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「ひゃっ」
普段、発したことのない奇声が口から出る。
その恥ずかしさが、最初の驚きを上書きして、そばにいた少女に意識が向くまで、多少の時間がかかった。
年は同じくらいだろうか。深さのある、橙色のベレー帽の下はそれと似た髪色のショートボブ。柄物のネルシャツにパステルのキュロットスカートで、アイドルグループの元気担当のような容姿だ。
美人というよりは、可愛らしいタイプの彼女の目が、衿奈を鋭く見つめていた。
「え……っと――」
あなたは誰ですかという、そんな簡単な質問を見つけ出すことに、手間取っているうちに、相手が先に口を開いた。
「チャウチャウの相手してもらってるとこ、悪いんやけど」
真顔で関西弁を話す人間に初めて出会った。それはいつもテレビの中で、お笑いの道具として使われている言語だ。
いったい、こんな関東の田舎で、どんな素性の人間なのか、すぐに興味はそのことに移る。
だが、口をついたのは、もっと素朴な疑問だった。
「チャウチャウって――」
「その馬の名前やけど」
いや、犬の種類だろ。
ただでさえ、異常な状況の中、意味不明なやり取りのせいで、軽く頭が混乱した。
「何か用……ですか?」
「うちの名前は赤坂。自分、この近くに住んでるんか?」
質問のあとすぐ、相手の目線が、衿奈の顔の中心からずれた。
その方向を追って、首だけうしろに向くと、そばにいた馬が、速歩で離れて行くのが見えた。
視線を戻すとき、周囲を確認したが、同行者は見当たらず、牧場の関係者が何かを注意するためにやって来た、というわけではなさそうだ。
まともな身なりで、おそらくいかがわしい目的ではない、と思う。
それ以外で話しかけられる理由――。友達になりたい、という雰囲気ではなさそうだが。
「近くっていうか。県内だけど……。それが何です?」
「県内か。今、何年生?」
「中三だけど。あの、いったい――」
だが、それ以上、言うことができなかった。彼女がいきなり抱きついてきたのだ。
「お願いがあるねん。聞いてくれる?」
そのときの胸の内を、ひと言で表現するのは難しかった。
目の前の少女が、いったいどういう属性の人間なのかという根源的な疑問。年齢を答えた瞬間に、態度が激変した理由。そして、出会ったばかりの他人から、何かを頼られているという、奇妙な高揚感。
同時にいくつもの感情が頭の中で交差する。
「とりあえず、一回、離れてくれる?」
そっと肩に手をやり、体を押し返すと、それまでとは、明らかに相手の目の色が違っていた。何かを強く期待する、そんな輝きに目がくらむ。
続けて、赤坂が発した質問は、今の状況からは予期し得ないものだった。
「どこの高校受験するん?」
「そんなの……。あなたに話す必要ないと思うけど……」
「ええやん、それくらい。もしかして、倉賀野女子大附属やったりする?」
唐突に具体的な名前が出て、すぐに反応できなかった。
そこは、地元群馬県にあって、全国から優秀な人材が集まる有名校だ。偏差値はもちろんだが、それ以上に授業料が飛び抜けて高いことでも知られている。
自由な校風に、ブランドの制服。卒業生にはアナウンサーや女優なども多くいて、それ以外でも、全国に先駆けてICTを活用した環境を構築した、だとか、校内のカフェテリアに、地元産の有機食材を使うようになった、だとか。その気がなくとも、ローカルニュースで、頻繁に紹介され、県内の人間であれば、自分の通う学校の次に、よく知っている名前だ。
もっとも、衿奈のような一般人にとっては、雲の上の存在でもある。
「あんなお嬢様ばっかりなところ、行くわけないじゃない」
言った直後に後悔した。
目の前の彼女は、おそらくそこを受験するつもりなのだろう。そう思って改めて見ると、着ている洋服も帽子も、安物には見えない。
初対面の相手に格差を意識させられ、それまで持っていた未知なる人物への好奇心は、嫉妬心で駆逐された。
無意識に目線が下を向く。その先で、少女のスニーカーが一歩前に出るのが見え、それから彼女が取った行動は、またしても想定外だった。
「うちも倉女に行くから、一緒に来てほしい。お願いや」
そう言って、両の手で、衿奈の拳をぎゅっと掴んだのだ。
思わず手を引こうとしたが、力強く握られていて、動がない。
「全然意味がわからないんだけど。あなたに高校を指示される理由が――」
そこまで口にしたとき、場内にアナウンスが流れた。
古いスピーカーからの割れた音。バスツアーの客の集合を知らせる内容だ。
赤坂は腕の時計を見て、慌てたように背中を向けた。
「もう行かなあかん。あのバスの運ちゃん、途中のサービスエリアでも一人、容赦なく置き去りにしてたからな」
そう言いながら、半身になる。
「必ず受験してや。絶対やで。うち、インターハイで優勝せなあかんから」
最後に彼女はそう言い残し、帽子を振りながら全力で駆けて行った。
うしろ姿が木立に消えたあたりで、我に返った。
いったい――何だったのだ。
結局、肝心なことは何ひとつ教えないまま、嵐のように去って行ってしまった。
「参ったな」
わかったのは名前だけ。せめて連絡先でも交換していれば――。
いや、不要か。あんな学校、受けるはずなんてないのだから。
インターハイだって?わけがわからない。
中学時代、どの部活にも所属していなかった。集団行動が苦手だったのだ。
教室で、上辺だけの会話をする生徒はいるが、親友はおろか、まともに友達と呼べる人間すら作れなかった。
四月がやってくるたび、試そうとはした。
ただ、人間関係を構築するに際しての、様々な儀式が、どうしても空々しく感じてしまい、最後まで続けることができなかったのだ。
朝の挨拶や、昼を一緒に食べるくらいまでは楽しさもある。それでも、毎日顔を合わせる相手で、話す内容などすぐに尽きてしまう。にもかかわらず、アドレスを交換し、帰宅してからも現況報告をしなくてはならない。
カラオケでは、上手くない歌を披露させられ、誰かの想い人が出場するからと、まるで興味のない野球やらサッカーの観客席で、退屈な時間を過ごすこともあった。
心労から、ほんの少しだけ距離を取ろうとすると、敏感にそのことを察知され、クールで接し方のわからない女という評価を下されることになる。気づいたときには、一人サークルの外にいた。
そうだ。
手順を追って、交流を深めようとしたクラスメートですら、まともに付き合うことができなかった。せいぜい五分の立ち話で繋がった相手など、思い出すにも値しない。
理性ではそう結論付けていたにもかかわらず、帰りの車、弟が遊び疲れて眠る横で、ネットを検索してしまった。
倉賀野女子大付属高校。
昭和モダンの歴史ある校舎。それなのに整備された寮や最新の施設の整った教室に、冷暖房完備の体育館。
意味なく、自宅からの路線検索をしてみた。一時間半か。通えなくはないが、寮生活というのにも憧れる。画面の中のキャンパスに、自身の姿を重ね合わせようとして、すぐにむなしくなった。
そこは現実に存在し、同年代の中に、実際にそこに通う人間がいるのだから。
夕方のハイウェイ。窓ガラスに映る落ち込んだ顔を眺めているうちに、だんだんと、未知の関西人に腹が立ってきた。
本来であれば、意識する必要のなかった劣等感のはずだ。
たとえるなら、アクセサリーを買いに行ったとき、手違いで、まるで手の届かない高価なショーケースに案内されたときのような感じだろうか。それまでほしかった品が、カプセルトイに思えてしまうに違いない。
さらに不幸を増長したのは、学力だけを見れば、まるで不可能な選択ではなかったことだ。これまで、クラスでどんな立ち位置になっても、あなどられることがないよう、成績だけはいつも上位を維持するよう努力した結果だ。
その日の夜、入浴中も、ベッドに入ってからも、油断すると写真の中の倉女の光景を思い出しそうになり、必死に別のことを考えては追いやる、という思考を繰り返すはめになった。
だが、やがてそんな自制も無駄に思えるようになる。
アイドルを恋人にする夢を見るのと同じではないか。何が悪いというわけではない。空想するだけなら、誰の迷惑になるわけでもないのだから。
開き直りによって合法化された妄想だったが、その後も継続した結果、いつからか、計画と呼べるものに成り代わっていった。