第十六話―鳥月 敬―
十一月に入り、先月までの暖かさが嘘のように、身を切る風が冷たい。
ジーパンのポケットに手を突っ込んだまま、敬は家へと急いでいた。住宅の間を走り抜ける風は、勢いを増して体温を奪っていく。
「……ったく、何で俺が……」
腹いせに吐き出した文句も、泣くようにざわめく木々の声に吸い込まれた。
やっとの思いで家に辿り着くと、ふわっと暖かい空気が冷えた身体を包んでくれる。
ホッと一息吐く間もなく、敬は奥の和室へと一直線に向かっていった。
襖を開けると、少し湿っぽい草の匂いが漂う。藺草の香り。敬にとってその香りは、この部屋の主である清四郎を思い起こさせるものだった。
一瞬踏み込むのを躊躇ったが、意を決して進んでいく。小さな頃は、勝手にこの部屋に入ると、祖父の拳骨が飛んできたものだ。それ以来、成長した今も苦手意識が抜けないままだった。
押入れを開けると、埃っぽい空気が流れてくる。
軽く咳込みながら、敬は目当ての物を探し始めた。
久し振りに祖父の見舞いへ行ったは良いが、冬物の着替えを持ってくるように言われ、自分だけ引き返して来たのだった。
一年間眠っていた衣類は、押入れの奥に追いやられ、取り出すのも一苦労だった。あっという間に、足元が物で埋め尽くされていく。
適当に上着やパジャマを見繕って、紙袋に詰めていく。その作業を終えると、今度は出した物を戻す作業が待っていた。
幾分か軽くなった衣装ケースを、勢いを付けて持ち上げて、元の位置へと押し込む。
「――うわっ!」
最後の一つをしまう時、角が当たったのか隣の段ボールが落ちてきた。運の悪いことに蓋が閉められておらず、中身がせっかく片付いた床に飛び散った。
舌打ちをして、渋々また片付けに取り掛かる。
文庫本、何かの書類、ノート等に混じって、古びた箱が転がっていた。
簡単な鍵が付いていたが、落ちた衝撃で外れてしまっている。恐らく、元々錆びていたのだろう。
「ヤバ……壊した!?」
慌てて手に取り、中身を確認する。
蓋を開いた敬の手と表情が、凍りついたように固まる。
「美鶴へ……」
無意識に口が動いていた。
箱の中にしまわれていたのは、ただ「美鶴へ」とだけ記された手紙の数々だった。長い時を経て、白い封筒はすっかり黄ばんでいたが、墨で書かれた名前だけは、当時のような鮮やかさを保っていた。
まるで、込められた想いの強さを表すように。
郵便番号も住所すらもないのは、出すつもりがなかったからなのか、直接渡すつもりだったのか――。
どちらにせよ、眠ったままの手紙に胸が詰まった。
無言で手紙の束を閉じ込めて、敬は祖父の部屋を出た。
病院へ向かう間、色々な思いがぐるぐると頭を巡っていた。
「あれ? 母さん達は?」
病室を訪ねると、そこにはベッドに横たわる祖父しかいなかった。
「さっき帰ったぞ。入れ違いだったな」
起き上がる祖父の身体を支えてやる。何だか、ひどく小さく頼りなく思えて、苦しかった。
紙袋から厚手のカーディガンを取り出し、そっと肩に掛ける。
「……祖父ちゃん」
「ん?」
意を決して、敬は清四郎に語りかけた。心臓が、早く強く波打つ。
「前に手紙くれた、羽瀬時乃さんて覚えてる? ほら……樋野さんの、お孫さん」
名前を出した途端に、清四郎の眉間の皺が一層深く刻まれた。尻込みしたものの、構わず続けていく。黙ったままでいれば、この先ずっと言えずに終わってしまう気がした。
「俺、今手紙のやり取りしてるんだ。時乃さんと。樋野さん、快復して、今は結構元気みたいだよ」
祖父の強い眼光に、敬の語調はどんどん弱くなっていく。別にやましいことがあるわけでもないのに、怒られているような気分になった。
少しは、この報告を喜んでくれるのではと期待したが、とんだ間違いだった。
「何で、お前達が連絡を取る必要がある?」
「え……いや、必要とかは……ないかもしれないけど」
「必要ない!」
久々に聞く怒鳴り声に、敬の身体がビクッと跳ねた。
「祖父ちゃん……」
「もうその話はするな」
言い切ると、清四郎は黙って敬を見据えた。返事を待っているのだ。
嫌な汗が滲む拳を握り締めて、敬も祖父を見据える。
「嬉しくないの? 樋野さんは、祖父ちゃんにとって大切な女性なんだろ?」
「知った風な事を言うな」
「知ってるよ。顔に出てるんだっての。それに、手紙だって――」
言いかけて、言葉が詰まる。言ってはいけない事だと、理性がブレーキを掛けた。が、惜しくも間に合わなかった。
「手紙が、何だって?」
「えっと、その……時乃さんから手紙が来るぐらいだし。樋野さんも、今でも祖父ちゃん宛の手紙を持ってるんだって」
祖父の手紙を見てしまったのを誤魔化そうとしたが、余計に墓穴を掘った気がする。
清四郎がゆっくりとベッドから降り、敬の眼の前に立った。肌で感じる怒気に押されて、思わず一歩後ずさった。
「お前、アレを見たのか?」
「アレって?」
箱の中の手紙を指していることは明白だったが、苦し紛れに聞き返す。そんな誤魔化しがこの祖父に通じるわけがないことも、明白だ。
「見たんだな」
「――っ」
答えられずに、眼を背けた。言葉では答えられずとも、その態度が明確に肯定していた。
鈍い音がして、頬に熱が走った。鉄の嫌な匂いと味が、感覚を侵していく。
「帰れ」
落とされた一言に、敬は清四郎の顔も見ないまま、病室を走り出た。
患者や看護師にぶつかりそうになりながら、全速力で病院を飛び出して駆ける。
嫌だ。
何で。
痛い。
どうして。
寒い。
苦しい。
何が。
わからない。
理解できない。
気持ち悪い。
そんな負の感情ばかりが渦巻いて、気が付いた時には自分の部屋に戻ってきていた。
全力で走ってきたせいで、息が上がって苦しい。
敬の虚ろな目が、時乃からの手紙を捉える。震える手で、それを掴んだ。
――それでも、出来るならもう一度二人を逢わせてあげたい…。
例え逢った後に何も芽生えなくても、どんな結末が待っていても。
無理だよ、時乃さん。
――僕は、変わりたいのです。あなたのように、人に想いを伝えたり、人を想って何かを為したい。
結局、俺じゃ無理なんだ。
――二人で出来る事を探したい。
――どうか私と一緒に頑張って下さい。
俺にできる事って、何だったんだろう。
――敬が良いと思った通りにやりゃあ良いじゃん。ダメだったら『ゴメンナサイ』ってことで。
具紀、やっぱダメだったよ。
時乃さん、ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
手紙を握る手に、力を強く込めた。
込められた想いに比べて、あまりにも薄い紙は、少年の手の中でグシャリと音を立てた。
綺麗な字で綴られた、自分の名前。今はもうぐしゃぐしゃになって、元には戻らない。
祖父ちゃんと、樋野さんも、こんな感じで元には戻れないのかもしれない……。
パタパタと涙が零れて、時乃の字が滲んで消える。
心と身体の、鈍くて鋭い痛み。
グシャグシャになった、少女からの手紙。
好きになれそうで、また嫌いになった自分自身。
全てを抱えて、敬は独り、静かに涙を落とし続けた。
ちょっとダークな敬編です。
時乃からの手紙を握り潰してしまった敬、この先どうなるのでしょうか――?
届かない返事に時乃は――?