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2-7

 初めてそれに気づいたのは、小学校に入って間もなかったと思う。まだチャウチャウがいなかった頃の伊香保の牧場での出来事だ。

 老馬の食欲が衰えているのだと、飼育員が嘆いていた。

「どこか悪いの?」

 周囲に人がいなくなり、何気なくそう尋ねたとき、歯に痛みがあり、硬い物が食べられなくなっている状態が、ぼんやりと頭に浮かんだのだ。

 迷ったすえ、そのことを彼らに伝えた。

 大人たちは子供の言うことだと、軽く考えていたようだが、試しに、それまでの飼料をお湯にとかして与えたところ、老馬は舐め取るように完食した。

 牧場関係者からひどく感謝され、親にも褒められた。

 それ以来、馬に話しかけると、その反応がぼんやりと頭に浮かぶことが、たびたび起きるようになった。

 もちろん、ただの思い込みか妄想に決まっている。人前で披露するような異能などであるはずもなかった。

 たった今、大阪弁の少女に指摘されるまでは。

「この世には科学で説明できんことが、まだまだあるって言うしなー」

「そんな簡単に信じてもらえると、それはそれで恐縮するんだけど……」

 本人ですら確信が持てないファンタジー扱いの事案を、こんなにあっさり受けいれられるのも、やはり、富豪たるゆえんなのだろうか。

 世界はすべて金でどうにかできるのかもしれない、などと、魂に陰りが生じるのを感じていたとき、部室の扉が開き、カバンを手にした二年の中野麻理が姿を見せた。

「お二人はもうお帰りになるのですよね。わたくしもご一緒させていただいてよろしいですか?」

 およそ、競馬と無縁な雰囲気の彼女は、その印象に違わず上品な声でそう言うと、答えを待たずに優雅に廊下を歩き出した。

 入部するかはともかく、上級生の誘いを断るなどできない。加えて、あの不良と普段、いったいどんな会話をしているのかという興味もわいた。

 赤坂と顔を見合わせ、あとに続いて間もなく、前方から漂う大人びた芳香に気づく。彼女の雰囲気には、ややそぐわない気がしたが、きっと有名ブランドの香水なのだろう。

 中野が向かったのはカフェテリアだった。

「お好きな物を頼んで下さいな」

 庶民であることを見破られないよう、以前の赤坂にならってキャラメルラテを注文すると、その当人は、モカマキアートなる、耳慣れぬ単語を発した。

 中庭に面した席に陣取り、隣のカップを横目に見る。

「それ、ココアの一種?」

 恥をしのんで尋ねると、相手は目を大きく見開いた。

「な、何よ」

「ええわあ、衿奈のそういうとこ。愛おしくてしゃーない」

 意味不明の反応だ。

 恥をかいただけで、質問の答えをもらえぬまま、遅れて中野が席につく。

「なんだか、楽しそうですね。うらやましいな」

 両肘を机に置き、そう言った声音は、本心からの言葉に聞こえた。

「もしかして、お二人とも寮生ですか」

「うちは寮です。115号室。衿奈は自宅です」

「そうですか。わたくしは312号室です。ご来訪をいつでも歓迎します」

「あの、今日の活動は終わりなんでしょうか?」

 彼女が三年に挨拶した声が聞こえなかった。部活という組織は、上下関係の規律が根幹だという印象がある。しかも、上級生の一人があの不良だというのに。

「ミサミサが話していた通り、この部の活動はオーマ主体で、基本的には週末が一番忙しくなるのです。代わりに、月曜から木曜は自由参加。作業といえば、サイト更新くらいですので、毎日、そこまでやることもないんですよね」

 あんな人相の悪い人間であっても、可愛らしいあだ名をつけることで、印象がガラリと変わることを知って驚愕する。同時に、衿奈の中での、中野の立ち位置が、頼れる先輩へと格上げされた。

「あの、いくつかお聞きしたいことがあるんですけど、教えてもらっていいですか」

「わたくしにわかることでしたら、何でもどうぞ。動物とお話はできませんけど」

 そう言って優しく微笑んだが、さすがにそれが真実だとは思っていないようだ。

「二年は中野先輩だけですか?」

「麻里と呼んでもらって結構です。そう、わたくしだけですね。去年の春頃には、一番多いときで五人はいたと思いますが――」

 文法的には、続きがあるはずだったが、彼女はそこで言葉を区切った。その態度に、突っ込んだ質問がためらわれる。

「あと、オーマって何ですか?」

「えー、そこからですか?もしかして初心者だったりするのかしら?」

 競馬という単語を身近で耳にしたのが前日だと、正直に伝えると、彼女は歯を見せて笑い、バッグを開いた。

 衿奈の母が購入を決意するのに数ヶ月の期間を要するブランドだ。

 そのことに気を取られ、中野が手にした黒い表紙のノートが、普通よりは大きなサイズであったことに気づかなかった。

 ページをめくるとき、目に入ったのは、色鉛筆で描かれた校内の景色や、猫や鳩などの小動物のイラストだ。

「それって麻里先輩が描いたんですか?めちゃくちゃ上手じゃないですか」

「ありがとう。大学は美術系に行くつもりなの。将来はイラストレーターになりたいって思ってるから」

 それであれば、ますますこんな部にいる理由がわからない。

 決測部の活動内容はともかく、そこに所属する部員たちの人間性に、さらに興味が引かれる。

「One Mile Afterっていう、民放テレビ局主催の予想大会の略ですね。競馬そのものはJRRが主催しているんだけど、結果の予想が競技になっているということです。ちなみに、1マイルは、約1600メートルです」

 彼女は、話しながら、同じ内容をスケッチブックに記した。

「大会ってことは、賞金とか出るんですか?いつどこでやってるんですか?」

「毎年、前後期に分けて開催しています。局の公式サイト上で」

 一月から六月までと、七月以降の半年。その間に開催される競馬のレースを予想し、その結果で順位が決まるのだそうだ。

「賞金とかはなくて、成績上位二百チームには、複製不可のデジタルアイコンが与えられるんや」

 赤坂が携帯を操作して、画面を見せてくれた。

 年度と前後期、それに順位がトロフィーの上に印字されただけの画像だ。

「二百って、結構な数だよね。それが年に二回も。価値があるの?」

「参加者は世界中にいるんや。今年度の前期のエントリー数は、五十万近くあったんやないかな」

「五十万?!それなら、確かに表彰されるのは大変そうだけど――。賞金もないのによくそれだけ人が集まるね」

「知名度が上がれば、予想を有料にできるやん。そこまでせんでも、集客力は単純に広告収入に直結するしな」

 経験したことはないが、予想などというものは、自分で行うから楽しいのではないのだろうか。金を払い、他人に頼るくらいなら、潔くあきらめるべきなのではないか。

 逆に、他人に売る程度に自信があるなら、その予想通りに、大金を賭けるのが筋な気がする。

 だが現実には、個人から企業まで、予想を公開するサイトは数え切れないほどあって、その中には大学や高校の部活も少なくないそうだ。

「オーマの成績は、わかりやすく例えれば、ミシュランガイドみたいなもんやねん」

 改めて、赤坂が開いていた画面を見ると、その予想サイトは、複数の年度で上位入選を果たしていた。

「わたくしたちの部の公式は、シールをもらったことは過去に一度しかないですけど、女子校ということもあって、それなりに名前を知られているんです」

 競馬関連だけでなく、普段の活動内容や、ときに部員個人の動向も記事にしているため、アクセス数は多く、収入も相当程度らしい。

 売り上げは、いったん学校側に計上されるが、必要経費として還元される金額は、他の部とは比較にならないほど潤沢で、移動費は当然として、文具関連や飲食費はほとんど無審査で許可されるという。

「それから、わたくしも噂レベルでしか知らないことなのですが――」

 それまで笑顔だった中野の表情に、小さな影ができる。

「支給される公費の一部には、用途制限がないようなのです。ミサミサは、たぶんですけど、それを授業料や生活費の足しにしているんじゃないかって説が、あったり、なかったり」

 そう言った彼女の内にある細谷の人物像と、ミサミサという愛称が一致していない気がした。

「うちの学校の順位はどれくらいなんですか?」

「現状は、どうにか四桁を維持しているといったところですね」

 優秀だった昨年の三年が卒業して以降、目に見えて成績が下がっているのだという。

 部室に入って感じた、殺伐とした空気や、細谷の荒んだ態度もそれが理由なのだろうか。

「あと一ついいですか?赤坂さんが目指してるインターハイを軽く扱う理由は何ですか?」

「インターハイは、その名の通り高校生しか出場しない大会です。競技日程も、確か、予選が八月の土日の二日間で、決勝が秋の天皇賞の週の土日の、計四日だけ。優勝しても、オーマほどは注目されないし、逆に、負ければマイナス評価となる。ミサミサみたいな拝金主義者にとって、参加して得るものは、青春の思い出くらいの、価値のほとんどないイベントなのだと思います。逆に、赤坂さんはどうしてそんなにこだわるのですか?」

「オーマは組織名しか表に出ないやないですか。しかも、高校は、学校が許可してないところも少なくなくて、数が限られてる。でもインターハイは、参加した個人名まで公表されるし、学校にその部があるところは、たいていエントリーしてるんです」

 競技は団体戦形式で行われ、出場校ごとの参加人数は、最大で六人。予想自体は個人で行うが、そこに参加することの意義は小さくないらしい。

 そして何より、彼女の兄は二人とも出場し、全国ベスト20に入っているのだそうだ。

「そやから、うちはそれ以上の順位に、いや、圧倒的な成績で勝ちたいんです」

 熱く語る横顔に、拾ったどんぐりを自慢していた弟を思い出した。価値観は人それぞれなのだ。

「一つ聞いていい?団体戦ってことは、個人の成績じゃなくなるんだと思うけど、それはいいの?」

「逆やん。組織で勝つことのほうに意味がある。優秀な仲間を見つけることが、企業経営の基本やもん」

 離れた席の生徒が顔を向ける程度に、彼女の熱量は高く、中野と衿奈を順に見たその目は、きらきらと輝いていた。

 職業の選択肢は無限にあるはずなのに――高校一年にして、この先進むべき人生の目標を定めていることに、敬意と、うらやましさを感じた。

 二人が聞き入っていることに気づいたのか、彼女は少しだけ頬を染め、髪に手をやる。

「まあ、そんな感じやし。だいたいわかったやろ?」

 競馬用語を一つも知らない初心者が、こんな情熱を持った人間に、いったいどれほど貢献できるのだろう。

 口に出したわけでもなかったが、そんな不安に答えるかのように、赤坂が、衿奈の背中に手を触れた。

「めっちゃ頼りにしてるからな。入部しませんとか、言わんといてな」

 他人から期待されることなど、親を除けば初めてのことではある。

「特に入りたいところ、なかったからいいけど」

 照れ隠しだったとはいえ、もう少し気の利いた返事をすれば良かったと、そう答えたあとしばらく後悔した。

OMAオーマは架空の大会です

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