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8-3

 午後、残りのレース数もわずかになり、賭ける金額がどの学校も増え始める。

 6Rは、中野を含めて的中者がなく、減った金額の差で、倉女が宝塚南を抜いて、再び僅差の3位になった。

 7Rは、細谷の二度目だ。

 全馬が関東馬で、情報が活きたのだろう、3番人気から8点流しの馬連を300円買い、的中させた。

 倉女として、日曜日初めてのプラスは、4500点だ。4位の宝塚南を7000点以上引き離しただけでなく、篠塚以降、的中のない新千歳を4000点抜いて、2位に浮上した。

「良かったじゃない。東京で大会の続きがあるんでしょう?一緒に行けるかもね」

 軽い口調に、「そうだね」と、どうにか相づちを打ったものの、次の8Rは月夜だった。

 予選通過圏内に復位した状況で、彼女の心境を推し量ると、気が気ではない。

 その決断に注目して間もなく、モニターに予想が表示された。

 三連複の22点買い。しかも一点あたり、300円を投じる、攻めた内容だ。

 ここで一挙に突き放したいと、そんな思いが透けて見える。

 過去にないほど、レースに集中した。

 ゲートから彼女の軸馬だけを追い、3着に入ったとき、思わずガッツポーズをした。馬券が的中したことを知って、飛び上がりそうになったが、配当を見て、現実に引き戻された。

 10.6倍しかなかったのだ。差し引き、3400円のマイナスだ。

 ただ、まだ2位は維持している。

 9Rと10Rはともに北原が担当したが、三連単がどちらも十万円を超える難解なレースで、全校が外れだった。

 習志野の、渋川のチームメートは、リードを守るためだろう、ずっとお賽銭で、もはやトップは揺るぎない。

 3位の新千歳と僅差のまま、いよいよ、日曜日のメインレースになった。

 新潟2歳ステークス。投票と配当の上限がこれまでの倍になる。

 渋川は、お昼のあとはずっと、部屋に置かれていた新潟県の旅行誌を熟読し、ときに何かをメモしていたが、おそらく前日から決めてあったのだろう、タブレットを手にすると、悩むことなく予想を打ち込んだ。

「じゃあ、私行くから。せいぜい頑張ってね」

 一人になり、また不安が襲ってきた。

 月夜の予想と、その結果が気になって仕方ない。

 だが、レースを見ていては、最終のパドックに間に合わない。時計を気にしながらモニターの前をうろうろして間もなく、全校の予想が公開された。

 それまでマイナスだったほとんどの学校が、上限一杯までを投入しての三連単だ。

 なるほど、これで大きく当たるところが出てしまえば、この大会の趣旨がぼやけてしまう。配当に制約をかけることには、意味があるのだ。

 渋川はまた三連複だった。2位の新千歳と15,000点も差があるトップで、お賽銭でも問題ない状況だというのに――。無欲というか、平常心というか。

 対して、月夜は七頭を相手にした三連単一頭軸マルチで、126点の買い目だった。人気薄がくれば、ここで1位を逆転できる。ただ、外れれば、トータルでマイナスに落ちる。そんな不安が、画面を通して伝播したように思えたのはさすがに思いすごしだろうか。

 こんな精神状態で、馬の声が聞ける気がしない。

 気持ちを整えるきっかけを見つけられないまま、重賞競走の特別なファンファーレが鳴り、慌てて部屋をあとにした。

 パドックでは、すでに馬たちが周回を始めていた。声を聞こうにも、心がざわついたままで、まるで集中できない。

 それだけではなかった。胸の中に小さくあった弱気が、いつの間にか、その姿を大きくしていたのだ。

 それは、もう十分かもしれない、という、あきらめに似た感情だった。

 一度だけとはいえ、大きな配当を的中させた。倉女の中では一番の成績だ。

 そうだ。

 北原たちだって外しているのだから。

 そう考えると、少しだけ気が楽になる。

 深呼吸を二度したときだ。

 衿奈のななめうしろから人の気配がした。

 首だけ振り向き、心臓が止まりそうになった。

 神々しいほどの光を身にまとった人間が一人、そこに立っていたのだ。

 もちろん錯覚だ。後光が差すなどという現象は、物理的にあり得ない。だが、実際、そう見えた。

 彼女が、きっとあまりに自信にあふれていたからだと思う。

「敷島さん……」

 知らぬ間に口がそう動いていた。相手は目線だけで、それに応じ、そしてわずかに口角を上げた。

「土曜の1Rで、すごいの当てた人、だよね」

 好きになったっちゃ、と書かれたTシャツを着た彼女は、あどけない口調でそう言った。

「博多弁が好きなの?」

 思わずそう聞くと、彼女はうれしそうに胸元に視線を落とす。

「可愛いでしょ。札幌は方言がないからつまらないんだ。向こうの学校に行きたかったな」

 そう言って少女のような表情になった。

 天才と呼ばれ、実際、高配当を次々に獲得してきた人間とはとても思えない素朴なたたずまいだ。確かに、どこか浮世離れはしているが、近づき難いという雰囲気とも少し違う。

「パドックとか見るんだね。AIに計算させてるって聞いてたんだけど」

「それはその通り。だから予想も一秒かからない。でも、それじゃつまらないでしょ。せっかく競馬場に来てるんだから」

「そっか。今日、このあとサッカー観戦なんだよね」

 篠塚を思い浮かべながらそう言った直後、すぐそばに彼女の顔があることに気づいて、ぎょっとした。

「あんた、サッカーに興味あると?一緒に行かん?」

「ちょっと待って。急に博多弁、上手すぎない?」

 一歩下がりながら言うと、彼女は、あははと口を大きく開けて笑った。

「まだ勉強中やけん。ばってん、褒められてうれしかよ」

 最近、方言を聞く機会が多いなと考えるのと同時に、月夜の顔が思い浮かび、続けて、今置かれている状況を思い出した。

「ごめん、わたし、馬のところに行かないといけないんだった」

「サッカーに付き合ってくれるんなら、勝つ馬、教えてあげるよ?」

 無垢な瞳だった。きっとそれは本心なのだろう。彼女にとってのインターハイなど、観光旅行の合間の、時間つぶしにすぎないのかもしれない。

「ごめん、それはダメだよ。色んな意味で」

 この大会に本気の人間だっているのだ。

 知らぬ間に強い口調になっていたことに気づいたのは、少しだけ怯えた表情になった天才少女を見たあとだ。

「そうだよね」

 叱られた子供のように目線を落としたあと、小さく手を上げ、そして彼女は去って行った。

「友達、あんまりいないのかな」

 中学まで、衿奈も同じだった。

 だが、今は違う。

 月夜はまた非常階段を椅子代わりに、大広間に入ることをためらっているだろうか。細谷は北原と話しながら、中野のことを気にしているだろうか。

 あの場所にいる仲間たちを思い出し、心が安らぐ。

 再び周回する馬の前に立ったとき、余計な雑念がなくなっていることに気づいていた。

 それから、馬の声はよく聞こえた気がする。

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