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1-2

 助手席に座った子が、「高崎駅まで」と告げたのだ。学校の最寄り駅から、JRで三つも離れている。

 財布には二千円しか入っていない。それでも、昨年までの一ヶ月分の小遣いだった。

 倉女に通うことになり、両親が、おそらくはかなり無理をして、金額を五千円に増やしてくれたが、一日で大金を使うことなど、想定していない。

 料金メーターがはっきり見える後席の真ん中に座らされ、渋滞でほとんど進まないときにも、金額が上がることに、殺意を覚えた。

 目的地まで三十分ほど、金額は四千円で、どうにか一人千円だ。

 停車と同時に財布を取り出そうとしたその動きを、横川は制した。

 彼女が指で示すほうを見ると、助手席の女子が、クレジットカードでタッチ決済を終えたところだった。

 降りたあとも、誰もそのことを話題にする気配がない。

「あの、タクシー代――」

「また今度でいいよ」

 まるで衿奈が何を気にしているのか、わかっているかのように、そして、そんなことは些事だと言わんばかりに、支払った子は手を振った。

 どうやら千円は大した金額ではない、ということのようだ。

 これからどこに連れられるのか、できればファーストフードであってほしいと願っていたが、試練はさらに続く。

 彼女たちが向かったのは、落ち着いた雰囲気のカフェだった。

 屋内なのに、やたら植物が多い。広い空間を無駄に使った席の配置。親とも入ったことのないような場所で、一度は解放された緊張に再び襲われた直後、メニューを見て、失禁しそうになった。

 一番安い値段が六百円だったのだ。

 三人は、飲み物の他に、ケーキやアイスを迷わず注文している。

「渡瀬さんは?」

 瞬時に計算し、もっとも安い組み合わせの一人と同じものにした。ただ、それでも合計が千八百円。

 時間は十一時前だ。このあと、ランチに誘われたときの言い訳を、泣きそうになりながら考えていると、いつの間にか会話が途切れ、全員の顔が衿奈に向いていた。

 直前の質問――。

 確か、「渡瀬さん、中学のときモテたでしょう?」だったような。

「部活にも入ってなかったし、男子はもちろん、女子にも仲のいい友達はいなかったんだ」

 正直に答えたにもかかわらず、隣に座っていた横川が再び腕に抱きついてきた。

「謙遜なんかしなくてもいいのに。黒のストレート、きれいだよね」

 そう言って肩口の髪先に手を触れた。

 高校入学に向け、雑誌で調べた美容院で髪を切ってはいた。

 倉女は、制服以外に目立った制約はなく、染めていないのは、単に金銭的な理由だ。

「中学で禁止されてたから、そのままなんだ。そういえば――みんなは、前からの知り合いなの?」

 流行りの髪色の三人を見ながらそう言うと、彼女たちは同時に首を振った。

「朝、駅から一緒にタクシーに乗った仲なんだ」

 どうやら車内で意気投合したらしい。

「そうなんだ。バス代、高いよね。何人かで乗ったら、そっちのほうが安いくらいか」

 そう言うと横川が、驚いた表情を見せた。

「スクールバスって無料じゃないの?」

「え。スクールバスなんてあった?」

 どうやら大学側が運行しているらしい。そのせいで、高校の学校案内には記載がなかったのだ。

 ああ、神様!

 これで毎日歩かなくてすむ。

「そんなの、よく知ってたね」

 どうやら、三人のうちの一人の姉が、大学に在籍しているらしい。

 その彼女に部活のことを尋ねると、数自体は多いが、どこも全国で活躍するようなレベルにはないはずだと言った。

 衿奈の中での赤坂の存在が、また希薄になる。もう二度と会うこともないのだろうか。この学校に入るよう、導くためだけの妖精だったのかもしれない。

「それでさ、朝に渡瀬さんにからんでたやつ、いるでしょ。あいつ、結構有名人みたいよ」

 そこで、横川からこの場に誘われた背景が明らかになる。

 朝、三人が、学校に着いたとき、衿奈が例の不良と組み合っていたところを見たのだという。

「この学校にあんなヤンキーがいたこともびっくりだけど、それよりも、三年相手に、まるで引いてなかった渡瀬さんに感動したんだ。何て凛々しいんだろうって」

 なるほど――。他人の目にはそんな風に映っていたのか。

 どうやら彼女たちは、衿奈を、上級生の暴力にも動じない冷静な美人、という位置づけで扱ってくれているらしい。

 さらに驚いたことに、入試の成績で上位十人に入っていることも、声をかけた理由だという。

「えー……と。わたし、自分の点数すら知らないんだけど。どこ情報なの、それ」

「席順だよ。右の前から横向けに成績順なんだ」

 もちろん、そんな事実が公式に発表されたことは過去、一度もない。長い歴史の中で、先達が集めた統計からの類推だそうだ。

 衿奈は最前列の右から三つ目だった。

「三クラスあるから、七番から九番のどれかってことだよ」

 確かに、「わ」から始まる名字なのに、三番目というのは不思議ではあったが。

 その伝承が本当なのかどうか、もはや重要ではない。クラスメートたちがそう信じた段階で、真実に昇華されるのだから。

 それからの会話は自然と弾み、カフェを出たのは昼を過ぎた頃だった。

 幸い、一人が用事があるからと、そこでお開きになる。

 同じ方向に帰る人間はおらず、ようやく一人になり、大きく息をついた。

 初日は、幸運な偶然が重なり、身に余る待遇を得ることになったと言えるだろう。それと引き換えに、たった半日で、精神的な疲労が、過去に感じたことのないレベルに達していた。

 それだけではない。下り電車の中、開けた財布からはお札がなくなっていた。

 横川はきっと育ちがいいのだろう。見た目は派手だが、金持ちぶることがなく、友達としては申し分なさそうだ。

 ただ、そんな打算とは別に、あの金銭感覚には到底ついていけそうにはない。

 三人は、部活に入るつもりはないと話していた。

 すなわち、このままでは、きっと毎日帰りが一緒になり、三日で資金は底をつく。

 もし、誘いを断ったら?

 分不相応に持ち上げられ、そこから仲間外れにされたときの絶望など、考えたくもない。それなら、最初から輪の外にいたままのほうがずっと良かったのだ。

 いっそ、不良に土下座でもしておけば、こんな展開にはならなかっただろうか――。いや、それはうしろ向きにすぎる。

 今の立場を維持するための方策はおそらく二つ。

 部活に入り、彼女たちと行動する機会を減らすか、あるいは使える金を増やすか、だ。

 入学が決まった日の夜、廊下で聞いた、両親の会話が頭によみがえる。

「入学金、高いよなあ。中古ならBMWが買えたよ」

 父はそう言って笑っていたが、半分以上、本心だったに違いない。

 帰宅したのは一時過ぎだったが、誰もいなかった。この三月から、弟が学校にいる時間、母はパートに出るようになっているのだ。

 ダイニングに、昼食の準備だけがされていて、無人の空間が、家族への呵責を増大させる。

 一人、昼を食べながら、気づいた。

 仮にどこかに入部するにしても、そこでまた、付き合いが発生してしまうのではないか。

 帰る時間が三時間ずれるだけだ。逆に、夕食に誘われてしまう可能性すらある。

 部活も、労働の経験もない人間が、その二つを両立できるはずがなく、つまり、衿奈に残された選択肢は一つだけになった。

 これから七年間、周囲と同程度の生活を維持するためだけに、アルバイトし続けなくてはならない、ということだ。

 部屋に戻り、携帯を取り出して、求人サイトを開いてみた。ただ、高校生向けは多くなく、いくつかの大手サイトを比較しても、これという仕事は見つからない。

 気づくと、外は真っ暗だった。階下で母と弟の声がする。

 これで最後にしようと開いたページ。表示された結果に息をのんだ。

 時給ではなく、十分で500円とあったからだ。

『スマホがあればどこでもできます。男性とお喋りするだけのお仕事。高校生可』

 経験者の体験談も併載されていた。

 友達と話している感覚、だとか、逆に愚痴を聞いてもらった、など。カメラの向きを調整すれば、顔を出す必要すらないのだという。

 時給に換算すれば三千円だ。週に一度、土日のどこかでたった二時間、話をするだけで、今の小遣いの五倍近くになる。これなら、部活をしながらでもできるだろう。

 横川たちの前でタクシー代をさっそうと出すことも、あのカフェで、みんなとお喋りすることも可能になるのではないだろうか。

 応募のページに移動し、記入項目を確認していたとき、母から夕食の声がして、ひとまずブックマークをして閉じた。

「学校、どうだった?」

「一緒に帰るくらいの知り合いは出来た、と思う」

 衿奈の返事に、肩の力が抜ける母を見て、タクシーに乗ったことも、カフェに入ったことも、伝えることができなかった。

 もちろん、アルバイトについて相談できるはずがない。

 元はと言えば、衿奈のいい加減な思いつきが原因だ。レンジで温め、皿に移し替えただけの冷凍食品を無邪気に食べる弟を含め、これ以上家族に迷惑はかけられない。

 残業で遅くに帰宅した父にも、当たり障りない報告をして、結局、名門校の一員になれた感慨に一度も浸ることなく、長かった一日目を終えた。

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