現象学的純文学論 6
想像的ノエマは意識に対して柔和な側面をしか、あえて示していない。単語的な声を宛がうという一連の描写(粗描)を通してこれにノエシスが付け加わる。その後、純文学においてことに必要な手続きというのは、この想像的ノエシスからあの純然たるノエマのむくつけき無気味さを類推することであり、そこへと想像的なものをさかのぼらせることなのではあるまいか? 想像的なものを実在的なものになるべく近づけるべく原印象を充足させるノエシスとしての意味充実的な(実在するものとの参照関係を含意するところの)声を援用し、そこからさらに、ノエシスからノエマへの、それもなるべく純然たるノエマへの反転をなしとげようとする。原印象の意識を圧迫するあのむくつけき無気味さを逆説的に明示的に復元させるという企てなのではあるまいか。
想像的なものは、声に俟つが、その声が非‐論理的である点で、原印象のノエシス的側面を充足する声の非‐論理性と見分けがつかなかった。とは言え、前者の声は喚び出す声であり、後者の声は寄添って呼応する声である。しかも、想像的ノエマを喚び出す声には、もう半面を付け加えてノエシス的にこれを充足させる寄添う声が相継いで起こるのである。喚び出す声が意識に像を与えている。再‐現前化(第二次想起)は非‐知覚である。つまり意識は像を実際に視認しているわけではない。
像に関して、意識は見ようとすること一辺倒であり、さもなければたちまち立ち消えになってしまいかねないので、この盲目の――見えないものを見ようとするがゆえにそれについては盲目の――像にはつねに見られているという属性が欠けている。
像に一連の動作を与えようとして、人はややもすると、みずから目を瞑ったまま、その像に成り代わって一連の動作を記述してしまいがちである。像には外貌がないのだから、実際に目を開いていようが、いまいが、像を喚び出している最中、人はつねに目を瞑っているに等しいのである。目を瞑ったまま、外貌のない像の一連の動作を記述する。となると、一連の動作はすべて像自身の内がわから規定されざるを得ない。声によって像は動作しはじめるのだから、この声こそが内的契機であり、この声をそのまま記述すれば、動作が内がわから規定されるのは勿論のことである。像を貫通している運動を司る神経は、像の想起者がもつ運動を司る神経と同根であるからだ。想起者の運動を司る神経につながって像は動作する。外貌を欠いた像の動作が確信をもって記述されるのは、想起者が目を瞑ったままであっても、自身の動作を内的感覚への確信に基づいて記述できるからであり、像が外貌を欠くことは、この際、想起者が自身の動作の像をもつときに自身の外貌を欠いていることに等しいのである。想起者は自身の内的感覚への確信に基づいて動作を記述するが、同時に自身の外貌への確信はもっていないからである。
もしこのように像に付与される動作を記述すれば、あたかも外貌をそなえた動作の描写であるかのように記述はふるまうだろうが、想起者自身がみずからの外貌をもつことができないのと同断に、像もその外貌をもつことができないままである。




