現象学的純文学論 1
言語に先立つイメージ。言語表現を用いてぶざまに映像の後追いをしている一派が存在する。しかし言語表現は映像よりも歴史が長い。その言語表現が「まるで映像を見ているかのようだ」とメタ的に表現されることを人はほめ言葉として受けとってよいものだろうか。
言語に先立つイメージ。絵画に先立つイメージが取り沙汰されることはないというのに。言語表現の前後においてなぜイメージは温存されるのだろうか? イメージが十全に開示されることは言語表現ではありえない、という先入主を彼等はもっており、映像を扱えない彼等はこのことに不満をおぼえる一方、イメージが十全に開示されえないことに安心感をもおぼえているのである。
なぜなら、イメージは彼等自身にしか知りえないものであり、且つ、彼等自身にとってすら不鮮明で不確定なものであるが、彼等は言語に先立つイメージは神聖且つ不可侵であり、言語表現それ自体よりも貴重であるという自己神話化のドグマに囚われているからである。彼等自身にしか知りえないことについて彼等は饒舌である。一方、外形的に鮮明な物事について語る際の彼等の口元は硬直的になる。彼等の言語はすでに確定的な物事について語るには適さない。
言語表現は直視されえない。常に逐語的に想起される。つまり彼等は自らのイメージが直視されえないことに安心感をおぼえているのである。イメージの伝達の失敗の責は常に言語表現の限界に帰される。言語表現がイメージを代理することについて不手際であることが、偶発的に彼等のイメージを無傷のままに温存させているのである。
言語表現にはイメージが先立っており、原本たるイメージを、誰からも視認できないくせに、誰からも視認できないからこそこれに付帯させる習慣をもっている彼等は、その伝で、他の作品に対しても同様の態度を示す。つまり、言語表現は常にイメージに対して劣位であって十全に開示されてはいないから、自分はこのテクストについて確定的な意見論評を差し控えねばならない。と、こんな一見謙譲なポーズをとることで、言語表現を央にはさんで間接的に他者のもつイメージに対して拝跪するような妙な格好になることを彼等は免れない。彼等はあまりにも開示されていないイメージに対して自分のイメージに対するのと同様のエチケットを示すことに躍起になり、当の言語表現が問題にならないほどイメージの後景へとおぼろげに退いてしまうのである。
ところで、言語表現の背後には何も存在しない。隠し扉も隠し部屋もない一面の壁である筈である。イメージの伝達などということは本来問題にならない。イメージを物質化してしまうことが作者にとって唯一の問題だからだ。
言語表現はイメージを媒介することを止める。言語はイメージによって媒介されることで表現へと客体化される。イメージは媒介でしかない。後も先もない表現がそこに築かれるための媒介でしかないのである。
言語表現はかくしてイメージの伝達を事としないが、仮に伝達に失敗してあらぬ誤解を生んだ場合、それを修正するための根拠をすべてテクストの内側にもっている。テクストはイメージの不条理を修正して堅固な組織をすでに営んでいるからである。対して、テクストが確定したのちにもイメージの優位性を信じている者は、修正の根拠をテクストの外側からもち出してくるだろう。「自分は……という理念をもって制作に当たったから」「自分は……という経緯でこの作品に着手し、……という苦労を経て作品を完成させたから」「自分はこの作品に接した読者が……する機会を与えたいと考えているから」等々。又しても彼等は自分にしか知りえないことについて饒舌であり、このことからも、彼等にとってかけがえのないものは言語表現それ自体ではなく、彼等自身にしか知りえない思い入れや意気込みや、そして先行するイメージそのものだということがわかる。




