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8.L′ultima cena

人生には自分ではどうすることもできないことが降りかかる。誰かに言われなくてもこんなことしてちゃいけないことよく分かってる。でも出来ない時ってあるよね。結婚を機に彼の勤務地についていく為、仕事を辞める決意をし最後の出勤を終えた。これから幸せが待っていると思ったら、どん底の現実に直面した彩菜。本当はこんなはずじゃない。こんなことしている場合じゃないし、こんなことしてちゃいけない。どうにもこうにも現実に向き合い切れない彼女が逃げた先はイタリア。偶然の優しい出逢い・不思議な縁によって癒され、新たな一歩を踏み出す物語。

 8.L′ultima cena


 フィレンツェに戻ると、早速パオロの予定を確認した。急いでその日に向け食材探しを始める。パオロときちんと対話しないとここを離れられない。スーパーマーケットではなくメルカートチェントラーレまで足を延ばした。ここはこの街の食材宝庫だ。アンティパストのブルスケッタにのせるパテ、生ハム、サラミ、生パスタ、新鮮な野菜と果物も選ぶ。バスに乗る前、駅近くのエノテカに立ち寄り、パオロの好きなモンテプルチアーノも見つけた。荷物が重いけれど最寄りのバス停を降り、最後は家の途中にあるいつものパン屋に立ち寄る。エレベーターの扉を閉めるのも一苦労だ。ドアの鍵を開け、最後の力を振り絞り厚い扉を押すと、まっすぐ台所へ向かいまずは冷蔵庫の冷え切ったお水を一気に飲むと生き返る。両手いっぱいの食材をテーブルの上にひと通り並べると、まだ何もしていないのに程よい疲れと達成感を感じた。一つ一つ確認しながら、必要なものは冷蔵庫にしまう。準備万端。


 翌日パオロが出掛けるとすぐ、髪をゴムで一つに束ねエプロンのリボンを結ぶと普段より丁寧に両手を洗った。さぁ作るぞ。久しぶりの料理は心なしか不安だったけれど、こんなんじゃ到底足りない。だけど私なりの精一杯のお礼がしたかった。まずは細かく刻んだニンニクと少し多めのオリーブオイルを弱火で香りだしする。みじん切りにした玉葱、人参も順に鍋に入れ炒める。サルシッチャをひき肉に見立て、トマトペースト一瓶を加える。その空き瓶に同量の水を注ぎ、軽く振って瓶に残っていたペーストもすべて流し込む。時々、灰汁をとりながらじっくり煮詰めラグーを作っていく。煮込んでいる間にサラダの準備だ。イタリア野菜は眩しすぎる太陽からたっぷりパワーを貰えるからか、味が濃くて美味しい。緑の葉物野菜にミニトマト、ニンジンをスライサーで切ってガラスボールに入れ、食卓に出す直前にモッツァレラと生クリームでできたブッラータと呼ばれる真っ白なチーズを添える。小皿に取り分けた時にエクストラバージンオリーブオイルとバルサミコ酢をかければ、絶品イタリアンサラダだ。それも勿論美味しいのだけれど、私たちはよくバルサミコ酢の代わりにお醤油をかける。両国のマリアージュ。パオロから以前教えてもらったこの組み合わせは、今では私の冷奴の定番だ。パオロは日本食材にも精通していて、ここの台所には、醤油以外にも味噌やみりんとか日本家庭に常備されてるものがあった。ちょこちょこ味見しながら調理をしていると、パオロが帰宅する時間が近づいてきたので、大きい鍋にたっぷりの湯を沸かし始める。生パスタを茹でる準備もバッチリだ。テーブルクロスを敷き小さなガラス瓶に鈴蘭を飾った。メルカートの隅にあるお花屋さんで可憐に咲く鈴蘭と目が合ってしまい、持ちきれないから諦めよう散々迷ったが、あんまりにも可愛く我慢できなかった。ワイングラスにカトラリー、ナプキンを並べ中央にパン籠を置く。サラダとドルチェは冷蔵庫にスタンバイさせている。仕事を終えたパオロが玄関の鍵を開ける音がした。


「チャオ!ベッラ」

「おかえりなさい」

 焦げ茶色のスーツ姿のパオロといつものようにハグを交わすと、なんだかホッとした。

「美味しそうな匂いがするね。今日は何か特別な日?」

「今までごめんなさい。私、帰国することに決めたからパオロにお礼がしたくて。色々お世話になって、こんなんじゃ全然足りないけど。何か少しでもと思って」

「だから、僕の予定をわざわざ電話してきたんだね。ようやく僕の知ってる君に戻ったようだね」

「パオロ、本当にありがとう」

「お礼なんていらないけど、彩菜の手料理が楽しみだよ」

「ごめんなさい。今まで何もせずにあなたに甘えすぎてしまって」

「気にする必要なんてないさ。僕は君と過ごせて楽しかった」

「でも、私、それでももう少しきちんとすべきだった。本当にごめんなさい」

「それに気づけるだけ元気になったってことだよ。よかった」

そう言ってパオロは優しく抱きしめてくれた。

「ありがとう、パオロ」

「さぁ急いで着替えてくるよ。彩菜のご馳走を早く食べないとね」

着替えたパオロがワインのボトルを見た瞬間、満面の笑みを浮かべた。

「彩菜、覚えてくれていたんだね」

「だってこのワインを飲む時にいつも言ってるじゃない。このワインはトスカーナが誇る世界一美味しいワインだってね」

「このワインの正式名称まではよく覚えてなくて、色とかこんな感じってお店の人に何本か出して貰ったの。そしたら見覚えのあるラベルが出てきて、これだって」

「セイ ブラーヴァ‼」

 パオロが顔をクシャっとさせて喜んだ。一緒に仕事をしていた時もこんな笑顔を見たことがある。仕事でパオロに褒められた時の感覚をどこか懐かしく遠い日のように感じた。ワイングラスに注がれたモンテプルチアーノはとても優美な深紅色をしていた。パオロがテイスティングをした。

「彩菜、完璧だ。君もこの味を絶対忘れちゃいけないよ」

と私のグラスにもこの美しい深紅色のワインを注いでくれた。パオロを真似てグラスに鼻を近づけ、嗅覚に集中してみると感覚が戻ってくる。パオロが言うようによく熟成された丸みを帯びた大地の香りを感じられた。ゆっくり口に含み、舌を転がすと赤ワイン特有の苦みと渋みのバランスも心地よく、ほのかに余韻までも感じることができた。

「これがトスカーナが誇る世界一のモンテプルチアーノなのね。忘れない」

「彩菜もようやくこの美味しさに目覚めたんだね。嬉しいよ」

 アンティパストはメルカートチェントラーレで散々時間をかけ、試食しながら選んだだけあって、舌の肥えたパオロも気に入ってくれた。彼は一口、一口に食べる度に感想を言っては褒めてくれた。有名リストランテの常連で美食家のパオロが、私の料理をイタリア語の美味しいを意味するボーノの最上級オッティモという言葉で称賛されると何とも言えない気恥ずかしさを感じないでもないが、パオロが心から喜んでくれたなら素直に嬉しい。


「どんな料理も好きな人と楽しく食べるのが一番美味しいんだよ。何を食べるかじゃなく、誰と食べるかって言うだろう」

「パオロ、美味しくないのにオッティモって使ったの?」

「そんなはずないだろ、本当にオッティモだ。こんなに手の込んだ君の料理を食べられるなんて、僕は幸せ者だ」

「それなら良かった。ねぇパオロ、本当に幸せ?」

「突然どうした?君が幸せなら僕は幸せだよ」

「パオロ」

「君は僕の心配をする必要なんてない。そうだ、ちょっと待ってて」

 パオロは書斎から戻ってくると、私にくたびれた紙袋を渡した。

「これは何?」

「いいから中を見てみて。覚えてだろ、一緒につくったの」

「あの時の試作品…。路面店一号店のね、懐かしい」

「このダイアリーを君に贈りたくてね」

「こんな大切なモノ貰えない。もう貰い過ぎなくらい、色んなことして貰ったわ。これ以上はもう…」

「このダイアリーは僕の日本でのスタートだ。君はデパートの店員でイタリア展の催事で僕と初めて出会った。君のサポートのお陰で新規市場開拓が成功できた」

「そんなぁ、私はただ催事担当だっただけで。成功はあなたが頑張ったからよ、パオロ」

「たとえ仕事だったとしても、彩菜じゃなかったら、僕の店はまだ日本に存在してなかったよ」

「そんな大袈裟過ぎるわ」

「大袈裟なんかじゃない。その後、君はデパートを辞め僕のビジネスを本格的に手伝ってくれた。彩菜には感謝してるよ。この記念のダイアリーに君の新しい一ページを綴ってほしいんだ」

「でも…」

「覚えているかな?この試作品は銀座店オープンのノベルティグッズだよ」

「忘れるわけないじゃない。よく覚えてる」

「彩菜はノベルティなのにあれこれ企画から細かい注文をつけた。メンバーの中で革製品に関しては一番の素人なのにね」

「ごめんなさい。あの頃は何も知らずに生意気だったって反省してる」

「いや、逆にそれが良かったんだ。日本店舗の運営は日本人目線が重要だ。イタリアと日本じゃやはり色々と違うところも多いからね。僕らじゃ気づかないことを君からたくさん学ばせて貰ったよ。無理難題なことも提案してくれたよね」

「何も知らずにごめんなさい。私、フィレンツェのお土産物屋さんで初めてピンクやグリーン、グレーのカラフルな色彩の革製品を見た時にうっとりしたの。だから、それが日本でも手に入れられたら嬉しいなって思って。よく分からないくせに無茶なことばかり口走ってしまって。あの頃の話をされるとすごく恥ずかしい」

「そうかな。そのちょっと無鉄砲なほどの君の情熱が新しいことを始めるにはちょうど良かったんだ。それから日本限定色もできて人気商品になったじゃないか」

「私ね、パオロのところへ転職して、どんな意見も否定されないオープンな環境が嬉しくてやり甲斐を感じたの。デパートでは自由な意見を交わせる雰囲気はほとんど無くて、言われたことに従うだけで、どこか窮屈を感じていたの」

「日本の伝統や組織がしっかりしているところだと難しいことも多いんだろうね、きっと」

「だからね、初めて企画が通った時、私の無知で怒られることも多かったけど手ごたえを感じたの。職人さんとも何度もやり取りして色や素材、デザインが決まり、商品がカタチになって手にした時の嬉しさはなかったわ。その後店頭に商品が並び、購入されたお客様からのお声にこの上ない喜びも経験できたわ」

「彩菜、もう大丈夫だよ。外側で何があっても君は君だ。君の価値は何も変わらない。彩菜は好奇心旺盛で真っ直ぐなままでいいんだよ。何も失ってない。寂しいかもしれないけど、もう君に必要なくなっただけのことなのかもしれない。どんな暗闇でもヒカリを探すんだ。生きている限り、僕らは希望を探すのを諦めちゃいけないんだ、世界は愛で回ってる、分かるかい。彩菜、大丈夫だからね」


 ミラノのホテルでの夜、初めてこの言葉を彼に言われた時、不思議な感覚が身体中にストーンと響き渡った感覚を思い出す。それから鏡にうつる自分を見る度に、何度もこの言葉たちが私の中で繰り返され、私は自問自答した。本当に世界が愛で回ってるなら、それが一番だ。

「グラッチェ、パオロ」

「彩菜、自分を信じて。自分が幸せを感じる道を進めばいい。いいかい?」

「わかったわ」

 冷蔵庫で冷やしておいたドルチェを食べ終え、カフェの準備に席を立とうとすると、パオロは私の手を塞いだ。

「彩菜、明日君と行きたいところがあるんだ。朝早く出発したいからカフェは明日の朝にしよう」

「わかった。どこへ行くの?」

「海だよ。もう少しだけ僕に時間をくれないかな」

「仕事はいいの?」

「僕だってプライベートも大切に過ごしてるんだよ。一泊ぐらいなら帰国するのに支障ないよね」

「ええ、大丈夫」

「彩菜、引き止めたりしないから安心して」

「そんなこと心配してないわ。ありがとう、急いで準備するね」

「着替えさえあれば大丈夫だよ。ごちそうさま、彩菜」

と私の頬に軽くキスをし、おやすみと言ってキッチンを後にした。私はさっと後片付けをすませ、食洗器に洗剤を入れた。小さな花瓶を持って部屋に戻り、可愛い鈴蘭と一緒に明日の用意をすませると早めに眠りについた。


読んでくださり、ありがとうございました。わたしが好きな国、イタリアを舞台に選んだ。わたしが生きていてもいいと気づけた街だったから。人生には自分ではどうにもならないことが、否応なく訪れる。そんな時、あまりその出来事にネガティブな意味をつけても、辛くなるのは誰でもない自分だ。いいことも悪いこともすべての出来事の意味づけは自分で決めている。そんな事に気づけたら、少しだけ生きていくのが楽になるんじゃないかな、と思った。「大丈夫、すべてはうまくいっている!」全くそう思えない日でもそう思って生きてける強さを持てたらと思って描いた作品。

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