第七話 ━羽瀬 時乃━
七月に入り蒸し蒸しとした暑い日が続いている。
梅雨はどこへ行ったやら…今年の梅雨はあまり雨が降らなかったように思う。
水泳の授業を受けながら、時乃は光っては揺れる水面を眺めていた。
プールは別棟の屋上にあり、都立の割には洒落た作りで誰かの視線を気にしなくても水着姿で素肌を晒せるのは願っても無いことである。今もプールサイドに腰掛けて自分の順番が来るのを待っていた。
「と~きの」
「…?」
「どした?元気ない」
「あ~りちゃん」
いつの間に傍に来たのだろう。
隣のコースには幼馴染の月島 安理が心配そうな表情を浮かべぷかぷかと水に浮いていた。
「沈んでるね?」
「…ううん」
「…真面目にどうしたよ?」
彼女は小さいころから姉の様な存在だった。
どちらかと言うと実姉である「結子」より姉らしいかもしれない。
「……」
黙り込む時乃を見て、安理は眉根によせた皺を深くするが決して自分から問いただすような事はせずに、時乃が話しだすのを根気よく待ってくれる。そこが彼女の良い処だ。
端正な顔立ちに切れ長の眼、まるでモデルさんのように線の細い…なのにグラマラスな安理。さばさばとした性格は人からも好かれ、彼女の周りには人が絶えなかった。
――私も、安理みたいになりたかった。
隣で何気ない表情を浮かべる彼女を見て時乃はぼんやりと思う。
結局、授業が終わるまで考えて、時乃はようやく安理に相談することにした。
「安理」
「んぅっ?」
プールからの帰り道、小腹が空いたのか安理は濡れた髪の毛をタオルで乱暴に拭いながら口にチョコ菓子を放り込む。勧められるまま時乃もお菓子を一つ口に放ると同じように髪の毛をタオルで拭う。そのまま黙り込んでしまった時乃のお凸にコツンッと何かが触れた。安理の手だ。
「時乃。言わなきゃ分からない」
当たり前の事を言われて、思わず目を見開く。
――言わなきゃ分からない――
その通りだと思う。同じ人間でも中身は違う…会話をしなければ分かれない事の方が多い。それもよく分かっている。でも…。
「ごめん」
「いーけど、何?」
「うん」
素直に自分の非を認めると安理は気にした風もなく、先を促す。時乃は一つ息をつくとこれまでにあった事を掻い摘んで話した。同い年の青少年と手紙を交換している事も。
「はっ!?…誰が??」
「私が…よ」
突拍子もない発言のせいか彼女は眼を大きく見開いて振り返る。その目は疑心に溢れていた。それもそのはず…実は私―羽瀬 時乃―は大の男性恐怖症なのだ。男兄弟のいない環境で育ち、父は仕事の為に単身赴任していることが多かった。単に免疫がないのだと言われればそれまでだが、生まれてからこの年まで男性と付き合った事も無ければまともに会話した事も無い…。そんな私が……だ。
「ふ~ん」
彼女は暫く考えながら歩くと、ふとその歩みを止める。つられて時乃も自然に足を止めた。不意にその手が頭に乗せられクシャっと髪を撫でられる。その感触に目を瞬かせた。
「なに?」
「…うん」
「安理?」
彼女は少し微笑むと「良いんじゃない?」と呟く。そんな反応が返ってくるとは思わず時乃はその場に茫然と立ち尽くした。
「大丈夫、時乃は間違ってないよ」
突然の肯定。時乃にはその一言で十分だった。
自分のしたことが間違いではないと…誰かにそう言って貰いたかった。
彼―鳥月 敬―から手紙の返事を貰い、誰かを巻き込んでしまった事を知った時から時乃は戸惑いと罪悪感を持っている。
もしかしたら自分の独りよがりだったんではないか。そう思う自分がいる。
「やりたいようにやってみなよ。ダメなら一緒に謝ってやるからさ」
時乃の考えを見透かしたように、そう言って安理は笑う。その目はとても優しかった。
大丈夫、まだ頑張れる。時乃は自分自身に言い聞かせると「うんっ」と大きく頷いて安理にとびきりの笑顔を見せた。心の中で―ありがとう―と呟きながら…。
そうして、またペンを握る。
堅苦しい言葉じゃなく、今度は等身大の自分の気持ちを書くために。
―to.鳥月 敬 様
返信、ありがとうございます。
そして色々と戸惑わせてごめんなさい。
祖母と清四郎様の間にあった事柄を、私は一通の手紙で知りました。
最初の手紙に書いたとおり、当の本人から聞いたのでも頼まれたのでもなく、
ただ祖母の―初恋―を叶えてあげたかった。その思いで手紙を送りました。
独りよがりだと思うかもしれません。
それでも、出来るならもう一度二人を逢わせてあげたい…。
例え逢った後に何も芽生えなくても、どんな結末が待っていても。
敬君(同い年なので君付けさせて下さい)には、清四郎様の様子や状態を教えて欲しいのです。どんな些細なことでも構いません。
…今の状態は分かっています。それがすぐに改善するのは難しい事も。
ですがこの先、もし祖母が退院して動けるようになるなら、私が祖母を連れて逢いに行こうと思います。だからそれまでの間、私に少しでも情報を頂けませんか?
「共犯者」になって欲しいとは言いません。
手紙を頂くのも時々…気が向いた時で構いません。
どうか、お願いします。
H22.7.1 from.羽瀬 時乃―
緊張したまま手紙の封を閉じる。
空は雲ひとつない快晴――小さく伸びをしてから時乃は溜息を漏らす。
誰かの返事を待つのが、こんなに怖くてドキドキするものだと初めて知った初夏だった。
誰かを巻き込んでしまったことに、罪悪感を感じる時乃。その時、背中を押してくれたのは、幼馴染の安理だった。
再びペンを握った時乃だったが…。
果たして敬に思いは届くのか!?
こうご期待!