第十話―鳥月 敬―
――去年の夏休みは、問題集とばかり顔合わせてたっけ。
敬はベッドの上で、ぼんやりと考えていた。
夏休みも折り返し地点に差し掛かったが、外の気温は折り返す様子もなく上がり続けていた。アスファルトからは陽炎が立って見える程だ。
うだるような暑さの中、人工冷気で守られた部屋にごろごろとする。贅沢な時間だが、頭が腐りそうで敬は早々に立ち上がった。
日曜では部活もなく、宿題も片付け終わった今、手持ち不沙汰も良い所である。
喉の渇きを癒そうと部屋を出ようとした刹那、ドアが控え目にノックされた。
「敬?」
「……何?」
普段この部屋を訪れる事など滅多に無い声の主に驚いて、反応が遅れた。
警戒心を隠し損ねて、ドアの隙間から外を伺う。
自分があと三十年経ったらこうなるのだと確信できる程、面差しの似た父。この年頃にありがちな親へのよそよそしさを、例外なく敬も纏っていた。
「話す時は人の目を見て、面と向かって」
どこのスローガンだと悪態を吐く間も無く、大きな手が軽々とドアを開け放つ。その反動で、敬は危うく転びそうになった。
だいぶ追い付いてきてはいるが、まだ父の背には届かない。キッと睨み上げると、父は飄々と笑ってみせた。
「敬は、もうちょっと筋肉付け方が良いな」
「余計なお世話だ。何だよ?」
「せっかくの休みなのに、部屋に籠りきりで勿体ないだろう。カノジョとデートでもしてくれば良いのに」
「カノジョとかいねぇし。茶化しに来たんなら閉めるぞ」
言い終えない内に、サッサとドアを閉めようと引く。が、父がそれ以上の力でこじ開けて来る。
「何なんだよっ!」
無理矢理閉めようと更に力を込めたが、やはり形成は逆転しなかった。
敬がムキになるのと反対に、父は至極楽しげであった。それが、余計に腹が立つ。
「あっはっは、まだ父さんの方が強いなぁ」
「な、に、が、したいんだよ!」
「やぁ、久々に息子と触れ合ってみようと?」
このお天気頭の男から、どうやって自分のような暗いのが生まれてきたのだろう。生命の神秘か。いや、この親だからこそ、なのかもしれない。
――ヘラヘラしやがって。
物心付いた頃から、そんな目で見ていた。何が不満なわけではないのに、何かが気に食わなくて、少年の心は少しずつ曲がっていった。
「文通してるんだって? 美鶴さんのお孫さんと」
不意に放たれた言葉に、手の力が緩んだ。必然的に、ドアを引いていた父が後ろへ転倒する。
「いきなり離すなよ!」
「あ……ごめん」
驚きのあまり、素直に謝ってしまった。
何故知っている?
時乃と手紙をやり取りしている事ならば、草子から聞くなり何なりして知っていても不思議ではない。
しかし、父は「美鶴さんのお孫さん」と言った。手紙の内容を、知っているのだ。
「樋野さんのこと、知ってんの?」
「知ってるって程じゃないけどな。まぁ多少」
「……」
話を聞いてみたいが、口には出せなかった。声には出さずとも、聞き返してしまった時点で、興味があると言っている様なものなのだが。
父はにやりと笑い、敬の意思を汲み取った。
「聞きたいのか?」
押し黙っていたが、やがて根負けした敬は首を縦に振った。
満足げな父の顔が、何とも気に食わない。
至極簡単にだが、祖父と樋野美鶴の関係について聞き終えた敬の胸に浮かんできたのは、疑問だけだった。
今更、二人を会わせた所でどうなるのだろうか。
何故、そんな事をしようと思うのか。
どうして、その手伝いを自分がしなければならないのか。
父と接した事でささくれ立った心が、また刺々しい想いを生み出す。苦い顔をして自己嫌悪に駆られていると、大きな手が肩を優しく叩いた。
「敬はさ、こういうの下らないって思うかもしれないけど、当人達にとってはすごく大きなもんだったりするんだよ。今みたいにメールだの携帯がない時代に、恋愛するのって大変だったんじゃないか? ましてや、それを貫くなんて」
「……」
「お前は、筋力よりも心を磨かないといけないな。人の気持ちを汲み取って、叶えてやる事。父さんは、敬がそれができる子だって知ってるから良い。でも周りの人達は知らない。やり辛かったり、恥ずかしいかもしれないけどさ、実行しないとお前が損するよ」
それだけ言い終えると、父は部屋を出ていった。
「何だよ……偉そうに」
悔し紛れに、ポツリと呟く。よくわからないが、胸に迫る物があり、涙が出そうだった。
一つ大きく深呼吸をして、抽斗に手を伸ばす。
そっと取り出したのは、時乃からの手紙だった。封筒と便箋も合わせて、机の上に出す。
羽瀬 時乃様
お返事が遅くなってしまい、申し訳ありません。
祖父の容体に変化はないのですが、お便りさせて頂きました。
羽瀬さんの言う「共犯者」の意味する所はわからないけれど、できうる限り協力していきたいと思います。
それで何が変わるのかも、わかりません。でも、僕は変えたいと思うのです。
僕は、僕のことが好きではありません。人付き合いも得意ではないし、言いたいことも言えず、殻に閉じこもってばかりで……。
見ず知らずの僕に、自分の意志を、想いを伝えてくれた羽瀬さんのことを羨ましく思います。
急に何を言い出すのかと思うのでしょうね。僕は、変わりたいのです。あなたのように、人に想いを伝えたり、人を想って何かを為したい。
だから、羽瀬さんの想いに応えます。
正直、こんなことを言っても自分に何ができるだろうと不安です。恋愛感情とかも、僕にはよくわからない。
けれど、新しく変われるきっかけをくれたあなたの力になりたいと、そう思いました。
自分の気持ちを誰かに話すのなんて、いつ以来か……。
慣れなくて、伝え方も下手で、あなたの意志を上手く汲み取れないかもしれません。間違えた時は、率直にそう言って下さい。
こんな僕で良ければ、一緒に頑張っていきましょう。二人で、何ができるかを探していきたいです。
まとまりのない文章で、すみません。
これから、上手く伝えられるように努力していきます。
平成22年 8月16日 鳥月 敬
一気に書き終え、読み返すこともせずに封をする。
読み返してしまったら、きっと自分はコレを封印するだろう。
敬は、手紙を抱いて外へ飛び出した。纏わりつく熱気も、今は気にならなかった。
晴れ渡った空の下、駆け足で坂道を上がって行く。
届け、届け。
歪で不器用な想いの塊。
カタン、と軽やかな音を立てて、それはポストに吸い込まれていった。
家へと引き返す敬の瞳には、年相応の少年の耀きが満ちていた。
駆ける彼の隣では、向日葵の群れが、見守るように揺れていた。
ついに動き出した、敬の想い。
不器用な彼の心は、どのように変わっていくのでしょうか……?
乞うご期待☆