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2-1

 次の日も、前日とほとんど同じような一日だった。

 授業の合間に横川たちと雑談をして、昼休みはカフェテリアで食事をともにする。

 部活を決めたのかと問われ、まだ運動部しか見ておらず、今日は文化部を回るつもりだというウソに、また少し、心が削られた。

 一日の終わりにあるショートホームルームのあと、担任から資料整理の雑務を命じられ、愕然とした。

 教壇に近い席だったからだろうが、最初からこうなることがわかっていれば、横川たちからの誘いを断るための、貴重な言い訳を一つ、無駄に消費しなくて済んだのに――。

 スーツの背中を見ながら、こんな些末な悩みを持つ高校生は、日本中探したっていないのだと思うと、心底悲しくなった。

 初めて入る職員室。中ではFMラジオが流れていた。放課後ということもあるのだろうが、中学のときには考えられなかった環境だ。これも自由な校風の成果というわけか。

 壁伝いに進み、部屋の一番奥、間仕切りで囲われた場所へと連れられる。

「ちょっとここで待ってて」

 長机のそばの椅子を指さして姿を消した彼は、しばらくしてプリントの束を手に戻ってきた。

「全部で七種類。それぞれ、クラスの人数分あるんだ。分けてクリップで留めてくれるか。まだコピー中のやつもあって、終わり次第、持ってくるから。悪いな、あとでジュースおごるからさ」

 どう短く見積もっても一時間はかかりそうで、つまりは、時給百五十円の労働ということだ。

 まあいい。担任に貸しを作っておいて損はないだろう。

 ヒットチャートをBGMに、作業を始めてしばらくしたときだった。

 目隠しのすぐ向こうは、教師たちの席が並んでいて、雑談やひとり言が時おり聞こえていたが、それに混じって生徒の声がした。

「入学早々、色々とご迷惑おかけしました」

 式からまだ三日目。いったい何を謝ることがあるのだろうかと、ぼんやりと考え、だが、どうしてか、その疑問より別の気がかりがあるように思えた。

 内容が謝罪だったにもかかわらず、軽い口調だったから、だろうか。

 機械的な作業をしているせいか、思考が深まらない。

 学校に迷惑をかけることの一覧を思い浮かべている間に、初回分の仕分けが終わる。

 それから五分ほど、追加が来る気配がない。

 時間つぶしにと、高給アルバイトのページを開き、応募すべきかを真剣に悩んでいたときだった。

 集中していたせいだろう、周囲への注意力が散漫になっていたのだと思う。

 人が、それも間近に迫っていたことに、その瞬間まで気づかなかった。

「自分、何考えてるんや。よくもまあ、そんな怪しげなことに、手を出そうと思うわ」

 すぐ背中で声がしたことに驚愕した。

 いかがわしい仕事であることは薄々理解していて、それを検討していることを、倉女の生徒に知られたという事実に、猛烈な恥ずかしさを感じたのが最初だ。

 大慌てで携帯の画面を消し、言い訳が頭を巡る。

 うしろに振り返ろうとした直前、今、話しかけてきた人間が、少し前に教師と会話していたのと同じ人間で、その言葉が標準語でないことに意識が向いた。

 関西弁の少女――。

 ある人物の顔を連想するのと、斜めうしろにいた女子生徒を見とがめたのはほとんど同時だった。

 過去と現在。牧場と学校。時空を超えて、二つの面立ちが一致する。何の準備もなく訪れたその事態に、声量の抑制が利かず、職員室の隅々まで響き渡る程度の大声を出してしまった。

「赤坂さんっ!」

 仕切りの向こうが一瞬静かになる。慌てて口を手で押さえた。

「あらら。再会をそんなに喜んでもらえて、ちょっとうれしいわ」

 牧場のときと同じく、きっとハグされるのだと、とっさに身構えたが、彼女は小さく微笑み、軽く肩に手を置いただけだった。

 何だ、その冷静な対応は。

 あのときとは比べ物にならないほど、劇的な状況ではないか。少なくとも衿奈の中ではそうだった。

 その態度に落胆し、急速に頭が冷えたとき、彼女から数メートル離れた壁際に、生徒があと一人、立っていることに気づいた。

 長い髪の、いかにもお嬢様タイプ。リボンの色は同じく一年で、会話している二人ではなく、廊下側の窓をぼんやりと眺めているのは、衿奈たちに興味がないのではなく、あえて見ないようにしているのだと、なぜかそう思った。

 もっとも、見知らぬ人間に注意を払ったのはわずかの時間だ。

 今は、目の前にいる彼女に、最大限、注力すべきときだ。

 これまでに蓄積された疑問や文句が、それなりの数、胸の中にあるのだ。

 再び会えることを想定しておらず、優先順位を付けていなかったせいだろう、最初に口をついたのは、そんな中でもかなりつまらない内容だった。

「何組なの?入学式とか出てた?」

「C組、や」

 見間違いでなければ、彼女はうしろに控えている女子を気にしながら短く答えて、それから衿奈に視線を戻した。

「そっちは、部活もう決めた?まさか入部してしもうたとか?」

 もしそうなら仕方ない、とそんな軽い言い様に、相手との間にある温度差をはっきりと意識し、それが苛立ちへと即座に変貌した。

「それも含めて、色々聞きたいことあるんだけど」

 興味がないのは、こっちだって同じだと、そんな振りをしようとして、思わず強めの口調になってしまったことに、言った本人が驚いた。

 壁際の女子が、目線だけで衿奈を見る。

 赤坂は、少しだけ怯んだ表情を見せたあと、後方を気にしながら、小声でこう言った。

「それやったら、とりあえず、カフェテリアにでも行かへん?」

 相手に深い意図はなかったはずだ。だが、一度うしろ向きになった精神状態は、そんなにすぐに解消しない。

 部活もしておらず、友達もいないお前なんかどうせヒマだろうと、衿奈の中で、そんな歪んだ解釈へと変換される。

 そもそも、初対面の他人に抱きつける感性の持ち主のくせに、ずっと何かに気遣っている態度が気に入らない。

 どうやらその対象であるはずの長い髪の女子は、後ろ手を組んだまま、手持ち無沙汰にしか見えないが、赤坂が紹介する気配も、自ら会話に参加しようというそぶりもない。

 小さな不快感と、新たな疑問が冷静さを侵食する。

「今はちょっと無理。先生から仕事、頼まれてるから」

 机に指を向け、事務的な話題でどうにか平静を保とうとしたが、今度は、不機嫌がはっきりと相手に伝わってしまったようだ。

 赤坂は「えーと」と口にして、困惑した表情を見せた。

 ラジオから聞こえる場違いな笑い声。

 周囲の気圧が高くなる。

 ただでさえ無謀な進学の中、数少ない知り合いとの関係を気まずくしてしまった事実に気づき、激しい後悔に襲われたとき、担任が姿を見せた。

「すまん、待たせたな。これで残り全部だから。終わったら、声かけてくれ」

 彼は赤坂を一瞥したあと、コピーしたてなのだろう、熱さを感じるA4用紙の塊を机にドンと置き、姿を消した。

 第三者の介入で、その場の空気がわずかに弛緩した。状況を立て直すなら今しかないと思ったとき、先に口を開いたのは向こうだった。

「えらい多いな。うちも手伝おうか?」

「それは助かるけど――いいの?」

 衿奈が壁のほうを見ると、赤坂は、謎の女子に向き直った。

友利愛(ゆりあ)。今日はもう帰ったら?先生に頼まれた作業、そこそこ時間かかりそうやし」

 やはり同伴者だったらしい。

 ただ、衿奈に話すのとは明らかに異なる声調だ。

 友利愛と呼ばれた美少女は、ひと言も発さずに、くるりと背中を向け、音も立てずに姿を消した。

 それを見た赤坂が、安堵したように大きく息を吐く。

 いったいどういう関係だ。

 疑問が顔に出ていたのか、彼女は衿奈を見て、小さく笑った。

「うちと同じC組の江木(えぎ)友利愛。一緒に入学した大阪時代からの――友達や」

 最後の一呼吸はなんだ。

「一緒に入学の意味がよくわからないんだけど。っていうか、赤坂さん、入試、受けてた?わたし、会場で結構な時間をかけて探したんだけど、見つけられなかったんだ。もしかして、西日本は別の受験会場があったってこと?」

 二人きりになったこともあって、これまでの思いが、脳の指令を無視して口から流れ出た。

 それを見た彼女は楽しそうに笑った。

「わかったわかった。とりあえず、仕事に取りかからへん?結構な量あるやん」

 作業を再開して間もなく、赤坂がどこかためらいがちに持ち出した話題は、衿奈がなかったことにしたい内容だった。

「自分、お金に困ってるん?」

 そうだった。

 あのバイトを調べていた姿を、目撃されていたのだ。

「わたしの家は貧乏ってわけじゃないと思うけど――ここの人たちと比べたら、全然余裕はないんだと思う」

 恥ずかしさで、語調が弱まる。

 彼女はすぐに返事をせず、やがて、どこか気の毒そうに口を開いた。

「まあ、家庭の事情は人それぞれやし、うちが口出しするのもどうかと思うけど。援交はやめたほうがええんと違うかな」

 一瞬、聞き間違いかと思った。

 その単語の意味を知らなかったわけではない。仮にも、応募まで検討していた仕事が、その分類だとは微塵も思っていなかったのだ。

「あれって……そういうこと?でも、ただお喋りするだけだって。会うこともないし、顔も見せなくてもいいって――」

「時給、いくらやった?」

「三千円……」

「そんな金額、大人の男に払わせるくらいの話術の力量が、女子高生にあると思うんか。吉本で芸歴五年の人でも、そこまで稼げへんと思うわ。前に兄貴とそういう話になったことあって、聞いたんやけど、ああいうのって、最初は緩い感じで始めるみたいよ。それで、何回かやり取りして、ちょっと安心したあたりで、喫茶店で会うてくれたら一万円って誘われるんやて。断れる?」

 次はカラオケボックスになり、手を繋ぐことになり――。抵抗感を少しずつ和らげながら、そして、段々と金額も高くなっていくのだそうだ。

 絶対にそんな手法に乗らないと、言い切る自信はまるでなかった。

 数字に目がくらんでいただけだ。それ以外の不都合な事実には、目を向けようとしていなかっただけなのだ。

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