5-3
次の日の放課後。
生徒会に呼び出されていた北原が、受理された申請書のコピーを手に戻ってきた。
「驚いたよ。あの生徒会長が、カバンの中に仕舞っていたことを失念していたのだと、頭を下げたんだ。他の役員たちの表情を見ても、相当に異例だったんだと思う」
なるほど、信義を通すために、自分の落ち度という形で結着させたのか。どうやら筋金入りの真面目人間らしい。
正式に参加が決まり、浮かれた月夜が、狭い部屋の中を走り回る中、中野は画帳に視線を落としたまま、その手は止まっていた。
いったい、この状況をどうとらえているのだろう。
旅程や、エントリーするレースの担当決めなどで盛り上がる部員たちを横目に、彼女はいつもより早めにスケッチブックを閉じた。
「今日は用があるから、もう帰りますね」
いつになく、言い訳めいた言葉を口にしたあと、気のせいでなければ、衿奈をじっと見つめた。
残りの三人の誰も、そのことに気づいた様子はない。
彼女が去った扉をしばらく眺めていたが、あれはきっとそういう意味なのだろう。
「すみません、わたしもお先に失礼します」
廊下を出て、階段のあたりで、果たして、中野は壁を背に立っていた。
「次の――その次のバスの時間は?」
「一時間半ほどあとです」
「そう。では、少しお話しません?」
いつになく落ち着かない様子でそう言うと、前回と同じく、大学のカフェのほうへと向かった。
注文もそこそこに、彼女は表情を険しくした。
「申請が受け付けられた理由、衿奈さん、知ってますか?」
「生徒会長さんが忘れてたって――」
「そんなわけないでしょう。だって、出してないんだから」
なるほど、やはりそうだったのか。
「良ければ、理由を――教えてもらえますか?」
返事を躊躇するのだと、勝手に決めつけていたが、彼女は短く即答した。
「嫉妬です」
「はあ……なるほど」
「わたくしの家をめちゃくちゃにした人間が、こんなところで青春を謳歌しようとしている。あいつが、衿奈さんたちと旅行の話で仲良くしてるだけで、殺したくなる。嫌悪ではなく、憎悪なの。それはどうやっても止められない」
細谷と家庭を壊した女はもちろん別人だ。そのことを、理性では認識しているはずなのに。
そして、そこまで忌むべき人間がいてなお、退部しないほどに、彼女の優先順位は、今もお金ということなのだろう。
「衿奈さんは――わたくしの味方ですか?それともあのアバズレ側?」
「正直に言っていいですか?」
目を見据えてそう言うと、彼女は少しだけ気後れした様子を見せた。
「ええ、もちろんです」
「麻里先輩のこと、好きです。わたしにはウソつかないし。それは、本音を言えば、そのダークなところを直してほしいとは思いますけど――でも個性の範囲だと思います」
前回は、コーヒーに砂糖とミルクを入れていたはずだったが、中野はブラックのままカップに口をつけた。
「それとは別に――。怒らないでほしいんですけど、麻里先輩が思っているほど、細谷先輩は悪人じゃないと思います。もちろん、子供っぽいのは確かですけど、ある意味、純真というか――」
そこまで言ったところで、相手が奥歯を噛んだのがわかり、慌てて口を閉じた。
それから彼女はテーブルに肘をつき、頭を抱える。しばらくして上げた顔に、前髪がはらりと落ちた。
「今回のこと、部長に伝えますか?」
「まさか。それはないです。最近は、月夜や部員のみなさんのおかげで、回数はかなり減ったんですけど――今も、お父さんがもっとお金持ちだったらって、うしろ向きになることはまだあるんです。細谷先輩の粗野なところがイヤだっていう気持ちも共感できるし――。闇のない人間なんて、きっといないですよ。それに、結果として、インターハイには参加できることになりました」
中野は返事をしなかったが、どこかほっとしたように見えたのは気のせいではないだろう。
「麻里先輩は、インターハイはどうされます?申請書には五人って書いたんですけど」
彼女はそれからしばらく口を閉ざしていたが、やがて席を立ったかと思うと、衿奈の隣に座り直し、そっと手を握った。
「往復の電車とか、わたくしと一緒にいて下さいますか?」
「もちろんです。たぶん、月夜もそばにいると思いますけど、それは問題ないですよね」
「それなら――行ってみたい。あの女以外の方たちとは、仲良くできると思うんです。それに、地方の競馬場は、人の数が少なくて、馬たちともゆっくり触れ合えますから」
その目からは狂気が消えていた。
そもそも、今回の件は、部長も細谷も、何が起きたのか、気づいているはずだ。それでもなお、事を荒立てなかったのは、二人も中野のガラスのような繊細さを知っているからだと思う。




