騎士の子3
平穏というものが平和と同時にしか存在できないのであれば、それは確実に平和といえるひとときだった。
マリアを邸宅まで送り届けた頃には、日はすっかりと暮れてしまっていた。
道すがら聞こえてくる音は人々が思い思いに食事をとり、湯浴みをし、1日の終わりを告げる細波のようなものだった。
マリアはひたすらにラスタール市場の感想を述べ、フィリッツはその都度穏やかに相づちをうつ。
そうして見上げる程の門に手をかけると、まるで見計らっていたかのように洋燈を持った青年が歩いてきた。
「バルト!!」
少女が歓声を上げる。
バルトと呼ばれた青年は穏やかに微笑むと、門を解錠した。
歳の頃は20後半から中盤といったところだろう。つややかな黒髪を肩口まで伸ばし、内側に柔らかく巻いている。背は高く第一印象はひょろりとしているように見えるが、よく観察するとその体躯は引き締まっており、猫を連想させた。光を弾かない燕尾服は漆黒で、夜の闇を吸い込んでいるようにも思える。真っ白な肌は陶磁のようになめらかで、およそ精気というものが感じられなく、それなのに洋燈をうけてきらきらと輝く藍色の瞳がやけに生々しい。
青年は夜風に吹かれる髪をふわりとはらうと、礼儀正しく一礼した。
「おかえりなさいませ、お嬢様。フィリッツ様、送り届けて頂き誠にありがとうございます」
「いえ、遅くなって申し訳ありません」
フィリッツも律儀に首だけで会釈をしてから、マリアを地面へと下ろした。
レースの裾をふわりとさせて彼女はそのまま軽やかに身体を反転させると、バルトのほうへと駆け寄った。
「ねえ、バルト、お誕生日会の準備は終わっていて?」
バルトが頷くと、彼女の表情はますます喜色に染まる。
「素敵!はやくお父様帰ってこないかしら!もちろん、フィリッツ様もお誕生日会に出てくださるでしょう?」
「え!?いえ、オレは…」
予想外の問いかけに慌てて辞退を申し出ようとすると、彼女は昂揚した頬を思いっきりふくらませて、遺憾の意を示す。
「どうせフィリッツ様は家族水入らずで、とか思ってらっしゃるのですわ」
「もちろんです、家族とは素晴らしいものですから」
当然と力強くフィリッツが頷くと、彼女がつかつかと歩み寄ってくる。何事だとのんびりかまえていると、突然フィリッツの服の裾をぐいっと引き寄せた。かなり力強く引っ張られ、思わず片膝をついてしまう。
そのまま視線の高さが同じになると、少女の真摯な瞳がフィリッツをとらえた。
「…フィリッツ様」
「はい、マリア殿」
「これは命令ですわ、分かっていただけて?」
彼女の瞳の中に剣呑なものを見つけて、ひやりとしたものが背中を流れる。
生唾を飲み込んで、フィリッツは辛うじて頷いた。
「……了解いたしました。お嬢様…」
「素敵!」
そんな胸中など我関せずというように男の了承を受け取ると、少女はぱっと顔を輝かせた。
「お祝い事は人数が多いほうが嬉しいもの!わたくし、先に行っているわね。うんとおめかししてお父様をびっくりさせてやるんだから!」
慌ただしく駆け出す少女の背中を呆然と眺めて、フィリッツはやっと立ち上がった。
「----末恐ろしいな」
独り言のつもりだったのだが、バルトがくっと喉を鳴らすのが聞こえた。
「お嬢様はあのクファシニェフ団長の血を引いてらっしゃるからな、私でも勝てる気はしないさ」
先ほどの慇懃な態度が嘘のように砕けたバルトの口調に、フィリッツは快活に笑った。
「まったくだ。マリア殿に泣かれたら、オレは腹でも何でも切るだろうよ」
「違いない。だがお嬢様はお優しい方だ、フィルが死んだら三日三晩泣くだろうな」
「…ああ、心が痛むことだな」
「先ほどのだって、家族のいないお前を気遣ったんだろう。まったくもってお優しく聡明な方だ、お前にはもったいない」
「もったいないっていうのはどういう意味だ」
フィリッツの両親は幼少の頃に死亡しており、彼は孤児院で育った。両親が駆け落ちした末の子だった為、親戚と呼べる者もおらず、血縁者と呼べる者は知る限りでは一人としていない。それに孤独を感じたことはなく、血のつながりは無いものの、兄弟と呼べる仲間は大勢いた。だが反面、血族の強固のつながりや愛情に、だからこそ、憧れと幻想を抱いていた。
そういう話をこの友人にしたことはなかったはずだが、彼にしてみればその程度のことを想像するのは容易いらしい。
心を読むのかと問えば、曰く「お前がわかりやすすぎるだけだ」と呆れられてしまう。
昔から聡明な友人はそうやって、周りの人間の空気を察して動くのを、フィルは何度も目にしてきた。
そういう自分には出来ない繊細な立ち回りは尊敬しているが、口に出すとつけあがるので言わないでおく。
そんな胸中を知ってか知らずか、バルトはにやりとした。
「お前は親の記憶が無いんだろう?忘れられないよ、お前にはじめて家族のことを聞いた時の、あのうろたえ方。孤児院って言ったらバカにされる、だけど親がどういうものか分からないって泣くんだものな」
「やめてくれ…」
羞恥心で大きな背中を精一杯丸めても、バルトは追撃の口を緩めてはくれない。
「私たちが出会ったのは確か12歳だったか?正騎士養成学校の入学式にお前の親族が来て無くて、私が話しかけたんだったな」
「あの時はまだ幼かったのだ…」
「お前はチビでしかも細くて、なんでこんなやつが騎士になりたいのかと思っていたよ。そのくせ猪突猛進でバカ正直で努力家だった。学問は首席で入学したくせに、剣技その他武術は最下位ってなんの冗談だ」
フィリッツが限界とでもいうように顔を覆ったところで、彼の攻撃は終わったようだ。
笑いをこらえるように肩を振るわせながら、フィリッツの肩を叩く。
返答を促されて、フィリッツはがばっと顔をあげた。
「バルト!お前は昔から性悪だった!」
今度こそ、友人は声をあげて破顔した。