現象学的純文学論 5
意識に直接与えられるものとしての原印象は、純然たるノエマであり、意識はこれをただたちどころにあらわれるがままに受容することを強いられている。これに呼応して声が響くことで、ノエシスとしての双面神のもう半面が付け加わる。
見えていても、いくら目を凝らしても、何であるかわからないものがある。ふさわしい声がこれに呼応することができず、今しばらくのあいだ、与えられているものの意味が不明瞭であり、意味の不明瞭なものが意識に与えられているあいだ、その上には不安の漣が立ちつづけるだろう。いかなる声もこれに附添うことのできない純然たるノエマは、永くさらされつづけると、ただ現前しているというそのことによって意識を脅かしはじめる。ノエマからノエシスへの移行期間に、これだけの不安が忍び込むすき間が空いていることになり、少なくともこの移行が同じずれのない一つの瞬間に行なわれるものではないとわかる。
ところで、想像的ノエマは脅かさない。言語に先立つイメージとは、想像的意識のノエマ的相関者である。像と呼びかえてもよい。像はそれに先んずる声に感応して立ち現われる〔再‐現前化する〕ものであるがゆえに、声に先んじ、声が宛がわれないで不安を搔き立てるという先の原印象のような、ノエマとしての双面神の兇暴な側面をもってはいない。
創作は、意識に直接与えられたものを基に、記述によってその状況をつぶさに写し出し、したがってその記述が、意識の受動的な様態それ自体のスケッチであるようなことはまずありえないだろう。原印象についての記述は、ノエシス的充足をうけたあとのそれの筆写でもあるとともに、むき出しにされた無気味なノエマと、内世界的に定立されたノエシスの、それぞれに対する意識の様態をも写し取ったものとなるだろう。像を基に、像を喚び出したところの声の外化によって、あるいは声自体の単語的な響きを、共義的で論理的な整姿をほどこしながら、長く時間的につみかさねるべく外化してゆく記述によって、とある非‐実的な状況を創り出してゆくのが、創作である。
像は言語表現〔表象=代理〕には先立っているとはいえ、声には先立っていない。言語に先立つイメージは声に先立っていない。いずれの純乎たる非‐内世界的なものを志向する想像による再‐現前化も、声に俟ち、像は、声によって喚び出されている。原印象と像とは、声に俟つか、俟たざるかによって明々白々に区別されている。とは言え、像を喚び出す声は、相前後して何らかの論理的勾配にしたがうて生まれそして消えゆく底のものであるのではない。声が声の上に相継いで重なる単語的な響きにより、刹那的ながらも射映的な、消えかかりつつたえず新たな側面が付け加わる像が得られるものの、この連続性は、論理的ないかなる流れも形成することができないのである。と言うよりも、どうやら想像的ノエマは論理に対して非常に感応しづらいもののようだ。いずれにせよその論理的に無勾配なありさまは、ノエシス的充足をうけたあとのかつての原印象と、この点において、何ら変わるところがないのである。論理的な勾配をそなえていないありさまにおいては、原印象と像とは区別されえない。この声は、非‐論理的性格であるがゆえにまだそのままでは記述不可能である。




