第五話 ━羽瀬 時乃━
季節は梅雨を迎えようとしている。蒸し暑いながらも雨の日が続いていた。
夏服へと衣替えした制服のスカートをパタパタとはためかせ、時乃は足早に家への帰路を急ぐ。手には学校指定のカバンとお弁当の入った可愛いポーチ。今流行りの雑誌のおまけらしいポーチは、彼女のお気に入りになりつつあった。
「ただいま」
「お帰り、早かったね~」
玄関を開けると、今年就職したばかりの三歳上の姉・結子がアイスクリームのカップを片手にリビングのドアから顔を覗かせる。この能天気な姉は、自立どころか家事のすべてを母に押しつける…時乃にとっては厄介な存在そのものだった。
「結ちゃん、仕事は?」
「今日はオフ~」
「ふ~ん…」
完全オフモードで寛ぐ姉と会話をしながらも靴を脱いで自室にカバンを置くと、走ってきたせいで濡れた靴下を洗濯機に放り込む。その足でお弁当箱の入ったポーチをキッチンに持っていき、流しに並べて上から満遍なく水をかけていると、対面式キッチンの向こうで結子がこちらを見つめていることに気がついた。
「なに?」
「…べっつに~?」
アイスクリームのスプーンをご機嫌顔で口に加えると、意味あり気に含み笑いを浮かべる。自分の姉ながら、不気味だ。
「気持ち悪いよ…結ちゃん」
「ひどっ」
「言いたいことあるなら言ってよ?」
姉の態度を余所に時乃は自室に戻ると、手早く適当な洋服を掴んで袖を通す。制服をハンガーに掛け、下ろしていた髪の毛を高い位置で一括りにまとめた。その時。
「時乃も隅におけないね~」
不意に部屋の入り口から声がして、心臓が跳ねあがる。
振り向いた先には開けたままになっていたドアに、寄りかかるようにして立つ結子の姿があった。
「結ちゃん、びっくりさせないでよ!!」
突然の出来事に、本当に心臓が飛び出るんじゃないかと思った。人騒がせな姉だ。
「そんなに驚かないでよ~。傷つくなぁ」
とても三歳も上だなんて思えない言葉遣いの彼女は、少しおどけた様な仕草をすると、すぐに本題に移って来る。
「それよりさ、こないだの手紙って男の子からでしょ!?」
「…?…手紙…?」
何の事を言われているのか全く分からない。
惚けているわけじゃなく、本当に一瞬何を言われているのかが分からなかった。
「ほ~ら、先月の中ごろにあんた宛に届いたじゃない?」
「私に…手紙…?」
「机の上」
呆れ顔の姉に指さされ自分の机の上を見る。そこには確かに封の切られた手紙が置かれていた。
「あっ、これ?」
「そうよ~…で、誰から?」
期待に溢れた楽しそうな眼差しで見つめてくる姉に、時乃は一瞬躊躇う。こんな好奇心の塊みたいな結子に話したところでこの件が解決するとも思えないし、何よりおばあちゃんの大事な思い出を無残に荒らされたくはない。
「…これは」
「うんうん?」
「……」
「時乃?」
「…ヒミツ」
少し考えて出た結論は秘密だ。
家族内で隠し事をする事には少々気が引けるが、いつか話せるときがきたら話そう。そう思った。
今は大事に大事に守ってあげたかった。
「何それ~」
「いいから、結ちゃんはあっち行ってて」
不満の声を上げる姉を部屋から追い出すと、時乃は今度こそ部屋のドアを閉めて手紙へと手を伸ばす。
差出人は、鳥月 敬…。
予想していた差出人とは違う名前。
手紙の中味は、時乃にとって…いや、おばあちゃんにとっては残念な知らせで、時乃にとっては残念な気持ち半分、嬉しい気持ち半分の複雑な物だった。
「敬君…か」
差出人の彼は、時乃と同い年だという。
今時の男の子にしては綺麗な字で達筆とは言えないが、何とも独特で個性のある字の持ち主である。 手紙の内容はおばあちゃんに会いに来れないこと、清四郎さんが危篤状態にあること、そして清四郎さんが今もおばあちゃんを思ってくれているかもしれない事…大きく分ければ、この三点。
手紙の内容は確かに残念な知らせに終わってしまったが、時乃にとっては何よりも彼の心遣いが嬉しかった。
祖母や、時乃自身の事を思って手紙の返事をくれたことが嬉しかったのだ。自分の祖父━清四郎さん━も危ない時で、それどころではないだろうに…。
彼にそんなつもりはなくても、励まされている気がした。
「お返事、なんて書こう…」
手紙と睨めっこをしながら時乃は考える。
同年代の子が相手と言うだけで、今度は前回のように気張らずに書けそうな気がした。
拝啓 鳥月 敬 様
お手紙ありがとうございました。
清四郎様の病状を教えて下さったこと感謝します。
鳥月様も清四郎様が大変な時なのに、気を遣わせてしまいすみませんでした。
それでも、祖母や私にとっては大変な励みとなりました。
何も見えなかった処に希望の光が差し込んだような思いです。
つきましては、お願いがあります。
差し出がましいことと思いながらも、もし御迷惑でなければ私に清四郎様の状態をお知らせ願えないでしょうか?
誰に言われたわけでも、ましてや祖母に頼まれたわけでもありません。
それでも、私は最後まで見届けたいのです。
勝手なお願いだと重々承知しています。
ですが、どうかお願いします。
お返事をお待ちしています。
平成二十二年六月一日
敬具 羽瀬 時乃
名前までしっかりと書いた処で一つ大きく伸びをする。
慣れない言葉使いに肩がこりそうだ。
姉に見られる前に封をしっかりと止めると、今度は彼からの手紙を鍵のかかる引き出しへとしまう。今はまだ知られるわけにはいかなかった。
もうすぐ紫陽花が咲く。
土の成分で色の変わる彼らは、今年は何色に染まるのだろう…。
そんなことを考えながら、時乃は一人窓ガラスを叩く雨粒を見つめていた。
待ちわびた「清四郎」さんからの手紙は思わぬ代筆者によって届いた。返信が来た嬉しさと、今の清四郎さんの病状を知った複雑な感情…。それでもようやく差し込んだ希望の光に、時乃は改めて彼に手紙を書く事にする。
優しい心遣いで励ましてくれた彼に--「鳥月 敬」君に…。