現象学的純文学論 2
数十年のうちにまたたく間に言語表現の間接性を追い抜いてきたかに思われる表現媒体は、想起を俟たない。直接感覚のいずれかに訴える手段をもっている。とりわけ視覚的イメージを伴う表現に関する受容は無媒介的に起こる。視覚的イメージを目にしながらこれを拒絶する余地は残されていない。言語表現であれば、漠然と目にしている文字の排列の印象はこれを意味を成さないままに拒絶することができる。シニフィエがイメージを媒介するまでに、シニフィアンとの結びつきが学習されていなければ、能動的に読んで想起してすら理解を拒絶される。コードを拾うように上から順に言葉を打鍵して響かせなければ、意味を成さないのは勿論であるが、朗読でもないかぎりひとりでに打ち鳴らされることはない。つまりほぼ、受容器官に流れ込んでくるものはないに等しいのである。
言語表現の受容は有時間的であると言える。言語は同時に相異なるものを示すことはできない。一つずつ順番に示し、また示す際には視覚的な並列=論理的に無勾配の状態で示すことはなく、一つ目を示したあと、関係性を糸のように引延ばしていった先につながっているものとして、二つ目を示す。延伸される関係性の網目は視覚的イメージに含まれていない。この網目は透明であり、透明であるがゆえになぞるように手繰らねばならない。ひと目で視認できない透明な網目を手繰らねばならないがゆえに一定の時間を要する。一つ目の把握から二つ目の把握までが関係性によって隔てられているということは、時間的に隔てられているということである。
言語表現は関係性の把握によって物事を描写する。
とすると、仮にここにとある人物の似顔絵を用意してから言語表現を起こしてゆこうとする。言語表現は人相書きを完成させることが目的なのではないが、目の前に似顔絵があると、この無時間的表象に、有時間的たりてはじめて力を得るところの言語が拘束される。
瞳が暗く翳るほどにまつげが長い。目尻が重たい。鼻筋はとおっているが少し長い。人中は短い。笑うと頬肉の少ない冷たい印象を裏切って、薄い乾いた唇のあいだから乱杭歯が顔を出す。
無時間的に並列している=論理的に無勾配のものどうしをその通りにえがこうと努めれば努めるほど、ト書きのようになる。似顔絵の印象とは、眉、目、鼻、人中、唇、これを囲む輪郭どうしが営むプロポーションの問題である。無時間的に目に飛び込んでくるものどうしの数学的距離を、言語によって表現しようにも、この距離は時間によって隔てられている距離ではない。時間的に隔ててはならない距離である。
瞳が暗く翳るほどにまつげが長く、鼻筋もよく通っているが、笑うと、薄い唇がよけい貧しげに両がわに引っ張り上げられて、乱杭歯が恥じらう様子であらわれた。頬肉の少ない冷たい印象をいい意味で裏切る微笑であるが、その薄氷に亀裂の走ったような不規則な歯並みの突然の露出は、一旦惚れると相手が呆れ返るほどに惚れこんでしまう自己放棄の危うさをも感じさせた。
一方、文学的言語表現はプロポーションの問題を関係性の問題へと置き換える。意識は似顔絵へは向かわずに言語表現それ自体の形成へと向かう。似顔絵を無時間的に構成していた線描は解体されて、その顔が諸方に向かって弾き出す効果の軌跡、その顔が諸方に向かって張りめぐらせる関係性のえがく軌跡がこれに置き換わる。似顔絵すなわち先行していた視覚的イメージは、言語自体の興味深い挙動を惹き出すための媒介なのである。視覚的イメージに触発され運命づけられて分化した言語は、表現として受肉し、自己目的化され、先行するすべてを廃棄した上で客体化される。視覚的イメージを超えて肉体化されるのである。




