5-1
インターハイまで二ヶ月を切った七月のはじめ、事件が起きた。
各部の部長が参加する、月例の生徒会の会合のあと、北原が真剣な表情で部室に戻って来た。
「和香先輩。どうかしました?」
月夜の言葉に、全員の顔が入り口へと向かう。
「インターハイのための、外泊の届けが提出されていなかったんだ……」
「もう一枚書けばいいだけじゃないのか、お嬢」
だが、彼女はうつむき加減で、声を落とす。
「それが……提出期限を過ぎているんだ。原則、二ヶ月前までに申請の必要があるらしくて」
「ええっ」
月夜が、これまでに見たことがないほど不安そうな表情を見せた。
部室で記入した日を思い返した。
北原の部屋に招かれた次の日のことだ。
「では、わたくしが出しておきますね」
あのとき、書き終えた用紙を手にしたのは中野だった。
その事実は、きっと全員が覚えているだろう。
目の動きだけで当人を見たが、まるで無関係です、という気配で、いつものようにスケッチブックにペンを走らせている。
ただ――。あのときの声調には、確かに、何かの違和感があった。それに気づいたのは、衿奈だけだったかもしれない。
もっとも、後輩からミスを指摘するようなことは難しい。
北原は人を非難するようなことはしない性格だ。残る細谷に目をやったが、彼女は、おそらくそんな期待を認識した上で、異なる選択をした。
「あたいが生徒会にかけ合うよ。JRRのほうの登録はもう終わってるんだ。そんな些末な内規のせいで、キャンセルするなんてあり得ないだろ」
言い終わるのと同時に席を立ち、飛び出して行った。
だが、交渉相手はあの生徒会長のはずだ。人望のある部長が成し得なかったことを、素行不良の嫌われ者に巻き返せる気がしない。
誰もあとを追わず、奇跡を待つ時間がやたら長く感じて、十五分ほど、再び姿を現した彼女の第一声は、予想を裏切らなかった。
「あのわからず屋の女めっ」
ああ、やっぱり、と全員の心の声が聞こえた。
それにしても――。
真実はどこにあるのだろう。
過失でないという前提で、可能性の一つは、中野が、部員を、というよりは細谷を困らせてやろうとか、そんな動機で提出しなかった。
あとは、大前の嫌がらせか。
どちらもあり得る。
泣きそうになる月夜を北原たちが慰める中、誰からも解決策が提示されることのないまま、その日の部活はお開きになった。
衿奈自身にインターハイへのこだわりはなく、みんなとの旅行がなくなった程度の心残りだったが、月夜の心情を思えば、どうにかしてやりたい。
「とはいえ、わたしにできることなんて、思いつかないんだけど」
無力さを感じながら、スクールバスの停留所へと、大学の構内を歩いていたときだ。
行く先に見えた人間に、思わず足と呼吸が同時に止まった。
生け垣のそば、生徒会長の大前が、大学生らしき女子と、浮かない表情で何ごとか立ち話をしていたのだ。
反射で身をかがめ、声が聞こえるあたりまで、植栽に隠れながら近づいた。
「――だったら、選手権には出ないつもりなの?」
「まあ、ね。大会は九月だし、ステラホワイトの今の状態を考えたら、たぶん間に合わないから……。ホント、気分屋さんで困っちゃうよ。そこが愛おしいところでもあるんだけど」
「何であきらめてるの?お姉ちゃん、今年で最後なんでしょ?食事のメニューとか、試せることはまだあるじゃない」
「いいよ、もう。全学が終わっても、全日本があるし。いつかオリンピックに出るつもりなら、結局はそこで争わないと」
いったい何の話題だろうと思った瞬間、突然答えが与えられた。
「高校でも馬術部、作ろうかな。くだらない競馬の予想とかに部費を使うくらいなら」
そのひと言で、情報が頭の中で音を立てて連結する。光より速く結果が導かれ、それを吟味するより前に、足が動いていた。
「あの、お話し中、すみません。少し、いいですか?」
「あなた……。決測部の子ね。どこから現れたのよ」
妹のほうの目線が鋭くなった。ただの上級生とは違う、強い権力の圧に失禁しそうだ。
「一年A組の渡瀬です。それで、その、ステラホワイト……さんの不調の理由でお困りなんでしょうか」
「はあ?何、盗み聞きしてたってこと?本当、あの部にはろくな人間がいないわね。いっそ廃部にしてやろうかしら」
「違いますっ、たまたま近くを通ったら声が聞こえてしまって――」
廃部という単語に思わず声が大きくなってしまう。
隣の姉が、訝しげに首を傾げた。
「決測部って、競馬の予想するところだよね。キミ、乗馬もするの?」
声の調子から察するに、どうやら妹よりは温厚のようだ。
「いえ、そういうわけでは。ただ、少しばかり、馬の気持ちがわかるので、何かお手伝いできるかもって」
この機会を逃すまいと、早口に言い訳すると、相手は一瞬の間をおいて、表情を緩めた。
「そういう特技、あったら本気で助かるよねえ。うちの子、すっごく気まぐれだし」
どうやら心和む程度の世間話だと受け取ったらしい。その横で大前が、くだらないことに時間を取らせるなと、そんな目で睨んでいる。
「もし良ければ、一度、お話させてもらえませんか。お姉さん」
「私は里瀬の姉で、花穂よ。それで、話って、もしかして、ステラホワイトと?」
「ええ」
「会うのは、全然構わないけど――。厩舎は少し離れたところにあるの」
おそらく必死の形相だったのだと思う、花穂はしばらく衿奈の目をじっと見つめていたが、どう返答すべきか、判断に困ったような表情で隣に目をやった。
「あなた、何を企んでるのよ」
妹が声を低くする。
馬の不調の理由を解明すれば、それと引き換えに、新潟行きを許可してほしい。
そう持ちかけようとして、直前で思いとどまった。
生徒会長相手に、思いつきの取り引きが成功する気がしない。要求を先に言えば、逆効果になる可能性もあるのではないか。
そもそも、申請が通っていない経緯も不明な状況なのだ。
「動物が好きなので、見てみたいだけですから」
「わかるよ。学内で馬と触れ合えるって、それだけでうれしいよね」
生徒会長は警戒心を解く気配がなかったが、姉は好意的に解釈してくれたようだ。
計画立案の時間を取るため、翌日の放課後に再会する約束をして、その日は別れた。




