ良かった。
確かに、リビングの隅で枯れそうになっていた月人を見つけて水をやったのは私だった。最初は普通の観葉植物だったはずなのに、いつの間にか大きくなってしかも自分で移動できるようになると、月人は両親の目が無いところで、かなり自由気ままに動きまわるようになった。
日中は、大抵リビングにある大きな植木鉢の中で大人しくしているのだが、寂しいからなどと言って、夜中にいつの間にか私の部屋にいたり、日の出とともにベランダに出ていたりすることもある。たまに夜間移動中に御手洗いに立った父と遭遇したこともあったらしいが、素早く植物のふりをしたら、別に怪しまれなかったと得意そうに語った。
――ってか、植物のふりって、植物じゃんか。
月人はさほど濃くない緑の葉をみっしりと茂らせていて、その茂った葉っぱで顔を隠しているので、静止していれば普通の観葉植物に見える。
以前母親が、
「この月下美人、なんだか人の形をしているみたいで気味が悪いわねぇ。少し刈込もうかしら……」
などと言い出したことがあるのだが、あの時はやめさせるのに苦労した。
そんな事態になっても、月人は頑なに私以外の人間と話すことを拒否したからだ。理由を聞いても答えてくれない。
月人は彼特有の行動規範というべきものをいくつも持っていて、その規範を破ることは決してなかった。例えば、いくら自由の効く身になったとしても、同じ植物である同朋を引っこ抜くことはできない。それも彼の行動規範の一つだった。
ところで、先ほども言ったように漫画に出てくるしかも主人公である吸血鬼というものは大抵の場合美形である。その整った耽美な顔は月人の青白い顔色にとてもよく似合っていた。
月人の手は緑色だ。しかし足は白い。白いと言っても、我々がよく言うところの肌が白い人という意味ではない。全くの白なのだ。動けるようになった当初、月人はほぼ全身緑色だったのだけれど、今現在服の下の体が緑色なのかどうか知らない。青首大根のように、日に当たるところは緑、日に当たらないところは白なんじゃないかと密かに推測しているのだが、まぁ、推測に過ぎない。植木鉢を抜け出して服を身につけるようになってから、月人は私に体を一切見せてくれなくなったからだ。植木鉢の中でただの植物のふりをしている時も、頭髪に当たる位置に茂った葉っぱで体を覆っているので、やはり見ることはできない。
月人が植木鉢から出て活動する時には、いつもワイシャツに白いズボン、そして白いマントを身につけている。本当は、漫画の主人公の吸血鬼が着ていたような黒スーツ黒マントを身につけたかったらしいんだけど、黒を着ていると光合成ができなくて元気がなくなるのだと月人は残念そうに言った。
マントの上から触れた感触で言うと、月人の体は多少ごつごつしていて硬いが大根のような寸胴ではなく、むしろ人間にそっくりなようだった。性格的にこだわり派のようだから(植物に性格があるのかどうかは知らないけれど) どこまでも人間の体にこだわって作り込んであるような気はする。
月人の衣装を揃えるのに、実はかなり苦労した。
服が欲しいと言い始めた当初、面倒くさかった私は植物に服は必要ないでしょ? と取り合わなかったのだけれど、月人は実にしつこかった。しまいには、私の下着を勝手に取り出してそこらじゅうに散らかすという暴挙に出た。母には叱られるし、父には年頃の娘なんだからもっときちんとしようねとたしなめられるしで、散々な目に遭った。(私ってば、結局、恥を晒してるし……)
――濡れ衣だぁぁ。ひどいよ月人!
文句を言う私に月人は涼しい顔でこう言った。
『下着を見られるより、直に体を見られる方が恥ずかしいよね? 沙羅も経験してみる?』
月人は服を手に入れるためには手段を選ばないつもりらしかった。その不穏な言い方に私は震えあがる。
すみませんでした。服を用意させていただきます。
――でもさぁ、マントなんてどこに売ってるんだし……。
服のリクエストを聞いた私に、月人は無表情なまま吸血鬼の衣装を指さした。私は遠い目になる。
貯めていたお小遣い程度では大したものは買えそうにない。だからネットで調べて作れるものは自作した。純白の布に金色の金具で飾りを施したマントは、吸血鬼というより天使が身につけるような雰囲気に仕上がった。
純白のマントを纏った月人は、吸血鬼というよりもファンタジー小説に出てくる吟遊詩人のようだった。もっとも吟遊詩人が出てくるファンタジー小説なんて私は読んだことないけどね……。
話を戻そう。一週間前のことだ。
『沙羅、もうすぐ良くないことが起こるよ。だからそれまでに庭にある雑草を抜いておいた方がいい。やつらは暴徒化しやすいからね』
「え、何それ……良くないことって何?」
『……君たち人間にとって良くないことだ。それ以上は言えない』
結局、日曜日の早朝(両親さえまだぐっすり眠り込んでいた程の早朝だ、夜明けといってもいい)、私は月人の平手で……もとい葉っぱでビシバシ叩き起こされて、眠い目を擦りながら庭の草取りをしたのだった。
日頃手伝いなどしない私が朝早くから草取りなどするものだから、両親は雪が降るんじゃないかと怖がったが、私は私で月人の目を恐れていたのでやめるわけにはいかなかった。サボろうにも、私が眠い目を擦りながら庭に出た途端、月人もウッドデッキに植木鉢を自ら運び出して、その中にドッカリ座りこむと監視体制に入ったからだ。
後で起きてきた母に、こんな大きな鉢よく一人で出せたわね、と驚かれたが、驚くにはあたらない。
――お母さん、こいつは自分で運んで自分で外に出たんです。
心の中で呟く。言ったって信じてもらえないからね。
草取りは思いのほか時間がかかった。月人が根っこからしっかり取るようにとうるさかったし、その後も色々と作業を言いつけたからだ。
強力な監視体制の元、私は黙々と草を取った。月人のことだから、やめようものなら真夜中にだって叩き起こしてやらせるに違いなかったからだ。
月人のしつこさとやかましさは、この一年で既に身にしみていた。
作業が終わったころにはクタクタになって、こんなやかましい植物と暮らすはめになった我が身の不運を嘆いたものだ。
そして月人が草取りを命令した日からきっかり一週間後、この騒ぎは勃発した。
◆◇◆
都内に通勤していた両親と連絡が取れた。
母は蔓のせいで止まってしまった電車内で立ち往生していて、父は既にオフィスに到着していたが、オフィスが入っているビルも蔓で覆われていて中に入れない状態なのだそうだ。家に帰ろうにも、電車も車もバスも止まっていて、家に帰り着くのはいつになるか分からないという。しきりに心配する両親に、こっちは心配ないので無理して帰る必要はない旨を伝えた。私はもう高校生だ。小さな子どもではない。
それに月人もいるしね。言わないけどさ。
その時は、月人の警告を聞いていた私でさえ、この状況がそれほど深刻なものだとは思っていなかったし、そう長く続くとも思っていなかった。
しかし、事態は収束するどころか、日を追うごとにひどくなって行った。
交通機関が復旧する兆しはなく、更に悪いことに、蔓が生い茂った日の三日後には電気が止まってしまった。次の日もその次の日も、三日たっても四日たっても両親は帰って来なかった。ケータイに連絡しても電波が届かない場所に居るか電源を切っている状態だというメッセージが流れる。それは両親に限った事ではなかった。誰とも連絡が取れないのだ。
緑の津波が発生してからほんの数日で、外には出られない、電化製品は使えない、誰とも連絡をとれないという孤立無援の状態に、私は一人ぼっちで直面することになってしまったのだった。