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廃村ルポルタージュ

 私は残念ながらこのAという男の話を聞いて、まったく共感することができなかった。彼は末始終、ばかな男だと思う。彼がこれまでに経てきたであろう学校生活や部活動をかんがみても、これほど他人を容れない狷介さは病的であるし、閲歴だけ見れば、もっと開けた人間になっていてもおかしくはない。彼はどこで間違えてしまったのだろうか。


      〇


 Aは平成卅年に就職した。Aはそのかたわらで小説を書いている。Aが自分の人生と、小説のあいだに架している関係はちぢにこんぐらがっており、上昇的に影響し合う対立項であると勝手に決めてかかっている。

 人生と小説を等価に置いたこんな彼の固定観念は、ぜんぜんばかげた考え方だし、彼はその方法で残りの人生をよろしくやってゆくつもりらしいが、さっさと止して、小説はあくまで小説としてこれを軽んじ、人生と切り離してやった方がもっとよろしくやってゆけるだろうにと思う。小説なんて、くだらないものだ。

 Aはたぶん、一種の浮遊感に悩まされている。彼が観念する人生には、学業や、仕事や、恋愛やが、自身の重さをぎりぎり支えているヘリウム風船のように、実体のない重さで浮遊しているが、たえず彼の目には見えている。Aは、あれが人生なんだ、と思っている。

 しかし、彼の人生のなかでは、つかんだ風船はことごとくドラマティックな重さを欠いている。Aが、人生とはどんなか、を語る時は、学業や仕事や恋愛やが、薄べったいかさぶたのように彼の人生の表面にこびりついているだけのような感じがして、ちょっと掻いただけで剥がれ落ちてしまいそうだった。

 Aはそれらを自分の内部にしっかり定植することができない人間なのだ、と思う。ただ彼の内部は、だからと言って少しも空虚ではなかったのだろう。だからAは小説などというばかげたことをはじめた。つまらない現実を、この筆で、羽搏かせてやるのだ、などとかなり聞きづらい発言をかました。私の目には、彼ほど私にとってつまらない人間はいなかったし、彼が、現実を面白くするための努力を怠っているようにしか見えなかった。

 Aには、一生懸命取り組んでいる真っ最中なのに、これをどうでもいいことのようにひらひらと手のひらを覆してとり扱う悪い癖が見られた。現実を大事にしない、典型的な態度だ。そのくせ、彼が真に望んでいることは誰がどう見ても、学業、仕事、恋愛における成功なのだ。

 Aのばかげた発言のなかに次のようなものがあったそうだから紹介しておこう。

「現象をイデアにまで昇華させる方法が小説なのだと思う」

 これは、小説の芸術的側面をまことしやかに擁護しようという下心があってのことだろうが、本音によれば、現象をドラマティックに洗練させようというだけの話だ。

 とは言え、Aの書いたものをいくつか読んだが、ドラマティックというより、美しい鳥の着陸をつかんで離さない(もち)のようなグロテスクな貪欲さにそれは充ちているのだ。私の友人のTは、あのAという男が現実に不平を鳴らしているのは、現実のグラフィックの粗さの方ではないか、と言った。なるほどそうかも知れなかった。

 知っての通り、イデアとは、すべてのものに先んじて在るもののことを指している。経験的な粋を萃めたものではなく、すでにあるもののことだ。まるで彼のこねくりまわす小説のごときが、イデアを生み出せるかのような口ぶりからして、彼の学殖のほどが知られる。

 先だって、大澤真幸の『三島由紀夫、転生の破綻』という評論を読んでいたのを思い出して、この話をした。イデアがア・ポステリオリなものであるとしているあたりは、いかにもAの言い分を裏づけていた。私はこの評論に対しかなり懐疑的ではあったが。

 三島は金閣を「美そのもののイデア」だと言っているが、評論内では「金閣のイデア」であると勝手に限定されている。しかもこのイデアは、父の言葉に基づいて、溝口が現実の金閣を追いぬいて描いてしまった金甌無欠の空中楼閣である、かのように書かれている。つまり夢想家のよくばった妄想であるかのように書いている。そして、現物を目にする前に描かれた理想が、現物と一致するのは、当のものが死の予感に打ち震えている時だけなのだ―――評論はこういう調子で書かれている。だが、イデアは経験に先立つものであるから、こんな解釈は成り立たない。金閣が金閣のイデアでしかないのなら、女体の奥に金閣がそびえ立つことは不可能である。金閣は美そのもののイデアでなければならない。

 まあいい。仮にその伝でゆくと、Aの言うことは「現象を自己否定へと導くことによって、超越的なイデアへと転換させる」(しかもこの超越論的と経験的ということは矛盾しているのだが)という言説そのままである。


 Aの就職は、イデアに昇華させるところの現象の取材が第一に考えられており、彼なりに考えた結果なのだろうが、私には甚だ感心できない選択に思われた。Aの弁解を聞こう。

 現象は、人一人がやっと通れる断崖に懸ったそば道であり、時として控えている足を出すべき足場がもうないほど(せま)い難所がある。小説とは、次に出すべき足場である。あるいは、崖下で波が千歯(せんば)に穂を噛んでいるほうへ向かって、急ごしらえの足場を組んでゆく作業であり、湾曲した岸壁にさえぎられていた行く手を見霽(みは)るかすための―――現象を眺めかえるための具足である。だから、現象を先行させないと、小説は成らない―――

 この考え方は間違っている! 誰かそう彼に言ってやらねばなるまい。

 Aは先行させるために現象の背中を押している。普通は、現象は牽引してやらなければならないが、Aは現象を押している。彼は本質的に―――人間一般がそうだが―――現象そのものを成功裏に導かねばならないのに、その現象の背中を彼は押してしまっている。ここで主客は転倒し、現象は小説の材たるためだけに背中を押されて一応は進んでいるが、どこに進もうというあてもない進み方をする。Aにとって現象は道ではない。あともさきもない、広大な国立自然公園のようなところに迷い込んでいる。小説は現象の難所を切り抜けるための具足であることをやめてしまっている。それは彼の職業の選択に如実に示されている。

 残念ながらAは職場で困難には出会わなかったそうだ。

 これまた、私は聞いた時に思わず噴飯してしまった話なのだが、Aは、就職は少なからず政治的なものだと考えていた節がある。

 そこが全国区の組織であることは否定しないが、早速彼の頭は、会社という近視眼的な壁に囲われるよりは、世の中と会社の動きの同時性を確認できる窓に自分がならねばならないというイメージ―――政治の実態へと接近してゆくイメージに支配されていた。業界的には、そこは自民党系の票田であり、労組への加入、政治結社からの誘い、支持政党の強要などが考えられ、暗い地下的な力の根源に触れ、ゆくゆくは政治との絆が確かめられるだろうという期待があったようだ。

 容易に想像がつくように、そこは近視眼的な壁に囲われていた。政治的な意味はおろか、あまりに近視はすすんで、生活から見た能率ばかりが追求される世界が広がっていた。雇われ人だからという理由一つですべての意味を免れた世界=意味喪失の世界だ。

 ばかなAはこういう三段論法を(うら)に組み上げたことだろう。

「生活に意味がないのは自明である」

「会社の存在に緊急性がないのも自明である」

「ならばせめて政治的な意味合いに富んでいるべきではないか」

 Aの「べき」はとかく傲慢なのだ。Aが聞き得たのは、悪辣さに富んだ政治的知識ではなく、日曜日風に能天気な、釣り、時計、自動車の話題だった。Aは、自分もしぶい色のスポーツカーに乗っているくせに、自動車の話題がきらいだった。こんなんじゃ小説にならん、といってAは焦れていた。

「ああじつに、飼い慣らすのにちょうどいい人々。彼らは決して意味を考えない」

 私は思うのだが、「飼い慣らす」というこの言い方がなぜ悪に当たるのだろうか?こういった悪は実際にあるのだ。誰もがAのように弾力的な自我をもっている「べき」だと決めつけるのは、Aの傲りだ。誰かAにそうやって率直に社員を「飼い慣ら」している経営者を一人紹介してやればいい。

 Aは、仕事の隙間を見つけては猛勉強に取り組んだようだが、ついに小説は書けなかった、と言って嘆いた。そんなもの職場の外で追求すべきものだ、という意見があるか知れない。が、小説を書くことが彼の就職のそもそもの目的であったので―――これを全然素で言うのだから衝撃的な告白だ―――小説にならない職場にAは怒ってよかった。

 困難ははたしてなかったのか?困難に際会して、小説が正常に機能する場はほんとうになかったのだろうか。

 どこの職場に行っても似たような困難が待っている、というのがクリシェで、Aも例外ではないが、一言もそういうことを言わないのがAの疾病(やまい)なのだ。強いて、

「そういうことはどうでもいい」

と一言でいって済ませてしまう。

 恥を克服せねばならないという困難だけが困難なのであって、それ以外の、生活上の困難をAは一向に肯定しない。

 Aはたしかにずれている。が、そのずれは、こうした日常的な言語運動のずれにまで及んでしまっている。或いは起因している。Aは、困難はどこにもないと言い張った。まわりの人は、現に、お前の目の前にあるじゃないかと指さしたが、Aは退屈そうに、心底どうでもよさそうに首を振った。


「あいつは、Aは、死ねる大義がこの時代にないので、自分でつくろうとしているのではないか」とTが言った。AはもともとTの友人なので、TはAに対して好意的だった。

 Aはおそらく、現象的な素材を何ひとつ持ちださずに、天と地とそのあいだにある凡ゆるものを、別製しようとしている。この点でのみ、Aが小説を択んだことは理にかなっている。

 一方で、文芸に霊的な重さをかけられる時代は終わったものと私は考え、そこのところは割り切っている。小説なんてくだらない、と私は截然と言おう。映像が急速に普及した一九七〇年代に文学は死んだ。こんなことはバカにでもわかる。

 この時代、三島のような人物は現れようがないし、我々は文学などといういかがわしいものを本気で信じられる状況にない。我々には、文学が政体を護持しているなどという幻想を抱くことができない。終戦前後の三島の文学の誇大な持ち上げかたに、私は、正直に言って、なみなみならぬ聞きづらさを覚えた。そして、大きな米国に敗れ去ってなお小さなおのれの文学的陶酔から覚めないでいられたこの戦後の凪の瞬間を、熟〻(つくづく)羨ましく思う。


 Aの現在の停滞は、レールの概念と、年齢の効用とで説明がつくだろう。

 学生時代まではレールがたしかにあった。こういった学習の惰性でもってAは就職してからもここに自分がいることの必然性だけは確保されつづけるのだろうと思っていたようだ。Aの、人生と小説の渉り合いにとって、やらねばならない事の直下に花径(かけい)が拡がってゆく感覚は、方法論の恒例になっていた。ここに自分がいることの必然性―――現象を先行させる彼の依頼心がほかならぬ彼の弱さだと知れ。彼の小説はいまだ独立を果たしていない。先行させているものにある程度の生きているらしい捗が期待できるので、これで創作の不稔を隠蔽しようというやり方だ。

 レールは、気が付けば、すでに断たれた後であった。小説を書く以外のいかなる動機も持たない彼が、そこを小説にならない職場と見限るならば、とどまる理由はないのだ。畢竟彼は「必要最低限の収入」というところにまで退行せざるを得ないだろう。

 年齢の意味が薄れつつあるのをAは感じ、それが焦りにつながる。四年目のAは、管理的立場の一歩手前のつかの間の指導的立場にある。年間フローと、組織の全土は見通しだ。「見通しの上なぜにとどまるのか?」という偽らない叫びが聞こえてきそうだ。年齢の効用とは、たとえば、新人、三年目、中間職、上級職、幹部というこのむだに長いレールのことで、卒業と同時に転轍機でレールをこのところに接続しなければ、年齢の意味は失われる。こんな出世へのうるさい執着を会社によって植えつけられれば、まだ幸せな方だろう。

 ある時、Aは上司にこう言われたそうだ。

「最近の若い人は、何が何でも出世したいっていう願望が薄いらしいね」

 Aならそれを、ここに自分がいるという偶有性を、まことしやかな使命感にすり替えてゆくダサい過程だと捉えるにちがいない。


      Aからの短い抗弁


 知らない内にこういうものを書かれて、私は抗弁の必要を感じた。のみか近々仕事をやめようの一念に凝り固まっていた私はおかげで踏みとどまることができたから、礼を言う。

 君の突き放すような物言いは私に猛省を強いた。私の〝プラトニスム〟は須らく(とむ)われるべきだと思う。君は私の小説がいまだ独立を果たしていないと言った。ならばこう言おう。小説は私の現実から独立してはならない。イデアを結ぶ木を植えて、それ単体で、秩序を樹立し、現実からの独立を図ってはならない。それは予描にすぎない。完全な世界の虚像をめざせば現実がおろそかになり、かくして私は躓いた。

 そこが自分の生活の本拠地だという感覚にのまれてはいけない。読書灯の下? 原稿用紙の前? 蹶然()つべき現場が他にある。

 くだらない〳〵を連呼するのとは少しちがう。ちがうのだ。くだらなくはない。新たな秩序の樹立がくだらないのは、秩序に与れない作者がその場に取り残されるからだ。

 君の類推はおおむね私の考えを射中(いあ)ててしまった。却々(なかなか)どうして、しかし考えの方は、捗らない足を励まそうと内面に響かす声であり、肉に染まない声であり、常住その声の反響をきいて私は暮らしている。同じ声が咄嗟にじかに耳に響いて来ると違和感をおぼえた。肉と化した声は、肉を鞭うつ声とはまた別様の響きを私に伝えるからだ。(以下逐条)

 君は私が人生と呼称しているものはあの手の(とど)かないドラマティックな三本立てであり、得られないから華胥(かしょ)の国に游ぶのだと、得意げな断言を与えている。晦渋な文はひとえに下世話な欲望を隠ぺいする、単純化すれば解が得られる―――文学は隠蔽するという迷信に君は染まってしまったのか。それとも挑発しているのか。ことはそんなに単純ではない。

 学業・仕事・恋愛ではない。人生は表現されることを(もと)めている。選択的なもの、審美的なもの、作為、そして共謀……詮ずれば、崇高な感情に支配された劇的な場の要請がある。暴露の雨が、砂地にしみ入り沼と化すたぐいを、私は人生のうちに数え入れない。(ひる)を歩ける人間はかぎられている、という強迫観念が私にはある。そしてそれをば凌ぐ低い燕の滑空のようなまなざしを私はまねびたい。私の小説はすべてこの種のまなざしの暗喩だ。

 誤解なきようにお願いしたい。二重の意味で、私の頭を占めていたすさまじい顛倒から覚めた思いだ。〝つまらない現実〟〝解像度の粗い現実〟という思い過ごしによって創作が現実に優位した。創作優位と云うことは、外見か、さもなくば使いものにならない私という内的な目線―――内省が涸渇することにつながる。見るもの聞くものをとらえると、論理は私の頭のなかでひとりでに千転(せんてん)する。私はそんな病気を抱えている。それは外界と内界の境をほしいままにし、内的な目線と外的な目線は目にもとまらぬ速さで交替している。だが創作優位によって外的な目線が固定された。これが二重の顛倒だ。

 私が悔いていたのは現実の私だ。この事実は永遠に渝らない。私は自分の批点を妥協的に処理してはならなかった。批点を妥協的に処理して(さて)小説に乗り出したのが間違いの(もと)であった。

 死ねる大義をそこから惹き出すため、とあるが(ちが)う。改良した現実を描くのではなく、現実を改良するために書くのだ。問題はここからだ。それは、私を含めた現実の改良なのか、私をのぞいた現実の改良なのか、私という現実の改良なのか―――


 アスリートの活躍を前に、文章家の劣位を痛烈に感じる。自分もそれかと思うと恥ずかしくなって来る。またアスリートの勝敗が、たとい自国の代表だろうと、この私の何を益するのか、と云った自問の不毛さが私をはげしく(つか)れさせる。一年前、卅歳の俳優が自殺した時もそうだった。―――だが私は文章家ではない。実践家だ。

 創作はあとから実践を伴なうものであらねばならない。私が実人生に参与する時の合図は外見しかない。正確には、小説ではなく、小説の暗喩を現実に実現せねばならない。感覚の拡張と陶冶。小説世界のまなざしを現実に持ち来たす。世界を眺めかえる目。死なねばならないという現実が優先するのはあたりまえだ。

 劣位がそのまままさにこの感覚を痛めるものであらねばならない。自分が痛いと感じるような仕組みを小説が持たねばならない。等身大の自分が痛い。なんという快感だろう! ひりひりとした自然と、おのれの矮小さが感じられること、重要なのはそれだけなんだ!


 何もないところから何かを生むことができなければ私の人生は豊かにならないと思っていた。現実の捏造―――創作優位になってレールが立ち消えになりかかる。だがいかな無からの創造も死なねばならないという現実をどうすることもできない。現実の捏造ではなく、現実の拡張と陶冶だ。現実のどこに立つにもまずはレールを履まえなければはじまらない。ここに自分がいることの必然性だけは確保されつづけるだろう、と君は書いているし、私もそう思っていたが、これは確保するものなのだろう。なべて仕事が生活費稼ぎに尽きると考えるのは危険な思想だ。私にもそういう計画があったことを思い出すことができた。生活に費消されない帑庫(どこ)とレールの存在は一体だ。

 私は文学を否定する。そんなものは私の人生の何の役にも立たないからだ。

令和三年八月六日 記

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