7-1
金曜日の朝七時半、高崎駅に集合だ。
下りの新幹線に乗車し、府中に行くときより短い時間で新潟に到着した。
道中、中野は細谷に近づくことはなかったが、月夜と衿奈の三人席で、以前には感じられなかった柔和な気配を放っていたのは、気のせいではないのだと思う。
新潟駅からバスでさらに三十分、競馬場に隣接したホテルが会場だ。
元はJRRの保養所だったらしく、昭和を感じさせる外観だったが、中は改装されて明るい雰囲気だ。一階のロビーには、そこかしこに大きなモニターが設置されていて、第18回競争結果予想全国高校大会という字が映し出されていた。
「この二日は貸し切りみたいだね。競技が始まると、レース映像の他に、現在の順位といった情報も表示されるらしい」
北原たちもインターハイは初参加で、解説しながらも物珍しそうに周囲を見回していた。
チェックインの手続きのあと、GPSがついているというブレスレットを手渡される。移動できるのはホテルとパドック、それにスタンドの上階に割り当てられた待機するための部屋の三ヶ所だけ。携帯はホテルの中でしか使えず、だが、電波は遮断されていて、カメラとアラームくらいしか使えない。建物の外で手にした瞬間、理由を問わずに失格となるそうだ。
「何か、刑務所みたいでイヤですね」
「公平性を担保するために仕方ないんだ。そうしないと、外部から簡単に情報を得ることができるからね。それ以外にも、自室の外で腕輪を外したり、指定エリア以外に立ち入ることも禁止されてるから注意しよう」
夜九時以降は部屋から出ることもできなくなる。インターネットへのアクセスは可能だが、接続できる先はJRRの公式サイトだけという、念の入れようだった。
「では、各自、いったん荷物を置いて、お昼の十分前に、ロビーに再集合だ」
相部屋だと思っていたが、割り当てられたのは個室だった。想像していたよりずっと広く小綺麗だ。
窓際にはロビーで見たのと同じモニターが置かれていて、「ようこそ、渡瀬衿奈様」という文字に、特別感が増した。
一人でホテルに泊まること自体が初めてで、クローゼットや備え付けの引き出しを全部開け、意味なく貸し金庫に財布を仕舞っていたとき、部屋の呼び鈴が鳴った。
扉を開けると、月夜が立っていた。
「入ってもええ?ネットも使えんし、暇なんよ」
中に迎えると、彼女は真っ直ぐベッドに向かい、メイクされた状態のシーツにダイビングして、大の字になった。
衿奈が逆の立場なら、気を使ってできなかっただろう。だが、まるで不愉快ではなく、逆に親しい関係性を感じてうれしくさえある。
「夜はお喋りもできひんし、今のうちに交流しとこうと思うてな。ここは友利愛もおらんし、のびのびできるわ」
「聞いていいのかわからないんだけど――。友利愛さんとは、どういう関係なの?」
数ヶ月来の謎だった。いつか尋ねようとずっと心のどこかにあって、本人から言い出したことと、旅先での開放感も手伝ったのだと思う。ほとんど反射で口が動いていた。
「知りたい?」
彼女は腹筋を使って上半身を起こし、気のせいでなければ機嫌のいいときの声調でそう言った。
「そう、だね。でも、話したくないなら無理には――」
「ここ、座って」
左手でベッドを二度叩く。
気遣って、一人分、距離を置いて腰かけたにもかかわらず、すぐ横に移動してきた。腕を取り、体を密着させたかと思うと、耳元に口を寄せた。
「あの子、うちの彼女やねん。そやけど、めっちゃ嫉妬深くて、束縛してくるから、それだけはどうにかしてほしいんやけど」
「あー……。そう、なんだ」
なぜだろう、あまり知りたくない情報だった。
「嫉妬した?」
何が楽しいのか、笑いを押し殺しながらそう言われ、なるほど、それが理由かと、衿奈自身がそんな感情を持っていたことに驚く。
「正直に言うと、そうだね、少しは」
素直に答えると、月夜は「やった」と、少女のような笑顔を見せた。
「何がうれしいんだか」
「うち、気が多いねん。友利愛と衿奈、どっちを本命にしようか、ずっと決めてかねてて。でも、相手にその気がなかったら、悩むこともできへんやろ」
その言葉にドキっとした。
「気が多いって――」
「つまり、衿奈のことも好きって意味。迷惑?」
その好きは、友達としてではないことが、説明を受けなくても理解できた。
同性から告白を受けるなど、想像したこともない。だが、まるで意外だったが、ほとんど抵抗を感じなかった。
「それって、いつから?」
「職員室で再会したときや。気になってた子が、自分の期待に応えて受験してくれたんやて思うたら、泣きそうになった」
「そうなの?でも、あのとき、結構冷たい態度だったよね。肩透かしな印象だったからよく覚えてるんだ」
「それは仕方ないやん。今カノがそばにおる前で、衿奈を恋愛対象として意識してしもうたんやから」
まっすぐな言葉をぶつけられ、顔が熱くなる。
「ちなみに、自分で言うのも変だけど――あの人とはだいぶタイプが違うと思うんだけど」
「そうやねえ。二人とも美人やけど、片方は、家事のまったくできないお嬢様。もう一人は庶民派で頭脳明晰、やのに、ときどき抜けてるって感じかな」
衿奈についての描写だけ、三つだったことがうれしい。
だが、それから彼女が続けた内容に、そんな快心はあっという間に消失した。
友利愛の価値は親同士の事業の関係性の深さで、衿奈の長所は、馬と意思疎通できることなのだと、何のためらいもなく言ったからだ。
「それって……つまり、月夜にとっての友達は、利用できるかどうかが重要ってことだよね」
「うち、打算的やろ」
まるで悪びれることもなく即答した相手を、思わず凝視してしまった。
「そういう人間、嫌い?」
「いやー……。どうなんだろう。普通、もしそう思ってても、相手には隠しておくだろうし――。ちなみに、わたしが馬と話すことができなくなったら、友達じゃなくなるってこと?」
「そうやなあ。そのときは、また何か別の言い訳を見つける、かな」
理由は、はっきりしなかったが、一連の彼女の告白を不快には感じなかった。
富豪の家庭で育った彼女には、ごく普通の環境しか知らぬ衿奈には、想像もできないような経験があって、それがこの特殊な人間性を作り出しているのだろう、などという想像が、頭の中を巡った程度だ。
気づくと再集合の時間が迫っていた。
「そろそろ行こうか」
廊下に出るのと同時に、会話が途切れる。エレベーターの中は少しだけ空気が薄かった。
今の関係は、ただの友達ということでいいのだろうか。定義し直すことに意味があるのか、悩みながら待ち合わせの場所に到着し、北原たちの顔を見て、ほっとした。
食事の会場である、ホテルのバンケットルームへと移動する。
大きな広間には、二十校分の丸テーブルが配置されていて、登録メンバー全員が女子の学校は倉女以外にあと一つだけ。全体の八割ほどは男子で、そのせいか、注目を集めているようだ。
全員が席に着き、最初に開会の挨拶が短く行われたあと、司会の男性の声が一段高くなった。
「本日は、サプライズゲストをお呼びしていますっ」
会場が軽くざわついた直後、スタッフ用の入り口から現れたのは、妙齢の女性だった。
二十代だろうか、短めの髪に淡い色のスーツ姿が清楚な印象だ。
隣の席の月夜が突然立ち上がり、慌てた様子でポケットから携帯を取り出した。
誰だろうという疑問への答えは、色めき立った周囲の男子たちからもたらされた。
「まじかっ、上泉さんだよっ」
上泉って――。
確か予想家の地位を確かなものにした、人だったけ。女性だったのか。この大会へも十五年前に出場しているようで、だとすれば、三十を過ぎていることになるが、とてもそうは見えない。
人前に慣れているのだろう、壇上に上がった彼女はユーモアを交えて激励の挨拶をして、大きな拍手に包まれながら去って行った。
「あー……。もっとアップで撮りたかったな。近くのテーブルの子らにあとで写真もらおうっと」
主賓登場から、頬を紅潮させてはしゃぎ通しだった月夜が、満足そうに腰を下ろした。
どうしてか、その態度を苛立たしく感じる。
「あの人、どういう予想法なの?」
「調教と返し馬メインやけど……。何か怒ってる?」
「いえ、別に。返し馬って何?」
「本馬場に入ったあと、準備運動のために――」
参ったな。
心の中がもやもやするのは、あの告白が原因であることは明白だ。気が多いと自認する人間と深く関われば、この先も、こんな気持にさせられるのかもしれない。
誰かに相談もできない、そんな悩みともいえない、わだかまりを小さくしてくれたのは、意外と言うべきか、あの人間だった。
昼食はパスタのコースだったが、細谷は迷うことなく給仕を呼びつけ、偉そうに箸を要求した。
「日本人なんだから、最初の選択肢はこうあるべきだろ」
コース料理がふるまわれるパーティ会場には不似合いな大きな地声に、周りの男子たちから好奇の目が集まる。
男女平等が叫ばれているが、テーブルマナーの失敗は、女子のほうがマイナスは大きい気がする。
ナイフとフォークの使い方に苦労し、味がわからないうちに、料理が入れ替わる。食事というよりは、食べ物を口に運ぶ流れ作業をどうにか終えた頃、北原が壁の時計を見上げた。
「外界では枠順が発表されてる頃だね」
「外界って何のことですか?」
「会場は情報が遮断されてるからね。ボクたちは結界の中にいるという意味さ。夜の八時半まで、予想に関しては、何もすることがないんだよ」
全員が部屋に入り、扉がロックされ、初めて翌日のレース情報が公開されるのだそうだ。
それから一時間以内に、どのレースを誰が予想するか、担当をリーダーが決め、各自の役割はようやくそこからだ。
「どうしてもっと早く教えてくれないんでしょう」
「そりゃそうだろ。出馬表が公開されたら、仲間との接触は禁止になる。昼の一時からずっと部屋に一人きりとか、嫌じゃねえか。生意気は彼氏とかいるのかよ。他にすることもないんだ。そこらの男子に声かけてみたらどうだ」
細谷のいつもながらのがさつな提案に、中野と月夜の視線が衿奈に向いたのがわかったが、返事をする余裕はなかった。
その頃には、会場の雰囲気にどうにか慣れ、周りが目に入るようになっていたからだ。
誰もが決勝進出を目指していて、自分の予想がもっとも優れているのだと、他人を値踏みするような眼差しに気圧される。
自校の仲間以外は全員が敵という、まさに戦場の様相だ。
そして、どんな人間も、競争にさらされると、負けたくないという衝動が起きるらしい。
往路の新幹線、できれば楽しく、無難に二日が過ぎてくれればいい、くらいの気持ちだった。予選を突破したいだとか、名前を売りたいだとか、そんな野望は微塵もなかったが、今は、部員の一人として、仲間に迷惑をかけない程度に、結果を残したいという意気込みが、胸の中に宿っているのをはっきりと感じた。




