騎士の子5
平穏というものが平和と同時にしか存在できないのであれば、それは確実に平和といえるひとときだった。
マリアの実父であるクファシニェフ団長は、温厚篤実ながらも一騎当千と名を馳せる、おそらくは現役騎士の中でも最高峰に位置する実力者であることは、ハイランド王国の国民であれば誰しもが知るところだろう。
平民の出ながらも幼少の頃より小姓として戦地に赴くことも多く、冗談まじりに“叩き上げ団長”と市民からの信頼も篤い。
そもそもにおいて、ハイランド王国騎士団というのはあくまでも総称にすぎない。その中身は厳しく細分化され、その職務内容によって色分けがなされている。
まずは黒。南の砦を守護する肩翼の鷲。
つぎに赤。東の砦を守護する獅子。
つぎに蒼。西の砦を守護する盾。
そして、それら3つを束ねる中央の白。気高い白百合の4つである。
これまでの歴史の中で、平民が騎士の身分を得ることは希有なことであったが、それでも前例が無いことではなかった。
だが、中央に身を置く白騎士団の団長となれば、話は別だった。
前国王リーズウェルによりこの相互監視機構が発案された際、その白騎士団の団長にとクファシニェフを強く推薦したのが、その国王であったと聞く。
当時のクファシニェフは既に騎士として頭角を現しており、齢30という若さにして騎士団長補佐官を務めていた。
だがそれでも当時の反対はすさまじく、一介の何の身分も持たない市民が権力の座につくことを快く思わない者は多数いた。クファシニェフの就任には、一悶着どころでない騒ぎがあったらしい。
だが、クファシニェフは当時「正騎士養成学校」を建設し、国民から絶大な支持を得ていた。それまで世襲制だった騎士という身分が、「誰もが騎士になれる可能性がある」というものになったのだ。騎士になれば生活の安定が約束され、その身内にもささやかながら報償が与えられる。クファシニェフが国王に絶対の信頼を置かれていたのも、こういった数々の功績があってもことだ。
老いてなお矍鑠としているクファシニェフだが、その輝かしい功績故に、半生は権力争いに嫉妬や憎悪、常にそういったものの渦中に身を置いていたといってもいい。
そんな歴戦の騎士である騎士団長が、傷だらけの少女を抱いていたものだから、2人は驚愕して目を見開いた。
物音を聞いて駆けつけたマリアも、驚いたように硬直している。
「おかえりなさいませ、旦那様。……その少女はいったい?」
バルトが表面上だけでも平常心を保ったまま問いかけると、クファシニェフは小姓に少女を預けながら言った。
「そこの森で賊に襲われていたところを助けたのだ」
簡潔な説明に、フィリッツが頭を下げる。
「素晴らしい騎士道精神に心から感服申し上げます、クファシニェフ様」
「うむ。マリア、小姓について彼女を看病してあげなさい。女同士、お前が一番彼女の気持ちを分かるだろう」
「分かりましたわ、お父様!」
「すまんな。とても可愛い洋服だ、私の宝はいつにもましても美しい」
その言葉に、マリアの顔がぱっと輝いた。
いつもよりくるくると巻いた髪を自慢げに翻して、小姓のあとを追いかけていく。
「まったく、おてんばは相変わらずだな…」
クファシニェフはたっぷりとたくわえた顎髭を撫でつけてそれを見送ると、一際大きなため息をついた。
まるでこの世の鬱憤を全て吐き出すような、肺の中の空気を全て吐き出すような重い吐息に、男達の間に緊張が走った。
「------!!」
ため息をつく。
それだけの動作であるのに、二人は背筋を叩かれたような衝撃に反射的に気を引き締めた。
壮齢といっても差し支えないような、老人である。ゆったりとした顎髭も頭髪も真っ白だが、その体躯はどこも衰えていない。フィリッツは男としてだいぶ大きい体格であると自覚しているが、クファシニェフはそれの更に上をゆく大きさだ。上等な騎士服は正装の時のそれであり、もとは真っ白だった絹に少女のものと思われる血がみてとれる。白百合の文様が施された金の留め金だけが、汚れを知らないとでもいうように輝いている。
現役騎士団長の迫力。
ため息ひとつとっても、すさまじいプレッシャーを感じずにはいられない。
二人の緊張を見て取って、クファシニェフは顔をほころばせた。
「そう堅くならなくて良い。---2人に少し話しがある、良いか?」
有無を言わせぬ口調に、2人は頷くしかなかった。
先ほどの応接室に通されて、二人はかしこまってしまった。
クファシニェフが人払いをしたので、さらに恐縮してしまう。
フィリッツは先ほどのたっぷりとしたソファーに、バルトがその後ろで控えると、クファシニェフは向かいのソファーにどっかと腰を下ろした。
緊張で顔色も無くなってしまったフィリッツをよそに、相変わらず何を考えているか分からない表情だが、バルトは普段通りにも見えた。
人払いをしたせいか先ほどよりも深い静寂に、耳鳴がする。
シン、という音すら聞こえてきそうなほどの室内は、前回ここに踏み入れた時は外界の笑い声で溢れていたというのにという思いを、フィリッツに抱かせた。
その沈黙を破ったのは、元凶であるクファシニェフだった。
「これに、見覚えは?」
二人の目の前に置かれたのは、一降りの短剣だ。
各所に宝石が贅沢に鏤められ、鞘はつややかな象牙で出来ている。短剣としては短いかもしれないが、儀式用などでよく用いられる長さだ。その鞘の正方形の留め金の部分に、あまり見覚えのない紋章が描かれている。
「…これは……」
ぞっとした。
反射的にバルトを見上げると、彼もまた顔色を失って立ち尽くしている。
それはフィリッツの予想を裏付ける決定的なものとなった。
「---------」
再度、短剣へと視線を戻す。
汗がひたいを流れるのが分かった。
背筋は氷るように冷たいのに、頭だけがカンカンと熱い。
まるで見えない炎で脳の中からあぶられているようだった。
「分かったか?」
クファシニェフの野太い声に、2人ははっと顔をあげた。
フィリッツがからからになった喉で辛うじて絞り出した声は、それこそ蚊の鳴くようなものだった。
「オレはこれを、1度だけ見たことがあります」
「そうか、執事は?」
「私も、1度だけございます」
バルトもかすれた声で、そう答える。
「私の記憶に間違いがなければ、これはコルコンディア神聖国の、王族のみが持ち得る紋章のはずです。1度だけ、8年前の国交正常化記念式典で王の冠に描かれているのを見たことがあります」
バルトが淀みなく続けるが、その語尾は微かに震えている。
クファシニェフは難しい顔で目を瞑るとテーブルに肘をつき、眉間のあたりで両手を組んだ。
壮年の騎士の唇から、再度重い吐息がこぼれ落ちる。
「----その通りだ。2羽のハトが木イチゴを咥えて交差するこの紋章は、国旗とは別に、コルコンディアの王族である証として王族の所持品の、たった1つにだけ施されるものだ。間違い無いだろう」
「コルコンディア特有の王族の記ですね」
通常、そういった身分の証明には国旗の文様が用いられるものだが、コルコンディア神聖国は国旗を民の所有物としており、国旗は身分を問わず使用することができる。
その代わりとして、王族の文様を所有物に刻印することで、その証としてきた。
コルコンディア神聖国の国旗は、ユグドラシルの大樹。
そして王族の文様が、木いちごを咥えた2羽のハトだった。
「盗難や複製の可能性はないのでしょうか?旦那様」
「通常ならそういったこともあるだろうが、これに関しては無いと断言して良い。盗んだり盗まれたりするようなものではないし、複製は所持しているだけでも死罪だ。あの少女が盗んだという可能性もあるかもしれんが…その可能性はまず無いだろう。こういったものは悪用されるのを恐れて盗難にあえば大々的に大陸中へ報じられるものだが、私はそんな噂すら聞いたことがない」
「なるほど…。白騎士団長の耳に入らないということは、盗難はまずないでしょうな。残るは複製ですが…?」
バルトの問いに、騎士団長は即座にかぶりを振った。
「何とも言えん」
「ところでクファシニェフ様、王族はそれぞれ自分の所持品に文様を施し、王は冠に、王妃は指輪に、第一王子は留め金にと聞いたことがあります。…では、短剣は?」
フィリッツのもっともな疑問に、クファシニェフは武張った顔で頷いた。
「そこだ。おそらく、第三王女ドゥエル様のものに間違いあるまい」
「第三王女…」
相変わらず顔面の色を無くしたままのフィリッツだが、なけなしの勇気を振り絞り、短剣にそっと手を伸ばした。それはひんやりと馴染み、優しく体温を奪っていく。
複製であってくれと願うが、ことはそう単純ではない。
フィリッツの脳内に、コルコンディア神聖国の知り得る限りの情報がめまぐるしく踊った。
「もし仮にこれがドゥエル王女様のものだったとして、いまドゥエル王女は和国へ嫁ぐ準備をされているはずではないでしょうか?」
「…そうか。フィル、おまえのイノシシ頭でよく覚えていたな。コルコンディア神聖国と和国は、長い戦争の和解にと婚礼を控えていたはずだ。確か半年後か?」
バルトは状況に慣れてきたらしい。
いつもの毒舌を取り戻してフィリッツを揶揄すると、クファシニェフは愉快に笑った。
「その通りだ。いやまったく、猟師になって他国には興味が無くなったのかと思っていたが、騎士の頃の習慣はなかなか抜けんか」
「フィルの生真面目さは騎士団の中でも随一だったからな、そのくせ頑固だから手に負えない」
「クファシニェフ様まで…」
敵が2人になった。
騎士団長を前にしては言い返すこともできず、フィルはなさけない声を出した。
「話を続けよう、2人とも。ともかくあの少女が目を覚まさないことにはどうしようもない。マリアと小姓がついているから大丈夫だとは思うが…。執事、念のためについてやってくれ」
「畏まりました」
バルトが優雅に一礼する。
クファシニェフは満足そうに頷くと、フィリッツへと向き直った。
「フィル、貴殿には申し訳ないが本日はここに滞在していただく。今夜は隠密に、何があってもいけない。分かるな。どんな些細な事件も起こってはいけないのだ、貴殿も護衛の戦力として数えようと思う」
「はい、全身全霊であたらせていただきます」
「すまんな、報酬は弾む」
「ありがたいお言葉でございます」
部屋を後にするクファシニェフの背中にきっちりと一礼をしながら、フィリッツは胸中でため息をついた。
どうにも----平穏とは長くは続かないものらしい。
胸中にゆらりと不穏な感情を覚えて、男は唇を噛んだ。
傷だらけの少女が目を覚ましたのは、それから2日後の夕方のことだった。