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3-4

 手の甲が握られた感覚で目が覚めた。武蔵野線に乗り換えたあと、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 顔を上げると、車内は新聞を手にした軽装の大人たちであふれていて、彼らは、そこが終着駅であるかのように、一斉に船橋法典駅で降車した。

 全員が同じ方向へと無言で向かう。その先にあったのは競馬場への専用通路だ。

 周囲を見回し、不安になった。子連れは何組か見かけたが、学生の姿が見当たらない。

「つ、月夜。最後にもう一回聞くけど。高校生が来ても問題ないんだよね」

 ただ名前を呼ぶだけだというのに、どうしてこうも恥ずかしいのか。だが、呼ばれたほうは、衿奈の腕を楽しそうに取った。

「大丈夫やって。逆に大歓迎されるわ」

 いつも通りの根拠なき自信に、ほっとする。

 歩く歩道の両側に掲示された馬の写真を眺めているうちに、いつの間にか競馬場の境界線を越えていた。

 入り口付近では、新聞と、そのそばでペンが売られていた。誰もその光景を気に留めず、それも含めてシュールというか、浮世離れした空間だ。

 漠然と場末の雰囲気を想像していたが、敷地内は思っているよりずっときれいだった。

 ゴミが落ちていないということ以外にも、建物だけを見れば、どこかの公共施設にいるのかと錯覚するほどで、化粧室や飲食コーナーも、映画館と同じくらいに清潔だ。駅を出たところから気づいていたが、案内や清掃をする係の人が、そこかしこにいるせいだろう。

 月夜は迷うことなく先を行き、やがて楕円形に仕切られた、小さな公園のような場所で立ち止まった。

 柵に近づくと、さらに構造が明らかになる。馬が周回する場所と、観客の間に植栽があって、小声が届く距離ではなさそうだ。

「どうや。できそう?」

「馬に話しかけていいの?」

「あかんのはフラッシュだけやから大丈夫」

 会話する、などという奇抜な行動を想定していないだけの気もするが。

 一抹の不安はあったが、大金を使ってここまで来たのだ。多少、恥ずかしい思いをする程度なら、何もしないよりはましだろう。

 人がなるべく少なそうな端まで移動した。

 第1(レース)開始三十分前。

 馬が姿を見せ、緊張が高まる。

 質問する内容については、事前に、念入りに打ち合わせしてあった。

「どの子に聞けばいいんだっけ」

「とりあえず、上位人気三頭くらいにしよか。人気の順で、まずは3番から」

 馬だけが歩いていることを期待していたが――当たり前だが、引く人間がいて、声をかけることができない。一周を無駄にする。

 月夜の手が背中に触れた。

「大丈夫やって。可愛い女子高生が何やったって、好意的にしか見られへん」

「可愛いかどうかは主観しかないでしょう」

 だが、ここで役に立つことを示さなければ、入部したとしても、居続けることが難しくなる。個人で使える部費がどの程度なのかは不明だが、危険なアルバイトをすることを思えば、いっときの恥ずかしさなど比較にならないはずだ。

 3番が再び近づくのが見え、深呼吸した。

「ねえ、きみ。調子はどうかな」

 前の引き手の男性が――馬の世話をする係りで、厩務員と言うらしい――彼が、機敏な動作で衿奈に振り返った。顔に血が上る。その場にしゃがみ込みたいほど、恥ずかしかったが、どうにか踏ん張った。

「どうやった?何て答えてた?」

「全然……聞こえなかった」

 おそらく、衿奈の側が平常心か、もっと言えば、牧場にいたときのように、澄んだ精神状態でなければ、感じ取れないのかもしれない。

「なるほど。アルファ波的なやつか。いや、この場合はシータ波かな。どっちにしても、朝一のレースにして正解やったな。午後から来てたら、どうにもならんかったわ」

 ただ、一度声を出したことで、羞恥心は幾分解消された。

「もう一回、試してみる」

 三周目。

 この場に、馬と二人きりなのだとイメージした。

「今日は勝てそう?」

 そう問いかけるのと同時に、手綱がピンと張り、厩務員が、うしろに引き戻された。

 馬がその歩みを止めたのだ。

 3番の彼はわずかの時間、衿奈を見つめ、それからまた歩き出した。

 月夜が背中から体に手を回してきた。

「もしかして、何か聞こえた?」

「たぶん……。今日はあんまり走りたくないって、そんな感じだったと思う」

「マジでっ?!」

 彼女はポケットから携帯を取り出すと、指の動きが見えない速度で画面を操作した。

「あの馬、単勝1倍台のダントツ人気やし、外れたら荒れるかもしれん」

「本人に多少走る気がなくても、実力差があって、それでも勝っちゃうってこと、ないのかな」

「もちろんそれはある。馬券という意味では3着でも対象になるしな。ただ、三連単の頭から外れることがわかるだけで、かなりの価値があるねん」

 要領を掴んだこともあり、残りの二頭からは、一度の問いかけで返事をもらうことができた。

 一人目は立ち止まらず、首だけ衿奈に向け、嫌いな馬がいて気分が良くないと言い、あとの一人は、早く走りたくて仕方ないのだと、首を上下に激しく振りながら、叫んでいた。

 月夜は競馬新聞を見つめてしばらく固まっていたが、やがて「ほな、こうしよか」と小さくつぶやき、携帯に何かを打ち込んだ。

 おそらくは送信のボタンを押したのだと思う、その手の動きからわずかに遅れて、遠くで振動音。

 その方向に目をやって、ぎょっとした。

 部長と不良が並んで衿奈たちに向かっていたのだ。

 携帯の画面を見ていた北原は、以前に見たときと同じく無表情。薄手のシャツにロングスカート姿。紺色のパンプスが太陽光を反射して、この場には似合わない、いかにもお嬢様の風体だ。細谷もロングスカートという意味では同じだったが、上が柄物のスカジャンで、ポケットに両手を入れ、わざとそうしているのかと思うほど、見事に不良を演じていた。

 やがて二人が間近に迫る。細谷はガムを噛みながら、衿奈を睨みつけた。

「お前ら、こんな朝っぱらから呼び出しやがって」

「いやいや。別にどのレースでも良かったやないですか。っていうか、いつ来はったんです?国府津行きの電車でした?あ、もしかして新幹線?」

「あたいらは泊まりだよ。お嬢は朝が苦手なんだ」

 名指しされた北原は、かすかに頬を染め、メガネを直す振りをしながら視線をそらせた。

「で、肝心の予想が、1番人気を外すだって?!寝言は寝てからいいやがれっ。あたいの知り合いが美浦のトレセンで働いてるんだ。そいつから、頭は鉄板だって聞いてるぞ」

「赤坂くんなら知ってると思うけど、単勝が160円を切ると、信頼度がぐっと高くなるという統計がある。このレース、一番人気は今、130円。もし外れるようなことがあれば、結構な波乱だよ」

 単勝というのは、1着を当てる馬券の種類。130円というのは、100円で買ったときの払い戻し金額で。つまりは掛け金が1.3倍になるという意味だ。普通預金の金利が1%に満たないのだから、信じられないほどお得ではある。

「うちは衿奈を信じてるんで。2番人気を頭にした三連単マルチ。二列目には3、4、5番人気を置いて、あとは総流しです」

 貫禄を見せる上級生二人を相手に、月夜はまるで動じることなくそう言った。

「ふん。配当妙味(はいとうみょうみ)のある、あとのレースを選ぶつもりだったけど、あたいたちも、このレースにしてやるよ。お前らが外れるんだ。こっちは1番人気の複勝、1点買いで勝ちになるってことだしな」

 細谷は、月夜と衿奈を交互に見たあと、自信満々にそう言って、トラックのほうへと向きを変えた。

 その予想配当は、1.1倍程度だったが、月夜がマイナスになることを前提にすれば十分、という意味のようだ。

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― 新着の感想 ―
あまり競馬に詳しくないんですが、読みやすくて面白かったです!続きが楽しみです。
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