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それからしばらくして、友利愛が帰国し、月夜と過ごす時間は少なくなった。
幸い、初日に仲良くなったメンバーとは、今も普通に話せていて、おかげで昼食を一人で取るということはほとんどない。
その日、四人でお昼をともにしたあと、カフェテリアを出ようとしたときだった。
よそ見をしていた横川が、エントランスの角で、人とぶつかった。
手にしていたテイクアウト用のコーヒーカップが宙を舞う。パステルカラーの素焼きタイルの床に落下するのと同時に、運悪く、飛び散った液体の一部が、相手の生徒のローファーと、靴下にもかかってしまった。
「あ……。すみません」
彼女が慌てて頭を下げる。相手は三年だ。
モップか雑巾を探そうと、急いでカフェテリアに戻ろうとしたときだ。
パチンと破裂音がした。
音の方向に目をやり、ぎょっとした。横川が頬を押さえ、涙目だったのだ。
その向こうで、彼女を打ったのだろう、その手をゆっくりと胸のあたりで組んだ、氷のように冷たい目の上級生が、なぜか衿奈をにらみつけていた。
続いて、三年が発した言葉に、心臓が止まりそうになる。
「あなた、決測部の新入部員ね」
まるで犯罪者に対峙するように、そう言ったのだ。
クラスメートたちが不安そうに振り返った表情を見て、この修羅場の遠因が衿奈にあることを知った。
「さっさと床を掃除しなさいっ。あと、私の靴と靴下もですっ。元の白に戻して下さいっ」
冷徹で、突き放したような態度に、横川はとうとう泣き出してしまった。
顔を青くしたそばの二人が、彼女を左右から抱きかかえるように近づく。その様子を見て、衿奈の胸に小さな正義感が発動するのがわかった。
コーヒーをこぼしたのは、確かに横川に非があったが、ここまで強く非難されるほどだろうか。
弁償しろ、ならともかく、白に戻せだって?
染み抜きは適切な洗剤なしではできず、この場でそれは不可能だ。その程度の言い分は通していいだろうと、嗚咽を漏らす横川のそばを通り、三年の前へと進み出たときだ。
中庭の先から、聞いたことのある声がした。
「相変わらずの下級生いじめか。趣味悪いねえ。いくら親が政治家だからって、お前自身は何も持ってないだろ」
そう言って、ゆらりと姿を見せたのは――細谷だった。
今はすっかりイケメンで、初めて会ったときのような怖さはなかったが、それでも、一般人とは比較にならない迫力だ。
氷の女子は、わずかに首をうしろに傾げる。
「何だ、異物ですか。あなたに言われるとは片腹痛い。物覚えが悪いとは聞いていましたが、自分の普段の言動すらも、自覚していないようで」
まるで普段から準備しているかのように、淀みなくそう言った。
何一つ、好きになれそうな要素のない人間だったが、細谷に対する不敵な態度に、少しだけ親近感を覚える。
不良がいったいどう反論するのか、おそらくはここ数年でもっとも興味を惹かれる展開に、知らぬ間に息を止めていた。
「あたいに恥じることは何もない。敵と戦っているだけだ」
意味不明だ。
入学式の日、何の非もなかった一年生に、いきなり襲いかかったではないか。
細谷はポケットに手を入れたまま、衿奈のそばにやってきたかと思うと、肩を震わせていた同級生に目をやった。
「生意気の友達か」
「はい……。そうです」
彼女はゆっくり振り返り、目を吊り上げた三年と、衿奈たちとの間に立つように位置を変えた。
「あたいの舎弟だ。これ以上の横暴は、いくら生徒会長だからって、許されねえ」
生徒会長、だってっ?!
子分扱いされたことに、悪い気はしなかったが、そんな強大な権力に、歯向かっていいはずがない。
これ以上の衝突は避けるべきだと進言しようとしたが、その必要はなかった。
相手が、周囲に聞こえる程度に舌打ちをして、背を向けたのだ。
そのまま足早に遠ざかる姿を見て、一度は安堵したが、彼女の脳裏には、不良の身内にコーヒーをぶちまけられた、という事実が克明に刻まれたのではないだろうか。
「ふん。いけ好かねえ野郎だ。おい、お前。またあいつに何かされたら、あたいに言うんだぞ」
細谷は横川の肩に手を置いたあと、ジャケットをなびかせながら、カフェテリアへと姿を消した。
ほとんど昭和の任侠映画だ。そして、今の言動だけ見れば、細谷を悪人に分類するのは不適切と言えた。
彼女が人によって対応を違えているのか、あるいは、中野が思い違いをしているのか――。
「衿奈の先輩、意外にいい人なんだね。何かジーンとしたよ」
「ほんとに、ね」
間接的とはいえ、クラスメートに感謝されたことは、うれしかったが、それは決して幸運な結末などではなく、禍根は確実に残ってしまった。
次の日から、横川たちは衿奈のことを「姉さん」と、呼ぶようになった。




