4-5
六月は、上半期のオーマ最後の月だ。
順位を一つでも上に上げるため、参加者たちの予想の頻度が増えるらしく、それは決測部もまた同じだった。
金曜日の部室。翌日に、荒れそうなレースがいくつかあって、どれにエントリーするのか、結論が出せないまま、下校時間を迎える。
中野は、画材を買いに行くからと、早い時間にいなくなっていた。
「仕方ないな。ボクの部屋で検討を続けようか」
衿奈以外は全員寮生だ。
月夜は特に反論しなかったが、なぜか細谷の挙動が不審になった。
「あのさ、それなら、あたいの部屋でいいんじゃないか?」
「どうして。部長はボクだし、それに深紗の部屋にはPCがないじゃないか」
「それは……そうだけど」
「では決まりだ。渡瀬くんはどうする?夕食は、ピザでも取ろうと思うけど」
貢献できないことは明白だったが、一人だけのけ者になる勇気がない。
全員で寮へと向かう途中、自分が先に戻るから鍵を貸してくれ、というような押し問答を三年の二人が何度かしてたが、その訳は、間もなく明らかになった。
北原の部屋に足を踏み入れた瞬間、本人以外の全員の動きが止まる。
衣類や、雑誌、お菓子の空き袋などが散乱していて、ベージュ色の床が見えなかったのだ。
「適当に座ってくれればいいから」
そう言った本人は、まるで意に介している様子がない。
細谷が両手で顔を覆った。
「お嬢……。一週間も空けてないだろ」
「一週間って、どういう意味ですか」
「あたいがこの部屋に来なかった期間だ」
驚いたことに、数日に一度、彼女が北原の部屋の掃除をしているのだという。
想像していた二人の関係性が、音を立てて崩壊した。
「お嬢は基本的に完璧な人間なんだが、ドぐうたらなところだけが欠点なんだ。老舗呉服屋の四代目が務まるのか、少しだけ不安だぞ」
ドぐうたら。初めて聞く単語だ。
細谷は、部屋の主をベッドの端に追いやり、片付けを始めたが、月夜は、壁際に移動して手伝おうという意志を見せない。
「ごめん、うちは友利愛と一緒で、こういうこと、苦手やねん」
まるで悪びれる風もなく、そう言った。どうやら二人とも、週に一度、家政婦に来てもらっているらしい。
「信じられねえな。高一の分際で、しかも寮生にあるまじき贅沢さだ。将来、結婚できないぞ」
文句を言いながら、細谷はおそろしく手慣れた様子で、ゴミと、そうでない物を仕分けていく。
「衿奈はともかく、深紗先輩がそんなに甲斐甲斐しいなんて意外ですよ。お二人は、仲いいですよね」
「ボクと深紗は実家が近くてね。クラスが一緒になったことはなかったんだけど、小学校のときから、顔見知りだったんだ。仲良くなったのは、あることがきっかけだったんだけど」
「いいよ、お嬢。そんな昔話」
「いやいや。そこまで言うたんやったら、最後までお願いしますよ」
月夜が真顔で懇願するのを見て、北原は満足そうに頷いた。
「意外だと思うけど、深紗は中学までは、真面目少女だったんだ。家がしつけに厳しくてね。寄り道はおろか、買い食いすることにさえ、親の許可が必要だったんだ」
厳しい家――。つまり、組関係か。
「反して、ボクは自分でいうのも何だけど、快活で、結構友達も多かったんだ。中学で初めて同じクラスになったときなんか、ボクから声をかけて深紗をみんなの輪に引き入れていたくらいさ」
そんな二人が中一の、梅雨のある日のことだった。
北原が下校中、変質者に襲われた。
遅れてやってきた細谷が、大声を上げながら、傘を振り回したおかげで事なきを得たそうだが、北原はそれ以来、男が怖くなったばかりか、人付き合いにも消極的になってしまったのだという。
「逆に深紗がボクのことをすごく気にかけてくれるようになってね」
毎日の登下校を共にするようになり、いつの間にかボディガードのような立ち位置になっていたそうだ。
北原がかけているメガネも伊達らしく、可愛らしさを目立たなくさせるためにと、細谷の助言に従っているらしい。
高校で女子校を選んだのは、そんな背景があったから。しかも、倉女は寮があって、その意味でも安心だ。
「深紗の成績は中の下だったから、まさか一緒に入学できるなんて思ってなかったんだ。きっと頑張ってくれたんだと思う」
例の裏口入学枠か。親の家業がアレなのだから、学校側も拒否などできなかったのだろう。
二人が競馬を知ったのは倉女に入ってからだそうだ。北原は元から数学が得意で、すぐにその魅力に取りつかれ、二年になる頃には将来の夢が予想家になっていた。細谷はそんな親友の夢を応援することと、護衛の目的で入部したというわけだ。
「一つ教えてほしいんですけど――。初日に、わたし、細谷先輩にすごく怒られたの、覚えてますか?」
「お嬢に色目を使うやつは、男女問わず、あたいが片っ端から排除してる。新入生だろうと関係ない」
色目だって?
あのとき見ていたのは、非常識な外見のほうだったというのに――。
もしかして、今の二年が少ないのも、そんなくだらない理由で、言いがかりをつけられたからではないのか。
月夜がいなければ、衿奈もこんな面倒な人間のいる部に、関わりたいなどと思わなかっただろう。
あれこれ悩んでいたことが、馬鹿らしくなった。
「先輩が損すると思いますけど。生徒会長とケンカとか、やめたほうがよくないですか?」
「大前里瀬か。あいつは特別異常だ。二年まで、旧帝国陸軍並みに厳しかった陸上部にいたんだが、そこをぬるま湯扱いしてやがったからな。ああいう、父親を思い出させるような、他人に厳しい人間は大嫌いなんだ」
二人は、一年と二年のとき、同じクラスだったようで、細谷に言わせれば、最初の自己紹介のときから気に入らなかったのだという。
「この学校で人脈を作り、将来、社会に貢献する仕事をしたいです、だってよ」
「えーと。めちゃくちゃ立派だと思うんですけど」
「そうか?役に立たない人間には興味がないって、あたいにはそう聞こえた」
その大前は、ほとんどの科目において、学年で上位の成績だったが、数学だけは過去一度も北原に敵わなかったらしく、細谷はことあるごとに、その事実を人前で言いふらしていたという。
その結果、二年の終わりに、ついに相手の感情が爆発してしまう。
「現役陸上部のカモシカのような脚で、回し蹴りされたんだ。めちゃくちゃ痛かったぞ、あれは」
見た目ご令嬢のような生徒会長に、手ではなく、脚を出させるとは――。いったいどれだけ挑発すればそんな事態を招くのだ。
北原はあきれたように首を振り、息をはいた。
「深紗がボクのことを心配してくれるのは、すごくうれしいんだけど、行きすぎなところは直してほしい――。ところで、生徒会と言えば、夏休みにインターハイに参加するのなら、そろそろ申請をしないといけないな」
その言葉に、ベッドの上であぐらをかいていた月夜が、膝立ちになった。
「出るからには優勝、目指してくれますよね?」
「目指すくらいは、な。とはいえ、運動部と違って、どれだけ準備しても、結果は運の要素が大半だけどな」
「競馬予想の大会って、どんな感じなの?」
「泊まりがけのイベントなんよ。楽しみやわあ」
インターハイは、札幌、新潟、小倉の三つの競馬場で開催される。参加できるのは、それぞれの会場毎に最大二十校で、合計六十校。それ以上のエントリーがあった場合は予備予選を戦うことになるが、オーマの上位校であれば、それは免除されるのだそうだ。
「あたいたちはたぶん、一番近い新潟に割り振られるだろう。夏の新潟はいいぞ。二十歳になったら、あそこの芝生でビールを思いっきり飲むのがあたいの夢なんだ」
そこは規則を守るのか。
それにしても――。
北原との関係と、生徒会長との確執の経緯を知って、細谷の印象が完全に反転した。
悪人ではなく、ただの悪ガキだ。
まともな北原が愛想をつかしていないことを見ても、善悪で分類すれば、愛すべき人種かもしれない。
であれば、中野は完全に誤解していることになる。
その事実を知っているのは、おそらく衿奈だけ。五人しかいない部員の中、二人の関係をこのまま放置するのは不健全だ。
下級生とはいえ、仲裁をすべき立場にある気はしたが、その方法についてはまるで思いつかなかった。




