第十七話―羽瀬 時乃―
それは些細な出来事がきっかけだった。
もう何がきっかけだったかなんて覚えていないくらい小さな小さな出来事だったようにも思う。
そう、あれは確か二か月前。
文化祭の準備の途中、担当だった子が人におしつけて帰ろうとした事が許せなくて言った一言。
―自分だけ都合よくサボろうなんてずるいんじゃない?
悪気があって言ったわけではないし、間違った事を言ったとも思わない。それでも、もう少し言い方があっただろうと後悔した。
あの言葉が今こんな風に仇になって返ってくるとは誰も予想していなかっただろう。勿論、時乃自身も…。
「あんた、ホントにうざいんだよっ」
「羽瀬ちゃ~ん、何か言ってよ~?」
馬鹿みたいに語尾が上げられた言葉たちが小気味よく時乃に向けられては散って行く。身体を突き飛ばされ、長い髪を鷲掴みにされたまま数人に囲まれてしまえば成す術もなく時間が経つのを待つしかない。
多勢に無勢な状況に時乃は口唇を噛みしめる。
たった一言がこの状況を招いた事を悔む心と、群れをなしてこんな馬鹿なことしか出来ない同級生に嫌気を覚えながら、それでも時乃は屈しようとはしなかった。
―私には“信じられる人”がいる…。
その事実だけが今の時乃を支えていく。
いつもなら傍で自分の事を庇ってくれるであろう親友―安理―は、この二、三日学校を休んでいる。どうやら本格的に“離婚”の話が進んでいるのだと人づてに聞かされれば、親友の身を案じる気持ちと結婚や恋愛に対して“絶対”はないのだという事を思い知らされた。彼女は今、どんな気持ちでいるのだろうか―。
―安理、無理して笑う癖があるから…。
両親は幼い頃から共働きで二人が揃う事は少なかったというし、親に手をかけさせない“良い子”であることに慣れてしまった彼女は、そんな時でも弱音を吐かずに笑顔を浮かべる癖が付いている。その笑顔に両親は安心して、安理の痛みになんて見向きもしない。それが時乃には“不自然”でならなかった。
どうして、どうして、どうして??
そんな風に泣きそうな顔で笑わないで。何度そう言いたかったか知れないのに、それを彼女が望んでいない事を知っているから余計に何も言えなくなる。いつも支えてくれる彼女に私が出来る事はあるのだろうか――。
楽しそうな笑い声をあげ走り去る少女たちの背中を見つめ、時乃は冷たいコンクリートの上に崩れるように座り込む。校舎の死角にあたる体育館との境目、彼女たちに呼び出されるのは一度や二度じゃない。もう何度も呼び出されては今日のように囲まれ、壁に押し付けられては振り回される…その繰り返しだ。
呼び出しに応じなければいい。ただそれだけなのに時乃はそれをしようとはしなかった。
応じないことで起きるだろう“報復”を恐れているわけではない。そんなもの怖くなんかないし、いくら身体を痛めつけられたところでこの心が折れることはない。
信じられる人が傍にいてくれるだけで心は強くなれるから…。
それでも何かしていなければこの心の中にある不安が溢れてきそうで、それを止める為に時乃は痛みに耐えた。安理のこと、そしてまた止まってしまった手紙の相手―敬―のこと。
見上げる空は灰色で、今の心と似ている。
いつまでもこんなことが続くなんて思っていない。彼女たちも馬鹿ではないだろうから、いつか自分たちのしていることの愚かさに気づくだろうし、何より安理が学校に登校するようになれば彼女たちは何事も無かったかのように“クラスメート”を続ける日に違いないと確信していた…。
―安理、怖いから…。
優しくて、強くて、何をするわけでもないのに影響力のある“安理”はクラスでも目立つ存在で成績もよく先生からの人望も厚い。だから無闇に彼女を敵に回そうとするものはいない。でも…。
―私、嫌な奴。
こんな時にまで安理を頼ってる。
いつだって助けてくれる彼女を当てにしていたのかもしれない。幼馴染で親友でいつだって傍にいて守ってくれる。これじゃあ、いつまでだって変われない。
もしかしたら彼もこんな醜い自分に気づいて手紙をくれなくなったのかも知れない…と、一人になるといつも不安になる。哀しくて、思い出すたびに熱くなる目元を抑え蹲っていた。
どうか、もう一度…。
時乃は心の中で何度もそう呟いていた。
放課後。
真っ直ぐ家に帰るのはなんとなく気が引けて、少し遠回りになるが祖母―美鶴―の病院へと面会に行ってみる。ちょっと汚れてしまった制服はコートとマフラーで隠して大好きな祖母の待つ病室へと足を運んだ。
「おばぁ~ちゃん」
病室の扉を二つノックで開くと、そこにはにっこりと微笑む祖母の顔。時乃はこの柔らかい笑顔が大好きだった。しわくちゃで温かいこの笑顔が…。
「まぁまぁ、時ちゃん?」
「うん、帰りによっちゃった」
「お帰り」
「…ただいま」
他愛もない会話を交わすだけで、捧ぐれ立っていた心が和む。そのまま短い時間祖母に寄り添い言葉を交わした。陽が傾いた病室には夕日の赤が映し出され、あの日貰った“紅葉の栞”を思い出させる。祖母との会話をしながらそれでも心は彼の事を考えずにはいられなかった――。
自分の蒔いた禍の種に、重なる不運な出来事。
少女は信じられる人たちの心が分からずに不安に駆られていく…。
次回、敬からの手紙は届くのか!?
こう、ご期待です☆