騎士の子
平穏というものが平和と同時にしか存在できないのであれば、それは確実に平和といえるひとときだった。
民衆はその国の政策にどれだけ興味を持ち、愛する心を持っているだろうか。
おそらく、だいたいの平民は国全体よりも自らの生活のほうが大事であり、国の没落よりもその生活水準が守られるのであれば、国王が誰か、国名が何か、そういったことに拘る人間はとても少ない。
貴族のゴシップや、自らに有益な政策には興味津々だが、国防や政策の変更には、あまり興味が無いものだ。
そして、彼もまたそのひとりだった。
豊かな長身に、短く刈り上げた黒髪。猟師が好む麻の衣類の上からも、彼の鍛え上げられた肉体が分かる。よく焼けた肌が、男を上げている。手には猟銃、腰には剣を携えたそれは、猟を生業とする者の証だ。
「フィリッツさま!聞いてらっしゃいますの?」
彼の肩に小さく収まっていた少女が、非難するように口をとがらせた。少女の衣服は襟から裾から何からレースで細工されており、少し乱雑に扱えば破けてしまいそうなほどに薄い布が、幾重にも重なったつくりをしている。緩く巻いている金の長髪を耳の横でふたつに結わき、自作だと思われるちょっと乱れた花冠を、誇らしげに輝やかせている。
その少女は、そばかすが愛らしい頬を精一杯ふくらませ、抗議した。
「マリアはとってもとっても心外なのです。とってもが二回なのでとってもとっても心外すぎるのです」
「マリア殿、そんな言葉どこで覚えてきたのです?」
フィリッツは唇に困ったような笑みを浮かべた。猟師の顔を覗き込み、彼女はにっこりと笑う。
「マリアはもうレディーですのよ。もう大人ですわ。フリィッツさま、マリアに結婚を申し込んでもよい年頃ですのよ」
「この街の騎士団長の一人娘様と結婚なんて、おそれおおくてとてもとても」
「騎士団長はそんなに偉いのかしら?」
「そりゃあもう」
どう説明したらいいものか、このあどけない少女に説明する言葉が見つからず、彼は唸った。
通常、街を納めるのは貴族の領主だ。だが、十年前、当時の国王であった故リーズウェル王は、権力者の腐敗を案じ、貴族と騎士団が相互の監視体制を保ちながら、ひとつの街を運営する体制をくみ上げた。
権力をかさに貴族や騎士がはびこることは、決して少なくない。亡国とは内部の腐敗から始まるのだと、王は常々言っていたという。腐敗や横暴は露見すればもちろん罰せられるが、権力をふるわれる者達にとって、身分の差は絶対なことが多い。家、財産、そういったものを盾にされては、我慢を強いられるケースも決して少なくない。
そこで先王は、ふたつの組織に一方は経済の発展を、一方は治安の維持を、そして一方の有事の際には一方が補填できるよう、権力の一点集中ではありえない堅固な体制を作り出した。
経済の発展や内政に関することは、王族が。
治安の維持や外交に関することは、騎士団が。
この体制の発案により、故リーズウェル王は、賢王の座を揺らぎ無いものにしたのである。
「うーむ。とても凄いとしか言いようがないんですよ」
結局、彼は簡単に説明する言葉が思い浮かばず、そう締めくくった。
「でもでも、恋に身分の差なんて関係ないのですわ。愛は全てを超えるのです」
「だからどこでそんな単語を仕入れてくるんですか…」
眉間に皺を寄せてため息をつくと、頭上から朗らかな笑い声が振ってくる。
そんな言葉を交わしながら、ふたりは街の商店街を目指していた。
日は中天にある。初夏の穏やかな風が頬を撫でるのが、汗ばんだ肌に心地よい。
海沿いにあるこのラスタールは、先王がもっとも愛した街と評判が高かった。石畳は馬車が通りやすいようにと道幅に余裕があり、美しく舗装されている。条例で街の外観を規定し、建物は赤煉瓦で統一されている。夕焼けが様々なものを反射して真っ赤に染められる様は圧巻で、それ目当ての旅行者も多い。
街の中央には巨大な時計塔と、ラスタール城がある。赤煉瓦の中、その城だけは国の国色である白で装飾されていた。
商店街は、交易を目当てとする商人達や、買い物客で大賑わいだった。商人達は思い思いテントを張り、声を張り上げて集客する。驚くほど精密な細工がなされた髪飾りがあれば、どこで採れたのかもわからない極彩色の魚に、見たこともない文字の書籍。異国のものから当地のものまで、一日で見回ることなど到底かなわぬ物量に、観光客達は目を輝かせていた。
「まぁ…!」
マリアも同様に、大きな目を歓喜に滲ませている。
「はじめてですか?ここは大陸中の商人が集まる、国の食卓と呼ばれる市場です」
男は毎日、仕留めた獲物をここで卸す。暇があれば直接テントを張ったりもするし、目新しい情報もここで仕入れる。彼にとっては見慣れた光景だが、騎士団長の令嬢として蝶よ花よと育てられた彼女は、あまり馴染みがないのかもしれない。
喧騒と表現できるほどに騒々しく、目につく全てのものが活気づいている。
男はもっと遠くが見えるように彼女を担ぎ上げると、頭上から感嘆のため息がふってきた。
「すごい…とっても…うまくいえないわ!でもとっても素敵ですごいの!」
彼女があまりにも体を乗り出すので、フィリッツは総レースのスカートをがっしりと掴むはめになった。
「危ないですよ、おてんば姫」
冗談めかして言うと、少女は慌てて佇まいをなおした。
「べっ、べつに!マリアは淑女ですもの!おてんばなんてありえないのですわ!」
ちらりと盗み見ると、耳からうなじにかけて真っ赤に染まっている少女がいた。あやうく吹き出しそうになりかけて、フィリッツは咳払いでごまかした。
「さて、何を探しに?」
「銀細工の胸飾りですわ」
「ほう」
「お父様のお誕生日なのです。お父様はお仕事であまりおうちに帰ってらっしゃらないから、とびっきりのをお渡しして驚かせましょう大作戦ですわ!」
ラスタール騎士団の団長ともなれば、日中夜問わず案件が舞い込んでくるのだろう。寂しそうにベッドで膝を抱える少女の絵が浮かんで、フィリッツは彼女の頭を撫でた。
「団長殿が喜ぶと良いですね」
少女のおこづかいでは購入できる物の質もたかが知れているが、それでも最高のものを見繕ってやらなければならない。
重大な任務だと呟くと、少女がまた笑った。