2-6
盾のうしろからそっと前方を覗く。
入った直後は、気が動転して気づいていなかったが、部屋にはあと二人、人がいた。
机の一番奥の辺に座り、PCを開いているのは、初日、仲裁に入ってくれたメガネの先輩だ。
あとの一人は、不良の向かいに座っている。ロングボブでお嬢様風の容姿は、いかにも、この学校の女子らしい雰囲気。意志の強そうな濃い眉が印象的で、リボンの色で二年だということはわかった。
問題児は、仁王立ちで腕を組み、目の前の一年を瞬きもせずに睨んでいる。
やがて、これまでとは違い、低く、抑えた声を出した。
「まさかとは思うが。うちに入りたいって言い出すんじゃあ、ないだろうな」
威嚇するような発言だったにもかかわらず、赤坂はカバンの中を探り、一枚の用紙を取り出した。
彼女がゆうゆうと机に置いた用紙には、入部届けという文字が見えた。不良はそれを荒々しく掴み、もう一度睨んだ。
「やい、てめえ。赤坂のあと、何て読むんだよ、このつきよって」
「それで合うてます。つきよ、です、先輩」
こんなにも物怖じしないのは、きっと家が裕福だからだろう。学歴がなくても生きていけるからに違いない。
やがて、それまで二人のやり取りを包容力のある目で見守っていた、メガネの女子が立ち上がった。
「入部を歓迎するよ、赤坂くん。ボクは三年で部長の北原和香。そっちの、乱暴そうな子が同じ三年の細谷深紗。で、最後が二年の中野麻理だ。キミは関西出身のようだけど、どうして倉女を選んだの?競馬の予想をする部活なら、向こうにもあるよね」
そうだったのか。
かなり特殊な活動に思えるが――まだまだ世間知らずということのようだ。
「大阪です。共学やったら確かにあります。でも女子校でこの部活がある学校は、ほとんどないですし。両親が入学を許してくれるレベルやと、倉女くらいなんですよ」
「地元を遠く離れてまで、女子校を選ぶ必要があったってこと?」
「うちの父親は、競馬サークルでは、それなりに名の知れた馬主です。本業は製鉄関係ですけど、そっちはもう隠居して、今はオーナー稼業にどっぷりなんです」
「え、ちょっと待って。赤坂って――もしかして、クリムゾンヒルカンパニーっ?!」
「さすが。大正解です」
北原は、驚いた様子で不良と顔を見合わせた。
「うちは物心ついたときから、近くに馬がいて、大人になったらこの仕事をするんやって、誰に言われることもなく、そう思ってました」
それから彼女が語った身の上話はこうだった。
赤坂の父親は、この業界で知らぬ者がいないほど、強い馬を何頭も所有する組織の代表だそうだ。
彼女には年の離れた兄が二人いて、片方に製鉄会社を、残る一人に馬主を、いずれ継がせようと、父親はそう考えているらしい。だが、兄たちはどちらも、競馬にはまるで関心がなかった。
「父親がタレントみたいになってて、ときどきテレビとかに出てるのが気に入らんみたいです。若いのに、変に堅物っていうか、お遊びで金儲けするのは間違うてるって、そんな偏屈なやつらなんですよ」
それなら、情熱のある妹が彼らの代わりになるべきだと、彼女は当然そう考えたが、父親は昭和気質の人間だった。牧場関係者や、調教師、騎手など、多くの関係者と、ときに盃を交わしながら人脈を維持し続ける仕事が、女に務まるはずがないと、そう考えているのだという。
「女でも男と同等以上に、馬主としての能力があることを示したい。競馬という競技、いや文化において、レースの予想は、それらに関する知識がもっとも凝縮された中心円です。そやから、倉女でインターハイに出て、共学とか男子校の連中を圧倒して勝ちたいんです」
彼女の周囲だけ、温度が一度高かった。ただ、室内にはそれが伝播していない。
部長はメガネを鼻のあたりで軽く持ち上げ、細谷はいつの間にか元いた椅子に座り、退屈そうに、宙を見ていた。
「あれ。うち、何かヘンなこと言いました?」
三年の二人が目を合わせたのがわかる。
しばらくして、不良のほうが口を開いた。
「お前の意気込みはわかった。だけど、しょせんは、金持ちの跡目争いだろ。それを部活に持ち込まれてもな」
「いやいや。うちの事情を考慮してほしいなんて言うてないです。ただ、みんなでインターハイに出たいだけで。それくらい、普通ですよね?」
上級生のなぜか重い反応に、彼女が戸惑っているのがわかる。
細谷はそれには返事をせず、やがて部長の北原がノートPCをパタンと閉じた。
「赤坂くん。決測部はインハイには出場しないのさ」
「え?それって、人数が理由ですか?うちと、衿奈を入れて五人になりますよね?確か参加の最低人数は三人。足りてると思うんですけど」
「あの、まだ入るとは――」
「人数が理由じゃねえよ」
細谷はうーんと腕を伸ばしたあと、頬杖をついた。個性の際立つ人間ばかりで、どうやら、衿奈の存在は、すっかり意識の外に追いやられているらしい。
「去年、卒業した先輩は三人いたし、規定の人数を下回ったことは創部以来ないはずだ」
「だったらどうして――」
「ここは、OMAに注力しているからだよ」
北原がゆっくりと立ち上がった。
また知らぬ言葉が出てきた。
オーマって何だ。巨神兵でも覚醒させるつもりか。
自らも関わることになるかと、必死に会話を聞いていたが、あまりに住んでいる世界が違い、知恵熱が出そうだ。
「この部の伝統――って言うと大げさだろうけど、先輩方は、インハイを格下扱いしてきたんだと思う」
どうやら競馬予想のコンテストにはいくつか種類があるらしい。赤坂が目指しているのは、高校生による全国大会で、それが開催されるようになってから二十年近く、これまで、倉女は一度も出場したことがない、ということのようだ。
人生最大の目標への熱量があまりに違っていたせいだろう、さすがの赤坂にも、それまでの勢いが弱くなったように見えた。
反論をしないその背中が寂しげに見えて、思わずそっと触れると、彼女は首だけ振り返り、「あ」と声を上げた。
「すっかり忘れてたわ。ごめん」
衿奈のうしろに回り、自身の前へと押し出す。両肩に手を置き、明るく言った。
「先輩、あと一人、入部希望者です。一年A組の渡瀬衿奈」
いやいや。一度も希望したことはない、というのに。
そんな不平を口にしたわけではなかったが、細谷は足を組み、視線を鋭くした。
「先に言っとく。籍を置くのは自由だが、お前らが活動に参加できるかは別問題だ。何たって、あたいらは学校の名前を背負ってるんだからな」
不良に威嚇されてまで、この場にいたいはずもない。
そもそも、競馬の知識など皆無だ。おまけに、赤坂とは育った下地も、かける意気込みも違いすぎることが判明した。同じ舞台に立たされてはたまらない。
さっさと部屋を出るべく、体を反転させようとしたが、肩を掴む強い力がそれを許さない。
「うちは当然として、衿奈はこの部に相当に貢献すると思うてますけど」
「そんなわけないじゃないっ」
「おいおい、仲間割れか?関西弁はともかく、生意気のほうはまるで素人って感じじゃないかよ。うちの部費は、ほとんどが広告収入からの配分なんだぞ。自力で稼ぐしかない状況で、そんなやつに無駄飯を食わせる余裕なんてないんだ」
おい。
話が違うじゃないか。お金は使いたい放題ではないのか。
唯一、参加の意義を見出すとすれば、その一点だったというのに――それすらも実現しないのであれば、もはや離脱の一択だ。
「もう二度とここに来るつもりはないので」
そう言おうと、息を吸ったときだった。
先に声がした。
またしてもうしろからだ。
「この子は、秘密兵器です。誰よりも丁重に扱う必要があると思いますよ」
自信満々の意味がわからない。誰かと間違っているのか、あるいは、名のある詐欺師が降霊しているかのどちらかだ。
ただ――。
長らく、疑問だったのは確かだった。
牧場で邂逅したとき以来、彼女が衿奈を誘っている理由が。
無理やり根拠を探すとすれば、個人的に好意を持たれている、くらいか。態度にはまるで表れていないし、そもそも女同士でもあるが、一目惚れのような感情が絶対にない、とは言い切れない。
「秘密兵器だと?当の本人は、意味がわかりませんって顔してるじゃねえか」
その見立ては百パーセント正しい。場違いが度を超している。
北原も、二年の中野も、そんな大げさなウソは必要ないのに、とそんな表情を見せていた。
「しゃーないですね。それじゃ、教えてあげますよ」
観客を前に、種明かしをする手品師のように、赤坂はそこで、言葉を区切り、最大限にもったいぶってこう言い放った。
「衿奈は、馬とお喋りできるんです!」
何、だってっ?!
思わず彼女に振り向いたが、その横顔は晴れやかで、言ってやったぞ、という達成感で一杯に見えた。
どうやら本気らしいが、反して、一瞬の静寂のあと、部屋の中には笑い声が響いた。
笑顔になりそうにないタイプの三人が、それぞれに歯を見せている。
「さすがのあたいも、そんな答えは予想してなかったよ。あれだけ引っ張って、オチがそれってさ。お前、落語家にでもなったらどうだ」
赤坂が何を企んでいるのかは不明だったが、悪人だと恐れていた細谷が、どこにでもいる高校生に見えたのは、思いがけない効用ではある。
上級生たちの反応を前に、この騒ぎの中心にいた少女は、やがて声を低くした。
「あれれ。もしかして、疑ってたりしますか?」
その声調が、どこか怒っているように聞こえたのは衿奈だけではなかったのだろう。
細谷が真顔になった。
「誰が信じるよ、そんなこと。もういいから帰れ」
そう言って立ち上がり、新入生二人の前で、追い払うように振った手を、赤坂はぎゅっと掴んだ。
「ほな、入部を賭けて勝負っていうのはどうです?うちらが勝ったら、一緒にインターハイに出場してもらう、とか」
「ふざけるな。こっちに何のメリットもないだろうが」
「メリットですか――。それやったら、先輩が勝ったら、うちがお世話になってる美容室、紹介しますよ。確か東京にもお店、あったはずですし。もちろん、費用もこっちもちで」
相手の頭部を見ながらそう言った。
「ふざけるな。地元で十分だよ」「なかなか魅力的な条件だね」
二人の三年が声を揃えた。
「お嬢。お前、何言って――」
「深紗が都会っぽくなるところ、ボクも見てみたい、かな」
細谷の頬が染まったように見えたのは、太陽光の加減とは無関係だったと思う。どうやら、部長の言葉に不良は従順らしい。
「わかった、やってやるよ。だったら一発勝負だ。お互い、レースを一つ選んで、その配当で決める。それでどうだ」
結局、その週末に、千葉の船橋まで出向くことが、本人の承諾なしに決まってしまった。
部室を出て、無人の廊下に二人きりになり、ようやくほっと息をついた。
「衿奈、何で反論せんかったん?自分、馬と喋れるやろ?」
立ち止まり、覗き込んだ相手の目は、テレビで見た南極の表層融解水のように澄んでいた。
「どうして……そう思ったの?」
「伊香保の牧場でチャウチャウに話しかけてたときや。一分も経ってないのに、あの子のケガを見抜いたやろ。うち、耳を疑ったわ。傷は完治してたし、歩き方も完全に元通りのはずやった。それは、獣医さんも断言してたから間違いない。レースで、ゴール前くらいの負荷がかかってるんやったらともかく、止まって草食べてた状態でわかるはず、絶対にないねん」
まさかあの短い時間に、そこまで深く考察していたとは。
牧場で出会ったときの情景がよみがえった。
赤坂のような事情があったのなら、馬と意思疎通できる、高校受験前の女子を見つけたとして、大慌てで声をかけたくなるのは理解できなくもない、か――。




