3-5
やがてレースの時間になった。
過去に経験のない、不思議な気分だった。
緊張感という意味では、入試前の、ノック式ペンの乾いた音だけが響く会場にいるときと似ている。
それとは別に、小さな期待もあった。良く描けた図画の課題を、先生に提出するときのような、そんな感じか。
話しかけた馬たちの意識は感じ取れたと思う。それが結果に直結するかはまるで不明だが、月夜の曇りのない前向きさが、今は安心感を与えてくれている。
突然、場内に音楽が流れた。ファンファーレというらしい。
金属製の囲いに馬が引き入れられる。
ドキドキする時間は短かった。
派手な演出は何もなく、あっという間にゲートが開き、ほとんど同時にアナウンサーが早口で実況を始めた。
どれに注目していいのか、話した子を探しているうちに、馬たちは一周を回り、次々に戻ってきた。
最後に呼ばれていた名前の中に、一番人気の馬はいなかった気がする。
ゴールのあと、そばにいた大人たちが、打ち合わせでもしていたのかと思うほど、一斉に、どこか別の場所へと移動を始め、気づくと周囲が閑散としていた。
その場に残っていたのは、部員の四人だけだ。レースに集中しすぎていたせいで、三人の反応を見るひまがなかった。
今、彼女たちは、数えきれないほどあるモニターの一つを無言で見上げている。
結果はどうだったのだろう。
やがて、場内アナウンスがあった。今のレースの結果についてであることは理解した。
月夜は晴れ晴れした表情で、上級生二人に対面するよう体の向きを変えた。
「いかがです?三連単、五万超えましたけど」
「知らねえよ。入部するのは、届けを出すだけで、誰でもできるんだからな」
細谷は逃げるようにゴミ箱のところに行き、ガムを吐き出した。
「もしかして、当たったってこと?」
月夜の腕に触れると、彼女は衿奈に抱きついた。
「もう一生離さへんからな」
飛び跳ねるその様子を見ながら、北原は腕を組み、しばらく思案していたように見えたが、やがて顔を上げ、一歩衿奈に近づいた。
「自己アピールの類いの冗談かと思っていたんだ。でも、もしかして、的外れでもないのかな……。え……と」
「衿奈ですよ。渡瀬衿奈。うちが見出した逸材です」
「そうだった、渡瀬くん。あの話は本当だってことなんだろうか」
不良が真顔で戻ってきた。
「おい、お嬢。まさか生意気の空言を信じてるんじゃないだろうな」
三人の視線が集まる。
月夜の、お気に入りの物語を待つ子供のような目に導かれ、仕方なく、北原たちにも牧場での経験を語って聞かせた。
「なので、会話できるってレベルじゃないんです」
「なるほど。それでも、馬の気持ちがわずかでも感じ取れるのだとしたら、大きな意味があるよね。次のレース……のパドックはもう間に合わないかな。じゃあ、もう一度、3Rで試してもらうことはできるかい?」
指示をあおぐために隣を見ると、月夜は勝ち誇ったように部長に向き直った。
「衿奈の試験は合格でいいんですよね」
「入部という意味では、さっき深紗も話した通り、別に資格が必要なわけじゃないからね。ただ、こんな言い方をしたら失礼だけど、オカルトなのか、本当に戦力になるのか、その見極めをしたいってだけで、さ」
「了解しました。ちなみに、次も当てたら、深紗先輩の髪型、うちの自由にしてもええですか?」
「おい、調子に乗るなよ、関西弁。それはあたいが勝ったときの条件で――」
「わかった。それで構わない」
「お嬢っ」
本人たちの意向を無視して、再戦が決まってしまった。
跳ねるように歩く月夜から、半歩遅れてあとに続く。
うしろの三年の二人は、髪の長さについて、何やら言い争いをしているようだ。
「ねえ、本気で細谷先輩を美容院に連れて行くつもり?」
「当然。もういくつか頭の中ではイメージがあるし。衿奈かて、仕返ししてやりたいやろ?」
まさか野球部員のようにするつもりじゃないだろうな――。
パドックは、最初のレースのときより、観客の数が増えていた。
一度当たったことで、抵抗感は多少薄れていたが、それでも人の目は少ないほうがいい。
「それなー。朝の人の少ないレースでしか成果が出せへんのが、今後の課題やな」
なるべく人口密度の低い場所に移動する。
「ほな、この二頭にしようか」
電光掲示板のオッズを確認しながら、月夜が新聞に赤の印をつけた。
距離を置いた場所で立ち止まった、細谷の視線を背中に感じながら、声かけの準備をしていたときだ。
目の前を通った馬から、殺気のような気配を感じた。周囲をにらむ目の光が尋常でなく見える。
その気迫に圧倒され、一瞬、指示を忘れてしまった。
「衿奈、11番が通り過ぎてしもうたけど。どうかした?」
「ねえ、9番の馬って、評判はどうなんだろ」
「え。9番って……」
彼女はオッズを確認し、無言になった。そのまま馬たちが一周を回る。
「おい。お喋りするんじゃないのかよ。まさかあたいたちに見られるのが恥ずかしいとか、そんなこと言うつもりじゃないだろうな」
予定と違ったからだろう、細谷と北原が怪訝そうにそばに来た。
「そうやなくて、衿奈がこのしんがり人気の馬が気になるって言うもんやから」
三人がそれぞれに、新聞に視線を落とす。
「初戦が芝の未勝利戦。15着に大差をつけられての最下位、か。走る理由があるとすれば、ダート代わりくらい。深紗、何か情報、ある?」
「悪い。このレースは特に何も聞いてない」
「そうか……。渡瀬くん、彼は何て?」
「えー……と。俺が絶対一番上だ、って、そんな意気込みしかないって感じです」
「もし馬券に絡んだら大変なことになるね」
「オーマにエントリーしてみるんはどうです?三連複の軸にして、二列目総流し。あるいは、いっそ、三連単の軸にして、全通りフォーメーションで買うとか」
「しんがり人気の馬からの三連単?それは無駄だろ。オーマは千倍で打ち止めだからな――。っていうか、お嬢、信じてるのかよ」
「それを確かめるのさ。では、赤坂くんの言う通り、三連複の1点流しにしてみようか」
本人ですら半信半疑の、雲をつかむような物語だというのに、三年の部長が、真剣な眼差しで携帯を操作する姿を見て、仲間として受け入れられた気になった。
「ちなみに、月夜にも聞いたんですけど――。勝つかどうか、気合いじゃなくて、走る速さで決まるんじゃないんですか?」
「それはその通りなんだけどね。調教師は、トレーニングを見て出走を決めているから、レースに出ている段階で、どの馬も、最低限の仕上げはされているはずなんだ。で、ゴール前はみんな疲れているから、最後は気力の勝負になることが多いのさ」
全員でトラックへと移動したあと、再びのファンファーレ。
緊張というよりは、期待のほうが大きかった。
あの気配を持った9番が、いったいどんな走りをするのだろう。
ゲートが開くと、驚いたことに、彼は一番最後に飛び出した。というよりは、周囲を見ながらわざと全馬が見える位置を取った、というように見えた。
道中はずっと最後方。最後のカーブを曲がるとき、外を回って進出を開始したかと思うと、直線は、おそらくはこういうときに使うのだろう、ゴボウ抜きをして、1着でゴールした。
1Rのときとは、レース後の余韻がまるで違う。観客たちがざわついている。
衿奈に振り向いた三人の目が、普通ではなかった。
「マジかーっ!あたいが社会人だったら、三連単、100万超え、取れてたのにーっ!」
細谷が髪の毛をくしゃくしゃにしながら、空に向かって咆哮した。
「あの、当たったんですか、部長」
「ボクが部長になって、初めてオーマの上限の千ポイントをゲットした、と思う……」
その頬は桃のように染まり、声はかすかに震えていた。
「おい、生意気。お前、大学卒業したあとも、ずっとあたいの後輩だからな。そのこと、絶対に忘れるなよっ」
不良が豹変した。
大金は、こんなにも簡単に人を改心させる。
「うちとも一生親友やしな」
月夜に抱きつかれるのと同時に、結果を知らせるアナウンスがあり、スタンドが揺れるほどの歓声が起きた。




