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1-1

 入学式の朝。

 姿見の前で一回りした。

 憧れの制服を着ていることに、心がフワフワする。

 過去に完全私服が検討されたことがあるらしいが、もしそうなっていたなら、毎朝、コーディネートに悩むことはもちろん、裕福な家の子たちと、圧倒的な差が出てしまっていたに違いない。

 いつもは朝の挨拶を億劫に感じているが、今日は家を出たあと、近所の知り合いと遭遇しないか、期待していた。

 改札を通るとき、軽く緊張する。定期券が三ヶ月で三万円近くだ。万が一にも失くすことなどできない。

 電車に乗り込んだあと、他校の生徒が楽しげに話す姿を見て、急に不安になった。

 育った環境に差がある人間たちばかりの中で、友達ができるだろうか。

 中学のときも、金持ちの家の子はいたはずだし、だが、それが人間関係に影響を与えていたとは思わない。頭では理解していたが、目的地が近づくにつれ、心がどんどんうしろ向きになっていく。

 学校の最寄り駅に着いたのは、予定より一時間早い時間だった。同じ制服の生徒は数人しか見当たらない。

 ここから学校まで、バスは一時間に一本だ。しかも、乗れば十分の距離に350円もかかる。

 自転車を駅に置くことも考えたが、雨の日は使えず、それならと、五十分の距離を気合いで歩くことに決めていた。

 誰かに聞かれたときには、運動が苦手で、体力づくりのためだと答える準備もしてある。

 だが、行程の半分ほど、烏川(からすがわ)を超えたあたりで、そうそうに心が折れそうになった。

「参ったな。これを往復、七年間も続けることになるのか。何かのオリンピックに出場できるよ」

 先を想像して、気が遠くなる。ようやく学校にたどり着いたときには、帰りはバスを使うことしか考えられなかった。

 入学式だというのに、早い時間のせいか、あるいは敷地が広いからか、人はまばらだ。校舎の前の一カ所にだけ、数人が集まっている。どうやらクラス分けが発表されているらしい。

 同じ中学から来た生徒はいないはずで、知り合いは、最大で一人だけ。緊張も期待もなく、掲示板を眺める。

 最初のA組に、衿奈の名前を見つけた。だが赤坂という文字はない。

 残りを確認しようと、B組の前に移動したときだ。

 目の端に、何かの異物を探知した。自然に顔がそちらを向く。

 視線の先に見えたのは、二人の生徒。緑のタイの色は確か三年だ。

 目を引いていたのは、そのうちの一人、あまり手入れのされていない、ブラウンのロングヘアーの女子だ。風に桜が舞う中、終電前のサラリーマンのように、着崩したブレザーでルーズなネクタイ姿。シャツの胸元も大きく開いている。スカートはスネのあたりまでの長さで、まるで、不良少女の役を演じて下さいと頼まれた新人役者のような出で立ちだった。

 お嬢様学校と名高い倉女に、こんな風貌の人間がいることに心底驚いた。

 目が釘付けになる、とはこういう状態を言うのだろう。思わず見入ってしまい、だが、それが災難を呼び込むことになろうとは、微塵も予想していなかった。

 一点を見ていた必然の副作用として、本人と視線が交差する。

 相手もそれに気づいたのだろう、目つきを鋭くしたかと思うと、速歩で、まっすぐ衿奈に向かってきた。

 しまったと思ったときには、すでに手の届く距離に迫っていた。

 好意的な気配ではないのは明らかだったが、とはいえ、入学式の日の新入生相手だ。

「人の顔をじろじろ見るのはよくなくってよ」

 その程度の注意を受けるのだろうと、甘く考えていた。

「あの、何かご用ですか?」

 素直に謝るか、見ていない振りでもしておけば良かったと激しく後悔したのは、その直後だ。

「てめえっ。誰を見てやがるっ」

 不良少女は、衿奈の胸元をぐいと掴んだかと思うと、三流ドラマの喧嘩の場面のような台詞を大声で叫んだ。

 一瞬で、涙が眼球に溢れる。

 突然やってきた危機が理性を放逐したからだと思う、続けて放たれた言葉が理解できなかった。

「お嬢に色目を使っても、いっさい無駄だからなっ」

 上級生を怒らせた恐怖と、それを周囲の人間に見られた恥ずかしさで、走って逃げ出したくなったことだけは確かだ。

 だが、実際には、脚が震えて動かない。

 あとから考えれば、許しを乞うことが最善手だったのだろうが、極度の緊張で頭がおかしくなっていた可能性がある。あるいは、長時間歩いた疲労で、自暴自棄になっていたのかもしれない。

 無意識にその手を掴み、口をついたのは、不条理なこの状況への反骨心だった。

「わたし、何も悪いことはしてません。離して下さい」

 予想と違う反応だったのは、きっと相手も同じだ。その頬がみるみる赤みを増す。息を大きく吸うのを見て、殴られることを覚悟した。

 もしそうなったら、退学しよう。ここを選んだことが間違いだったと、神様がそれを教えてくれたのだ。

 文字通り、歯を食いしばったときだ。

深紗(みさ)、やめろ。新入生だぞ」

 彼女に連れ立っていた女子が、遅れてそばに駆けてきたかと思うと、そう言って、衿奈を掴んでいた不良の手を強い力で引き離した。

「すまない。こいつは被害妄想が激しくてな。悪気はないんだ。許してやってくれないだろうか」

 まさかの、地獄に現れた救世主だった。

 秘書が付けるようなメガネと、その言葉遣いから受ける印象は、知的で理性的。隣の女子とは対極の世界の住人だ。

 ほっとするのと同時に、体が弛緩した。

 涙が頬を伝い、慌ててそれを指で拭うと、仲介役の上級生は、ポケットからハンカチを素早く取り出し、そっと衿奈の頬に当てた。

「これ、良かったら使ってもらえるだろうか。お詫びにもならないけど」

「お嬢、やめてくれ。まるであたいが悪者みたいじゃないか」

 何の非もないほうから下手に出られ、悪人からは、あたい、などと漫画の中でしか見たことのない一人称が聞こえる。

「本当に悪かった。今度、お昼でもおごらせてほしい」

 頭の中の混乱が加速する中、お嬢と呼ばれた彼女は、優しく微笑み、返事をできないでいた衿奈の手を軽く握ると、不服そうな相方を強引に引き連れ、去って行った。

 しばらく、そのまま動けなかった。

 いったい――何の洗礼だったのか。

 ようやく意識が戻ったのは、バスが走り去る音とともに、大勢の生徒の声が遠くに聞こえたときだ。

 泣き顔を見られるのが恥ずかしく、小走りにその場を離れた。

 教室で席に着き、最近お気に入りの歌を一曲、脳内で再生し終えた頃、ようやく鼓動が通常の速度に落ち着いた。

 冷静になるまでもなく、衿奈に非がないのは明らかなはずだ。とはいえ、あのガラの悪い上級生が卒業するまであと一年もあり、再び遭遇する可能性は低くない。次に見かけたとき、回避するのか、文句を言うべきか。

 周囲で華やぐクラスメートと比較して、余計な悩みを与えられた理不尽さを感じて間もなく、前方の扉が開いた。

 担任は四十代くらいの男の教師で、だが、やる気のなさそうな彼は、新入生向けの連絡事項を事務的に伝える。

「次は、お決まりだけど自己紹介な。出席番号順に頼む」

 そのけだるげな空気感を引き継ぎ、最初の女子が、出身中学や部活のことを短く話す程度にとどめてくれたおかげで、三番目だった衿奈も、目立つことなくやり過ごすことができた。

 初日最後の行事は入学式だ。

 講堂への移動中や、式で訓話を聞く間、他のクラスの生徒を注意深く観察したが、やはり赤坂は見つけられない。

 出会ったときの雰囲気であれば、すぐに目につきそうで、となれば、本当に入学していないのかもしれない。

 謎が永遠に解消されないことになるのかと、失望しているうちに、すべての式次第が滞りなく終わってしまった。

 散会となって外へ出る。行きもそうだったが、多くの生徒たちが雑談をしている姿が目につく。

 全国から人の集まる学校だというのに――。元からの知り合いだったのか、朝の短い時間に声をかけ合ったのか。

 人付き合いの得手不得手は、一生のうちにどれほどの格差を生じさせるのだろう。

 戻った教室で帰り支度をしながら、初日の出来としては、60点くらいかと考えていたときだ。

 三人の生徒が楽しげに近づいてくるのが見えた。

 周囲を見回したが、衿奈以外に人がいない。

 いったい何の用かと頭を猛回転させ、「クラス委員に立候補するから投票して」という、要請であることに落ち着いた。

 果たして、彼女たちは衿奈の目前で立ち止まる。口を開いたのは、真ん中にいた子だ。背は衿奈より低めだが、遊び慣れた雰囲気で、胸元に見えるネックレスが、いかにも高級そうだった。

渡瀬(わたらせ)さん、今日、これから予定ある?」

 まさか名前を呼ばれるとは想定していなかった。大急ぎで自己紹介のときの記憶をたどる。

「確か、横川(よこかわ)さん、だったよね。予定は――特に何もないけど」

「うれしい。名前、覚えててくれたんだ。今からお茶するんだけど、一緒に行かない?」

 質問の形式だったにもかかわらず、彼女は答えを聞くことなく、衿奈の腕を取り、先を歩き出した。

 初日だというのに、残りの二人もすっかり打ち解けた様子で、あとをついてくる。

 名指しで誘われる理由に覚えがない。

 とはいえ、いじめられるいわれもなく、ただ戸惑った。

 正門を出て、前の通りに出てしばらく、一人が車の流れに手を挙げ、ぎょっとした。

 まさか、駅までタクシーで行くつもりか。バスで十分の距離だ。四人で割っていくらになるのか、計算しようとしたが、タクシーの料金がまるでわからないことに気づいて、背中を汗が流れ落ちた。

 だが、真の恐怖はそこからだった。

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