7-2
テーブルの上がコーヒーカップだけになり、やがてそれも空になる。
周囲に空席が増え始めた。
「そろそろボクたちも行こうか」
テーブルナプキンを畳み終えたとき、他校の男子二人がそろそろと近づいてくるのが見えた。互いに相手を前に押し出そうとしていたが、やがてそのうちの一人が、顔を赤くして北原の前に立った。
「エントリーリスト見たんですけど。こちらで参加されてる赤坂さんって、もしかしてクリムソンヒルカンパニーの関係者だったりしますか?」
部長が答えるより早く、本人が手を上げながら椅子を引いた。
「はいはい。うちがそうです。赤坂月夜です。サイン、ほしいです?」
話しかけた二人だけでなく、周囲からも「おー」という低い喚声が起きる。
初対面の生徒相手にも、まるで物怖じしない度胸はさすがだ。
今後の出走予定馬についての質問に答えているうちに人が増え、やがて街中で見つけられたアイドルのように、男子たちに囲まれながら、ホールをあとにした。
遅れて会場を出ると、彼女はロビーのソファーの中央にいて、一帯は座談会の様相だった。
騎手たちと交流はあるのか、とか、父親が馬を買うときは、何を基準にしているのか、などといった質問が矢継ぎ早に飛び、本人はいつも以上に笑顔を振りまいていた。
北原と中野が化粧室に姿を消していて、仕方なく、聴衆から少し離れた場所で傍観していた細谷のそばに寄った。
「そんなに有名なんですか、月夜のお父さんって」
「まあな。知名度って意味では、官房長官くらいだな」
「はあ、よくわかりませんけど。他にも馬主さんはいっぱいいるんですよね?」
「あいつのところは、持ち馬がただ多いだけじゃなくて、どの重賞レースに出ても、上位人気になってるって感じだな」
それは相当に稀有な事例らしい。
上級のクラスで走るまでに、何度も勝たなくてはならないが、一勝するどころか、一度も走らないまま引退する馬も珍しくはないのだそうだ。
「セールで買ってくるだけじゃなく、海外の著名な血統評論家に依頼して、種付けの段階から関与してるんだとさ。まさに、金が金を生むってわけだ」
細谷はいつもの調子で、普段と変わらぬ声量で、そう言った。
もちろん、ただ事実を述べただけで、後輩をおとしめるつもりなど、微塵もなかったはずだ。
だが、人より声が大きいことが災いとなった。
輪の外側にいた生徒たちの顔が順に声の主に向く。
ロビーの喧噪が一瞬やんだとき、壁際で、お祭り騒ぎする一団を冷ややかな目で見ていた数人の生徒たちの一人が、吐き捨てるようにこう言った。
「金で買ってるのは、馬だけじゃないだろ。JRRって言っても、中身は人間だ。癒着も相当にあるって噂だしな」
その声は、月夜にも届いてしまったようだ。明るさだけが取り柄のような彼女が、一瞬、怯えた表情に変わった。
「いやいや、そんなんあり得へんですよ。公営ギャンブルは公平公正が命なんですから」
そう言って、すぐにまた笑顔に戻ったが、それを機に、群衆の熱気が一挙に冷めたのがわかった。
さすがの細谷も、そのきっかけを作ったのは、自分だと理解したらしい。バツが悪そうに制服のポケットに手を入れて間もなく、北原が戻ってきた。
「何かあった?」
その場の微妙な雰囲気を察したようで、経緯を説明すると、彼女は少しだけ表情を暗くした。
「いまだにそんなことを言う人間がいるんだね」
「それってつまり、以前からあったってことですか?」
「確かに、昭和の頃は、八百長まがいのことはあったんだと思う。馬主だけってわけじゃなくて、騎手とか調教師とか。競馬に関わる人間は全部、やろうと思えば、何かしら結果に関与できてしまうから。だけど、今は完全に都市伝説の類だよ。そこかしこにカメラがあって、SNSだってある。不正を隠し通すことなんてできないんだ。気にしなくていいからって、あとで渡瀬くんからも元気づけてあげてくれるかな」
勝ち続ければ、いずれ誰かの嫉妬を買うこともあるのだろう。
月夜の性格を考えれば、大きな問題にはなることはないのだと、このときは、その程度にしか考えていなかった。




