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2-5

 次の朝は、アラームに頼ることなく目が覚めた。

 やや大げさに言えば、およそ半年間に及んだミステリーが、とうとう解き明かされる日がやってきたことになる。

 楽しみにしていた本の発売日のような高揚感だ。

 登校したとき、教室の中が、いつもより明るく感じたのは、さすがに思い過ごしか。

「衿奈。今日は一緒に帰るでしょ?」

「ごめん。C組の友達の、部活見学について行くことになってるんだ」

 横川にそう答えたとき、心の余裕が前日までと違っていることに気づいた。

 どうやら寮へと招かれたことが、小さな自信となっているらしい。あるいは、誰かに、家の経済的事情を打ち明けたことで、心理的な重荷が減ったのかもしれない。

 気づくと、またあの謎の大阪人のことばかりを考えていた。

 放課後までが長く感じられる。

 横川たちが姿を消し、やがて教室の人口密度が下がると、本当に彼女はやってくるのだろうか、などという不安に襲われた。

 衿奈からC組に出向こうかとも考えたが、あの長い髪の女子と遭遇したときの対応がよくわからない。

 携帯を手に、登録されたばかりの宛先を見つめていたとき、入り口に人の姿があり、同時に関西弁が教室内に響いた。

「ごめん、待たせたかな。ほな行こか」

 廊下に同伴者はいなかった。あの友利愛とかいう女子は、部活に誘っていないのだろうか。

「どこに行くのか、いくらなんでも教えてくれるんだよね」

「どういう意味かなあ。隠したつもり、一回もないけど」

 真剣な内容であっても、軽口で返すのは、関西人としての性質もあるかもしれない。だが、質問した側は、すぐに答えにたどり着けないことは不満でしかない。

「昨日、何だか駆け引きするから教えないとかって、そう言ったじゃない」

 そんな衿奈の反応も、想定の範囲内だと言わんばかりに、彼女は楽しげに笑う。

 子供扱いされて、腹立たしいような、気のおけない関係であることが、うれしいような。

 過去に経験のない感情のまま、半歩あとを歩く。

 部活棟は、一階は運動部男子、二階は文化部で、三階は運動部の女子にあてがわれている。

 階段を上るかどうかで、どこに向かっているのか、ある程度は予測できるだろう。

 いずれにしても、最初に昇降口に行くのだと疑っていなかったが、赤坂は上履きのまま廊下を行き、教室のある建物の最上階、四階まで進んだ。

 入学してからまだ一度も立ち入ったことのないフロアで、最初の扉が、いきなり理事長室だ。

 その隣に見えた部屋の掲示札にぎょっとした。

「待ってっ。もしかして、生徒会に入るつもり?!」

 それなら――他の部活よりは、衿奈を誘う理由がわずかでもあるかもしれない。

「自分、何言うてるん?生徒会は選挙で決まるやん」

 心底、意味がわからないという声調の彼女は、そのまま前を素通りした。

 続けて、ガラスの向こうに多くの機材が見える放送室の中を興味深そうに眺めながら歩き、そのさらに一つ先の扉の前で静かに足を止めた。

「はい、着きました。けっそく部です」

 そう言って、しなやかに手のひらを向けた。

 その部屋は、新規事業準備室というプレートが掲げられていた。

「今、けっそくって言った?意味わかんないんですけど」

 どうひいき目に見ても、部活をする雰囲気ではない。

「略称や。決勝線予測部の」

「決勝戦……予測部?何の競技?決勝戦の予測って――」

 これまでの謎が解消されるどころか、さらに倍増し、気が狂いそうだ。

「衿奈が今思い浮かべてる、けっしょうせんの漢字が違うと思う。ファイナルマッチやなくて、ゴールライン」

「はあ……。だとしても全然わかんない。そもそも、そんな部活、学校案内に載ってないけど」

「部活というより事業として位置づけられてるんやろうな。とりあえず、中、入ろ」

 赤坂がドアノブに手をかけそうになったのを見て、慌てて腕を引いた。

「ちょっと待ったっ。事業って何?不気味で怖い。わたしも一緒に行かないといけないの?」

 彼女は衿奈の顔をじっと見つめ、あははと高笑いした。

「学校の中で怖いこと、あるはずないやん。あっちには理事長室もある場所やで。もう、どんだけ可愛いねん」

「いや、可愛いって……。せめて何をするところか、それだけでも教えてよ」

「そうやなあ。簡単に言うたら、競馬の予想をするところ、かな」

 何、だって……?!

 聞き間違いかと思ったが、彼女の口からその単語が出るのは、これで三度目だった。

「で、それを公開して、広告収入を稼ぐねん。学校のIR見たらわかるけど、ちゃんと営業外収益に計上されてる」

「アイアールって――確か、統合型リゾート……?」

「ようそんな難しい言葉、知ってるな。そっちやなくて、投資家向けに公開されてる企業情報。つまり、決算とか、そういうやつ」

 そちらのほうが、よほど専門的じゃないか。

 いや、今、問題はそこじゃない。

 競馬の予想をする部活の扉を、目の前の少女が、まさに開けようとしているという現実だ。

「念のために聞くけど。わたしも一緒に入れって意味じゃないよね?」

「逆に教えてほしいんやけど。衿奈をここに連れてきた意味は何やのん?保護者的な立場とか?」

「無理だって。わたし、賭け事なんかしたことないし、興味も、それにお金もない。だいたい、法律に違反しているでしょう」

「前にも言うたけど、禁止されてるんは、勝馬投票券の購入。予想だけやったら、何の問題もないし、現に、中学生とかにも有名な子がいてるよ」

 確かに、そういう肩書きの人間を、テレビで見たことはある。

上泉蒼(かみいずみいあおい)って名前、聞いたことない?」

「確かタレントさんだったけ」

「予想家の仕事を、職業としてこの世に認知させた人や」

 昭和の時代、競馬は男性向けのギャンブルという位置づけだった。その後、JRR(日本競馬連盟)が何十年にもわたり、社会的地位の向上のための広告戦略を実行し続けた結果、令和に入る頃には女性や若者も参加する娯楽として定着した。昨今では、子供のなりたい職業ランキングのベスト20に、予想家が入るほどだという。

 上泉は、そんな時代の寵児と呼べる存在らしい。高校生の頃から予想を公開していて、その内容と結果が、競馬新聞のプロ顔負けの精度だったそうだ。

「最近は、動画サイトで予想をたまに公開してるくらいやけど、視聴者数は二百万人を超えるカリスマなんやから」

 高い熱量の人間を前に、反論はしなかったが、衿奈自身は、昔からテレビや有名人にはあまり興味がない。

 さらに言えば、これだと言える趣味らしきものがないのだ。強いてあげれば、読書と勉強くらいか。

 説得する側にとって、そんな人間の反応はおそらく期待通りでなかったはずだが、相手はあきらめる気配を見せることなく、攻め手を変えてきた。

「自分、競馬っていつどこで始まったか、知ってるか」

「イギリスじゃないの?時代はよく知らないけど」

「近代競馬という意味では、その答えも間違ってはないけど。正解は紀元前12世紀。ホメロスのイリアスに記述があるんや」

「ああ、そう……」

 それから、赤坂は競馬の歴史について語り始めた。ギリシアの古代オリンピックや、ローマ帝国のことを、まるで見てきたかのように語る。

「エリザベス1世も、自分の馬を持ってたんや。17世紀の終わりになると、今の競走馬の血統図に名前が残る、三頭の始祖が次々と現れる。名前、知ってる?」

「そんなわけないよね」

「バイアリーターク、ダーレイアラビアン、それから――」

 この講義はいつ終わるのだろう。興味のない話題について、詳細を聞かされても、ほとんどお経だ。脳がしびれてきた。

「もちろん現代においても、世界中で開催されてる。競馬場のない国を探すほうがたぶん難しい。イギリスやフランス、アメリカは知ってると思うけど、他にもドイツやイタリア、うちがこの前行ったオーストラリアにニュージーランド。アルゼンチン、香港、UAE、南アフリカ――」

「もういいよ。だいたい、わかったから。競馬は世界の歴史的遺産であり、文化ってことだよね」

 苦行から逃れたい一心で、聞いた内容を適当に要約すると、相手は感心したようにうなずいた。

「なるほど、確かにそうとも言える。自分、物事の本質を見抜く力がすごいな。そんな衿奈を見つけたうちの願力も相当ってわけやけど」

 読経に加えて、常軌を逸した前向きな言動に、抗う気力がそがれる。

 まるでその瞬間を狙ったように、彼女は思わせぶりに、衿奈の耳元に口を寄せた。

「それにな。ここは結果さえ出せば、学校から公的に資金が援助される。つまり、お小遣いがもらえるんや。援交するより、はるかにまともやと思わへん?」

 弱まっていた思考に、追い打ちをかけるかのように黒歴史を持ち出され、恥辱で、まともな判断ができなくなった。

 これが洗脳というやつに違いない。

 頭は拒否すべきだと判断していたが、心は従属を選んでしまった。

「つまり、わたしはどうすればいいんだっけ……」

 かなり長く話していたにもかかわらず、一人の姿も見えなかった最上階。理事長室や、生徒会室のある並びの部屋の取っ手に、赤坂は勢いよく手をかけた。

「それはもう、こうやろ」

 その動きを見ながら、無意識に息を止めていた。

 経緯はともかく、人生で初めての部活への参加だ。その誘導路の火が、今まさに灯ろうとしている。未知の世界への不安と、そして期待が胸に渦巻く。

 それなのに――。

 開かれた扉の向こう、最初に目が合った人間は、どこかで見たことのあるような風貌で、それを証明するかのように、中から怒声が飛んできた。

「何だ、てめえらは」

 このお嬢様学校において、おそらく唯一、汚い言葉を吐く女。現時点でもっとも会いたくない人間と、こんな閉じた空間で再会することになるなんて。

 会社の役員室のような無機質な部屋の雰囲気に、まるでそぐわない異物だ。

 本人は、息を吐くように発声していたが、壁に反響して耳の奥が震える程度の音量となり、外で会ったときとは威圧感がまるで違う。

 入学式の日に迫られた記憶が克明に頭に浮かび、尿が少量漏れた。

「お前、この間の生意気な新入生じゃねえか。何しに来やがった」

 確か深紗という名だった不良は、立派な長机に、素足の状態の両脚を投げ出し、雑誌か何かを手にしていたが、それを乱暴に放り出して、立ち上がった。

 無意識の内に、赤坂を盾にしようと、その背中に移動する。彼女は身長は衿奈と同じくらいで、軽く膝を曲げただけで、視界から敵が消え、わずかに冷静さを取り戻した。

「どういうこと?衿奈、もう先輩と知り合いなん?」

「誰が先輩だよ、この関西弁野郎。お前ら、ここがどこか、わかって入って来てんのか?」

 彼女は、衿奈以外の相手にも、あのときと同じように悪態をつき、その事実に、どこかほっとした。

 そして、赤坂はこれまでの印象そのままに、まるで萎縮する気配を見せない。

「もちろんです。決勝線予測部。この学校で唯一、外貨を稼ぐことを許され、あるいはその責務を負わされたところ、ですよね」

 胸を張った彼女に、周囲が無音になった。

 いったい不良はどんな顔をしているのだろう。

※JRRは架空の組織です

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