第6話 ―鳥月 敬―
屋上へと続く階段の踊り場に立つと、ドアの向こうから雨音が絶え間なく聞こえて来る。
じっとりと湿った空気と同様に、敬の心情も暗く澱んでいた。軽く苛立ちさえ覚えてきている。中間テストも近く、サッサと家に帰って勉強したい所だが、一人の女子によって足止めを食らっていた。
彼女とは同じ中学であっても、ろくに話をしたことはない。
――確か、田中だったっけ?
お互い顔と名前を知っている程度、少なくとも敬はそう思っていた。
「ごめんね、呼び出して」
「別に。で、何?」
無愛想に応じると、彼女は傷付いたような表情を見せる。これだから女子は嫌だ。勝手に被害者ぶって。
「あの、あのね…」
田中は口ごもるばかりで、先を言おうとはしなかった。
苛立つ敬のポケットから、グシャッと音がする。握られた拳の中には、彼女が机に忍ばせたメモが入っていた。
「放課後、屋上にきて下さい」。
今時の女子高生らしい、読みにくい文字。無視しても良かったが、後々の面倒を考えると素直に従った方が利口だった。
「用がないなら、帰るけど」
一向に切り出そうとしない態度にうんざりして、敬は床に置いた鞄に手を掛ける。
その手を田中に掴まれて、思わず振り払ってしまった。咄嗟の反応だったが、十分に彼女を傷付けたようだ。うっすらと目に涙が滲む。
――めんどくせぇな。
「私、中学の時から鳥月君のこと好きで……」
「悪い」
答えは予め用意してあった。迷う事なく言い切ると、今度ははっきりと彼女の瞳が濡れていく。
「好きな人、いるの?」
震える唇が、辛うじてそう問うた。
「少なくとも、ほとんど喋った事もないような人間を『好き』だとか言う奴は、好きじゃない」
もう、相手の顔を見る事はしなかった。言い捨てて、そのまま踊り場を後にする。
他にも言い方はあったと思う。ただ、気遣うのが面倒なだけだった。何故、よく知りもしない他人を気遣わねばならないのか。その労力が、敬には無駄に感じられた。
一方で、そんな自分を嫌悪してもいる。
ポケットのメモと同じようにグシャグシャの心を抱えて、降りしきる雨の中、家路を急いだ。
無言で玄関を潜ると、ちょうどリビングから出て来た草子と鉢会わせた。敬とは対照的に、どこか嬉しそうに口許を弛めている。
「お帰り、お兄ちゃん」
兄を見るや、更にニヤニヤとした顔になる。
「ただいま」
敬が不審がって眉を顰めると、意味深に「ふふっ」と忍び笑いを漏らして二階へ消えていった。
「けーい? 帰ったんなら、ついでに洗濯物持って上がりなさーい」
キッチンにいるらしい母の声が、ドアの隙間から漏れて来る。ドアの向こうには、テーブルの上に綺麗に畳まれた敬の洋服が見えた。服の上には更に何か載っており、近付くと手紙であった。
封筒に書かれた自分の名前に、雨で冷えた身体が熱くなる。
羽瀬時乃の文字。祖父ではなく、敬自身に宛てられた手紙だった。なるほど、草子はコレを発見して邪推したのだろう。
母に詮索される前にと、洋服ごと手紙を掴んで部屋へと駆け上がる。
返事が来るとは、予想外だった。自分の送った内容に不足はなかったはず。
あれ以上、何が知りたい?
制服を着替えることもせず、封を切って便箋に目を走らせる。
――何も見えなかった処に希望の光が差し込んだような思いです。
思いもよらない言葉に、頬が紅くなるのを感じた。自分の言葉が、誰かに希望をもたらすことはないと思っていた。傷付けることはあっても、喜ばせた覚えなど片手の指で十分足りる。無自覚な行為だったせいか、余計に気恥ずかしかった。
「……ん?」
読み進めていくと、「お願い」が記されていた。彼女は、清四郎の状態を教えてほしいという。
「『状態』……? 前のじゃダメなのか?」
ようやく濡れた制服を着替えながら考えてみたが、いまいちわからなかった。
今日はテスト勉強にも手をつけたい上に、これ以上女子に関わる気になれなかった。多少の罪悪感を感じつつも、手紙を机の中に閉じ込めてしまった。
二週間が経過し、ようやくテストから解放された解放感に浸っていると、ふと時乃への返信を保留にしていたことを思い出した。
抽斗から無機質な便箋を取り出し、少しずつ空白を埋めていく。二回目のことだからか、前回よりは早く仕上げることができた。
羽瀬 時乃様
お返事を頂けるとは思っておらず、正直驚きました。
私の拙い文でも、羽瀬さんと樋野様のお力になれたことを嬉しく思います。
お返事の中に、祖父の状態が知りたいとありましたが、どういったことをお望みでしょうか。病状の推移を知りたいということでしょうか。現在の所、祖父は意識が安定しない状態にあります。察しが悪く、申し訳ございません。
もう一つ、お聞きしたいことがあります。
「最後まで見届けたい」とは……。私は、祖父と樋野様の間に何があったのか、何があるのかを知りません。羽瀬さんがそれを知っているのならば、教えて欲しいと思います。
それでは、お返事お待ちしています。
平成二十二年 六月一五日 鳥月 敬
今回は、少し肩の力を抜いてみた。高校生の自分達が、「拝啓」「敬具」などとやり取りしているのが少しおかしく思えたからだ。
書き終えて、しばらく考える。何故、時乃に対しては優しさのようなモノを出せるのか。
祖父を知っているから?
同い年だから?
似たような境遇だから?
どれも当てはまらない気がする。
考えている内に、あの日の傷ついた田中の顔が脳裏を過った。また、嫌な感情が心の中に湧いてくる。
「……あ、そうか……」
何となく、答えを掴めた。
「顔」が、「表情」が見えないからではないだろうか。
紙の上の文字からは、心情を察することはできても、面と向かって対峙している場合とは全く違う。ダイレクトに反応が伝わってくるわけではないし、こちらも見られずに済む。
煩わしいはずの「見えない」という状態を歓迎している自分が、ひどく寂しい人間に思えた。
――彼女は、本物の俺を見たら何て思うだろう。
窓の外は、灰色の曇り空。
晴れる時は、まだ遠い。
今回はちょっと「恋愛モノ」を意識して創ってみました(*^^)v
ものぐさ太郎の敬ですが、顔と頭は良い。ただ、性格に難アリアリ(笑)
時乃との関係はどのように育っていくのか……。
「見えない」ものが「見える」ようになった時、二人はどうなってしまうのか!?
それはまだまだわかりません☆
乞うご期待っ!