少女
いつか帰る場所
少女はひた走っていた。鬱蒼と生い茂る森の中、大樹の陰で前方確認もままならない。無数の蔓や枝に足を取られながら、彼女は速度を緩めることなく走り続けた。
肺がキリキリと悲鳴を上げ、心臓は握りつぶされるように痛む。切迫した表情は極限まで強ばり、血の気がひいていた。体中に切り傷を負いながら、彼女は取り憑かれたかのように疾走している。
少女は絶体絶命の窮地に追い込まれていた
後頭部で束ねた長髪は無残に乱れ、仕立ての良い衣服は見る影もなく破れている。
これを追いかけるのは、三人の男達だった。こちらは山歩きに慣れていないようで、あちこちに何かをぶつけるような音や、仲間内で連絡を取り合う怒号が聞こえる。
とても穏やかではない。
まだ成人になるにはほど遠い少女が、こんな夜更けに一人で森に入るのもおかしければ、そんな少女一人に大の男三人で追い回すのも、尋常ではない。
追いはぎの仕業であれば、なんという素人だろうか。
逃げた獲物を追いかけるのに、物音を殺すことをしないのは、自分たちの居場所を教えているようなものだ。加えて、逃げたら逃げたで放置すれば良いものを、執拗に追いかけるのは、「少女を決して逃がせない理由」があると明言しているようなものである。
そして少女も、これを十分に承知しているからこそ、限界を感じながらも遁走しているのだ。
だがそれでも、華奢な少女の足では、男三人から逃れることは難しい。徐々に近づく怒声に、背中の産毛が焼けるような焦燥感を覚える。
「いたぞ!こっちだ!」
背後から、松明で照らされたのが分かった。男達は圧倒的な力の差で、周囲の枝葉を蹴散らし迫ってくる。
絶望の淵に立たされて尚、彼女走り続けた。もうすぐ後方で、敵の足音が聞こえてくる。今にもその剣を振り上げ、少女の背中を切り裂くだろう。白い衣類を鮮血に染めて、彼女は毒刃に倒れるだろう。
そして今まさに、刃が月光を受けてひるがえった、その時。
ひどい衝撃が、彼女を襲った。盛り上がった木の根に足をとられ、前のめりに転倒したのだ。
少女は愕然とした。
もう、立つことはできない。
信じられない気持ちで、彼女はそれを認めた。内臓も脚も何もかも、限界だったのだ。筋肉が痙攣し、肺と心臓が臨界点を突破していることを訴える。体中が熱いのに、腹の奥がひどく底冷えしている。命乞いをすることもできず、喉からは空気が掠れたような音しか出なかった。
このような場所で落命する、絶望の極みに、彼女は立った。
それでも彼女は震える筋肉に鞭打ち、体を反転させた。
すぐそばの幹に、敵の刃が突き刺さっているのが見える。目の前には、簡素な革の衣服に身を包んだ髭面の男が、冷徹な目で自分を見下ろしている。やがて男の仲間がここへたどり着き、今度こそ、あの凶刃が彼女の胸を貫くだろう。
「私は…、死ねないのよ…っ」
切れ切れに、彼女は喘ぐように言った。
死にたくない、ではなく、死ねないのだ。
死への恐怖ではなく、自らが死ぬことによって何が起こるか、その事実が恐ろしかった。
だが男達は、そんなことは露程も知らないようだった。あるいは知っていても、意に介さないとでもいうのだろうか。
目の前の男が、幹から剣を引き抜く。月光をうけて、それは不吉に光った。
「あんたにはまぁ、不運だったとしか言いようがねえよ」
彼女を斬りつけようとした男が、不憫そうに言った。
「ああ。あんたにゃ恨みはねえけどよ、あんたを殺せば家族に良い暮らしをさせてやれるんだ」
追いついてきた後ろの男達が、彼女に駄目押しをする。
少女は怯えるように後ずさるが、太い幹が後退を阻む。それ以上はもう何をする気力も無いらしく、少女は荒い呼吸を繰り返した。
最初の男が、ゆっくりと腕を振り上げる。
「悪く思うなよ」
その言葉をかわきりに、凶刃が振り下ろされた。