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6-3

 一学期の終業式。

 予定されていた式次第は午前のうちに終わる。

 他の生徒と同様、夏休み前の浮かれた気分で部室に向かっていると、四階の階段を上がったところに、中野がどこか真剣な表情で立っているのが見えた。

「麻里先輩。もしかして、今日は部活がないんですか?」

「そうじゃないの。衿奈さんを待っていたのです。今日、これから時間あったりしますか?」

「時間って――」

 答えるより早く、相手の手が伸びたかと思うと、腕を引かれ、彼女は階段を下り始めた。

「あの、どこ行くんですか?」

「実家で飼っている猫の様子がおかしいらしいの。食べてもすぐ吐くし、下痢もしてるんだって」

 歩きながら早口に話した内容を要約すると、どうやら衿奈に診断をしてほしいということのようだ。

「無茶ですよ。犬とか猫の気持ちがわかったことは一度もないです。獣医さんに診てもらったほうがいいですって」

「猫、飼ったことありますか?」

「いえ、ないですけど」

「犬と違って、獣医に連れていくのは一大事なんです。本来、猫はすべて往診にすべきなんですっ」

「はあ……。ちなみに、麻里先輩のご実家って確か――」

「名古屋市です」

「ですよね……。あの、明日からバイトなんですけど」

「あの子の話を聞いてもらうだけですから。五分もあれば済みますよね」

 彼女の中では、後輩を群馬から愛知まで同行させることは、猫を近所の獣医に連れていくより、大ごとではないらしい。いつか、こんな金持ちの境地にたどり着くことはあるだろうか。

 半分は冗談だと思っていたが、結局、新幹線を二本乗り継ぎ、三時間をかけ、午後の二時前には中野の実家だという、大通りに面した高層マンションの前に立っていた。

 出迎えてくれた中野の母親は、娘が友達を連れてくると聞いていたはずなのに、その第一印象は、数日間、徹夜した漫画家のようだった。身なりがきちんとしている分、顔色との落差に挨拶を忘れたほどだ。

 娘にとっても普通でなかったのだろう、中野の第一声は、体調を心配するものだった。

「お母さん、大丈夫?ちゃんと寝てるの?」

 母親は作り笑顔で軽く答えていたが、いかにも強がりに思えた。

 価値のよくわからない絵画や置き物を見ながら長い廊下を進む。

 リビングで待ってしばらく、やがて中野が連れて来たのは、よく見るようなキジトラの雑種だった。

諭吉(ゆきち)です。八歳なの。早速見てくれますか?」

 彼女の向こうで母親も不安げな目を向けていて、もはや断ることなどできない。

「どこか悪いの?」

 真剣にそう聞いたが、予想通りと言うべきか、まったく答えはなかった。

 無理に決まってる。犬や猫と意思疎通できたら、町中を歩くとき、うるさくて仕方ない。

 直接触れれば何か変わるかと抱き上げたが、見知らぬ他人を嫌がる本人が体をひねり、逃げ出そうとしただけだった。

 だが、その瞬間、ある物が目に留まった。

「麻里先輩、わたし、猫を飼ったことないんですけど、お尻がこうなってるのって、普通なんですか?」

「え。何のことです?」

 猫の肛門から、茶色の紐のような物がわずかに出ていたのだ。それを指摘すると、彼女は目を見開いた。

「何、これっ。お母さん、ちょっと来てっ」

 ネットで検索すると、猫は紐と遊ぶことを好み、だが、誤って飲み込んでしまうことが、時としてあるらしい。

「異物に反応して、嘔吐や下痢を繰り返すって書いてありますよ。紐を抜くとき、腸を傷つけるかもしれないから、獣医さんに――」

 だが、記事をそこまで読んだとき、すでに、中野が諭吉の体を抑え、母親が紐をそろそろと引っ張っているところだった。

 幸い、紐は短く、すぐに取り出すことができ、猫にも異常はなさそうだ。

 症状からも、これが不調の原因である可能性は高いようで、二人は自分たちが命拾いしたかのように喜んだ。

 夕食を食べていけと、母親から強く勧められていたときだ。

 玄関が開く音がして、その瞬間、彼女が口を閉ざして顔を曇らせる。同時に、諭吉が体をバネのようにして、あっという間にどこかへと走って姿を消した。

「誰か来てるのか?」

 どこか横柄に感じる言葉とともに姿を見せたのは、ふくよかな体格で、髪の薄くなった、初老の男だった。

 彼は衿奈に気づくと、奇妙な笑顔を見せた。

「麻里ちゃんのお友達かな」

「こんにちは。お邪魔しています。部活の後輩の渡瀬です」

「ってことは高一?いいねえ、青春だねえ。今日は泊まっていくの?」

 そう言って、気のせいでなければ、制服のスカートのあたりに視線を落とした。

「すぐ帰りますから」

 中野は慌てた様子で衿奈の手を取り、リビングから続く部屋の一つに入った。

「もしかしてお義父さんですか?」

 声を落とすと、彼女は無言でうなずく。

 先輩の身内を悪く言いたくはなかったが――AIに、セクハラ親父、と指示して描写されたような人間だった。

 母親の体調がすぐれないように見えたのは、猫を心配しているからだと疑っていなかったが、もしかすると、それだけが理由でないのかもしれない。

 やがてそんな不安は、的中してしまう。扉の向こうで、男の強い口調が聞こえてきたのだ。

 どうやら彼が予定外に早く帰宅したようで、食事や酒の準備がされていないことに、腹を立てているらしい。

 娘と友達がいるのだからと、母親が必死に訴えるが、その言い訳を口ごたえとして受け取ったのだろう、「黙れっ」という怒声とともに、ガシャンと何かが割れる音がした。

 中野は両手の拳をぎゅっと握り、目を閉じている。

 やがて男は夜は外で食べると吐き捨て、激しく玄関が閉まる音のあと、壁の向こうは静かになった。

 娘の学費のために、母親は歯を食いしばって耐えているのだろうが、どうやら中野自身、ここまで状況が悪化しているとは知らなかったようだ。

 帰りの切符を手渡されたのは、それから間もなくだ。

「ごめんなさいね。こんなところに連れてきてしまって」

 夏休みの間だけでも、母の盾になれるよう頑張ってみると、力なく笑う彼女を置いて、マンションをあとにするしかなかった。

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