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十月のある日。今年、何度目かの三者面談の前日のこと。
進路は、これまで一貫して、近くの公立高校に進学することを決めていて、そのことは親も教師も満額で納得していた。
「お母さん、ちょっといい。明日のことなんだけど」
だからまさか、そろそろ願書の記入を始めようかという頃に、受験する当人から違う学校の名前が出るだなんて、大人たちは想像もしていなかっただろう。
倉賀野女子大附属高校の名を出したときの母の顔は、コタツでくつろぐパンダを見たときのような驚きようだった。
「受験だけしてみたいって……。もし合格したらどうするつもりなの?」
「別に……。あんまり考えてない」
中学生の子供に、家庭の詳しい経済状況など、わかるはずもない。
その部分こそ、両親の反応を知りたいところなのだ。
「そう……なのね。衿ちゃんがこんな時期に言い出すんだから、よっぽどなんだとは思うけど……」
関東の田舎で、何もない日常。あのときの、奇妙な体験を思い出さない日はなかった。
赤坂という謎人間の存在について、何度も検証した。あとから思い返せば、幻だったのではないかと思えるほど、怪しげな言動だった気がする。それとは反対に、あのときの彼女の態度が、いい加減であったようにはどうしても思えない。関西の人間であるはずなのに、馬の名前を覚えるほどに、あの牧場に通っていたのは何故だろう。
倉女の部活についても調べてみた。他の学校にはないような、多種多様な活動をしているらしい。ただ、近年、全国大会で実績を残すほどに、飛び抜けた実力の部はないようだ。わざわざ、遠方に住む人間が選ぶほどには思えない。
そして何より、最も答えが知りたかったのは、どうして衿奈を誘ったのかという点だ。
それらすべてを解決する方法として、熟慮の結果導き出したのが、受験会場で彼女と再会し、尋ねること、だった。
「とりあえず、明日、先生に聞いてみましょう。どうするか考えるのはそれからでいい?」
ずっと物分りのいい子供だと思われていたはずだ。小学校に入る以前から、母や祖父母たちに何度もそう言われた。それが褒め言葉に感じ、期待を裏切らないよう演じているうちに、家の中でも外でも、すっかりその性格が板についてしまっていたのだと思う。
だが、打ち明けた今、そのかせが外れたことが、はっきりと意識できる。
とりあえず、話すだけ話してみようと、その程度の軽い気持ちだったにもかかわらず、言葉には魔力が宿っていた。内に秘めていたときには、意識していなかった奥深い願望。それが、現し世に解き放たれてしまった直後から、もはや倉女に通うことしか考えられなくなった。
夜には、一時間目の開始時間を調べ、想定される電車に乗る姿を思い浮かべ、あるいは、半年定期の金額を確認した。
最大の問題は、やはり高い入学金と授業料だ。こればかりは、父の判断に従うしかない。
そして、そこに至るための最初の関門は、次の日の午後にやってきた。
教室は面談のために閉め切られ、広い空間の窓際の二席に、担任と、その向かいに衿奈と母。
十五年の人生における、大人に対する最大の叛逆は、驚くほどあっさりと承認された。
「模試の結果から判断すれば、合格可能ラインです。もしご家庭の状況が許せば、学校としてはもちろん応援しますよ」
帰り道、両毛線の中、母は言葉少なだった。
怒っているのか、そうでないのか。そんな簡単な判別さえできない。
駅前のスーパーで、食材ではなく、惣菜を買う姿を見たのは初めてだ。料理をする気力すら奪ってしまったのだろうか。
その日の夜、一度ベッドに入ったものの、気がかりで目がさえる。
すっかり寝入っていた弟を起こさぬよう、足音を忍ばせ階段を下り、両親のいるリビングの壁に耳をつけた。
はっきりとは聞こえなかったが、家のローンや保険、弟の学費について話し合っているのはわかった。
父親は、地元では比較的名の知れた自動車部品製造会社に勤めているが、給料が人並み以上でないことは、うすうす理解している。
倉賀野女子に行くことになれば、大学までの七年間、家族に負担をかけることになるのは確実なのだ。
協議の結果がどうなったのか、次の日、審判の時。
母はいつもの朝と同じ動きだった。
「おはよう」
挨拶の声調もいつも通り。
受験のことについては何も言う気配がない。
勇気を振り絞り、衿奈から切り出した。
「倉女のこと……お父さん、何て言ってたの?」
「え?ああ、特には。受けるだけ受けてみたらって。そのあとのことは結果を見てから決めようって。願書はお母さんのほうで取り寄せておくわ」
前夜の重苦しい、少なくとも衿奈がそう感じていた話し合いとは裏腹に、彼女の声は拍子抜けするほどに軽かった。
「そう、なんだ」
確かに、合格しなければ悩む必要など何もないのは確かではあるが。