7-4
次に目が覚めたのは、五時だった。馬術部のバイトのおかげで、早起きが身に付いている。
シャワーを浴び、朝の仕度に十分な時間をかけてしばらく、七時半にルームサービスが和定食を運んできた。
思わず、「ご苦労」と言いそうになるほど、他人からかしずかれることが非日常の快感だ。
なるほど、地位のある人間が堕落するのはこれが理由かと、月夜の育った環境をあれこれ想像しながら、普段、食べない量の朝食を完食した。
八時半にロックが解除され、パドックへと向かう。
地方の土曜日、最初のレースということもあって、観客はまばらだった。
のんびりした空気感の中、幸運なことに、一般の観客が立ち入ることのできない場所で、馬を見ることができた。
近くにいるのは、スーツ姿の大人ばかり。どうやら馬主などの関係者のようだ。
高校生の、しかも女子は目立つのだろう、誰もがちらちらと衿奈に目をやっているのがわかったが、競技中を示す腕輪をつけているせいか、声をかけられることはない。
おかげで、かなりの余裕を持って、馬たちと言葉を交わすことができた。
全馬がトラックへと姿を消したあと、支給されていたタブレットに予想を打ち込み、スタンドの四階へと向かう。
二度の予想が終わった人間は、最終的に全員が集まる大広間へと移動するが、それまでは、仲間と接触しないよう、別室で他校の生徒とともに過ごさなくてはならない決まりだ。
厚い絨毯敷きの廊下。似たような部屋が並ぶ中、木製の扉に高校名と名前が記載された紙が貼り付けられていた。
衿奈の名があったのは来賓席1と書かれていた部屋だ。どうやら各校で一番目の予想者が集められているらしい。
そっと扉を開けると、中は広い談話室のようだった。
L字で四人がけのソファーが三つ。それぞれの前に、ローテーブルが置かれている。右手の壁にはマガジンラックに雑誌が並び、左側の壁には、ドリンクバーのような機械が設置されていた。入ったことはないが、空港のラウンジが、きっとこんな感じなのだろう。
部屋には、すでに七人がいた。六人が男子で、そのうちの三人は、大きなガラス窓からトラックを眺めていて、残りは顔見知りなのか、制服は違っていたが、同じテーブルに座り、雑談中だ。
唯一いた女子は、彼らから一番離れたソファでコーヒーカップを片手にくつろいでいた。
流行りの髪型で、軽くではあるがメイクと、それにネイルもしている。
「へえ。あたし以外に女子がいた。しかも美少女じゃん」
その声に、部屋にいた全員の目線が集まる。反応に困っていると、彼女が手招きをした。
「はろー。こっち来なよ。私、新千歳二年の篠塚。そっちは?」
新千歳――。
北原が優勝候補だと話していたところだ。確か天才プログラマーがいるのだと。
「こんにちは。わたしは倉賀野女子一年の渡瀬です」
会釈しながら隣に腰かけた。
「おおっと。本物のお嬢様だったんだ。飲み物、全部タダだけど――大してありがたくもないか」
彼女は機械のあるほうに指を向けた。
「いえ、そんなことないです。わたしの親は普通のサラリーマンですから」
アイスのカフェオレを手に戻ると、男子たちがモニターの前に集まり出した。
「みんな、最初だから結構安全策ってところだな」
どうやら衿奈が最後のエントリーで、全員の買い目が公開されたらしい。
「1Rの予想をする学校、少ないんですね」
「そりゃそうでしょ。一回とか、二回しか走ってない馬ばっかりのレースなんて、検討に値する情報なんてほとんどないんだからさ」
彼女が不満げなのは、どうやら早い時間のレースは、チームでもあまり期待されていない人間が担当するのが一般的だからのようだ。
「そう、なんですか?でも、一度も走ってない馬の競走もありますよね」
「ん?新馬戦のこと?」
「ええ。そっちは、もっとあとのレースだったと思うんですけど。レースの順番、おかしくないですか?」
「何、その無駄に鋭い指摘は。渡瀬ちゃん、もしかして初心者?」
「はい。高校に入ってから勉強を始めたところです」
「あー……なるほどね。そういう意味不明な疑問、懐かしいな。今はすっかり飼いならされて、純粋さを失っちゃってるよ」
「何か大げさですね……。それで、答えは何ですか?新馬戦が第1Rじゃない理由です」
篠塚は、うーんと目を閉じ、真剣に考え始めたように見えたが、そのまま動かなくなった。
「もしかして――わからないから、寝た振りして、やり過ごそうとしてます?」
そう言うと、相手は止めていた息を吐くように吹き出した。
男子たちの冷ややかな目線を気にすることなく、彼女は口を開けて笑う。
「あーおかしい。他にないの、そういう素朴な疑問。もっと笑わせて」
最初の質問は、すでに終わったことになっているらしい。
「そうですね。メインレースは10番目でも最後の12番目でもなく、どうして11番目なのか、とか?」
「ほうほう、なるほどね――。他には?」
だから、答えはないのか。
「だったら――そちらは北海道の高校なのに、どうして新潟会場なんですか?」
特に受けることを期待していたわけではなかったが――篠塚は笑うどころか、真顔になった。真顔、というよりはむしろ不機嫌だ。
「それね。うちのお姫様のご希望なんだ。大会の二日目に、応援してるサッカーチームの試合が近くのスタジアムであるから、だってさ。まー、こっちとしても、行き慣れた札幌よりは、旅行気分が味わえるから文句ないけど」
「お姫様って、もしかして、天才の人ですか?」
「あー……。やっぱり有名なんだ。天才だか何だか知らないけどさ、しょせんは一年なのに。何で二年のあたしがこんなレースに当てられなきゃなんないの。渡瀬ちゃんのところは、その点、ちゃんとしてるよね。上級生を立ててるんでしょ?」
「はあ、まあ」
彼女がソファの背に首を置き、天井を見上げたとき、男子三人が、衿奈たちのテーブルに近づいてくるのが見えた。
「新千歳ってお前だよな。敷島ってすごいのか?」
詰襟の制服の生徒が、そう言って篠塚のそばに立ったが、彼女は聞こえていないかのように、それを無視した。
「おい、お前に聞いて――」
「初対面の相手に、お前って呼ぶ人間なんかに返す言葉なんかないんですけど」
強い口調で言い放った。声をかけた男子は、一瞬、周りに目をやり、顔が赤くなる。
「何だとっ?こっちは三年だぞ。お前、下級生だろっ」
「はあ?同じ学校でもないのに、上下関係なんて存在しませんけど?三年で1レースの予想してるとか、あんたなんか、どうせ部では大した扱い受けてないんでしょ。地獄へ堕ちろ」
まるで事前に原稿を準備していたかのような滑らかさでそう言った。
呪いの言葉を吐かれた相手の顔が、みるみる赤くなる。
よほど非の打ち所のない指摘だったのだろう、彼は何の反論もできないまま、目を潤ませて背中を向けると、「お前みたいな女は一生結婚できないからなっ」と、的外れな捨て台詞を残して、逃げるように離れて行った。
「ふん。勝った」
篠塚は遠ざかる男子を見ながら、満足そうに口角を上げた。
残された二人は、居心地悪そうにしばらく立ちすくんでいたが、やがて、思い出したように衿奈に向き直った。
「そういえば、倉賀野女子って、お前――君だろ?最初から攻めてるよな」
「そう、なんですか?すみません、わたし、入学してから競馬の勉強を始めたので、あまり詳しくなくて」
「ああ、なるほど。数合わせで連れて来られたのか。それにしては、いきなり3000円も賭けるとか、先輩から買い方を聞いてないのかよ」
「え。一応、一通り教わったはずなんですけど――。今回はフォーメーションっていう方法にしたつもりです」
馬たちの意見を参考に、三連複の一頭軸だ。二列目に四頭を入れ、確かに点数は多くなっていたが、頭に選んだ馬は8番人気だ。
「絶好調ですっ」
彼はそう答えていたから、それなりに自信がある。当たれば、残りの二頭が人気になっても、プラスにはなるだろうという計算だった。




