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公園で

       

 「うちの場合はね、まずは私が不倫だったの」


「え?」

「あ、違うわよ。私が浮気したわけじゃないわ。旦那に元の奥さんがいて、そこに私が割り込んだってわけ」

「ああ、なるほど」

「割り込んだって言ってもね、もう長い間ずっと別居していて、子供も居ないし、夫婦って言うのは形だけの状態だったのよ。独身同然。その人が私のマネージャーやったの」

「マネージャーさんですか」

「歌手の世界なんてね、華やかに思うでしょうけど、本当に狭いのよね。大体歌しか知らない世間知らずの子ばかりだから、世の中に馴れて無いのよ。周りは歌手仲間やプロダクションの連中ばかりだから、業界人ばかり。小さな部屋に同じような男女がひしめいているって感じ。すぐ出来ちゃったり離れたりするわけよ。私の場合、一番身近なマネージャーと出来たってわけ」

微かに煙を立てて燃えるタバコの先を見つめながら、少し言葉を探している。

「あなたは・・・・・」

「はい」

「どういう人と出来たの」

「え?」

「浮気したんでしょう。相手はどういう人。まさか、風俗やプロの相手との浮気で離婚するわけ無いでしょうから、普通の人なんでしょう。相手は職場の人? 人妻?」

「いやいや。そんなんじゃ」

「ごめんなさいね。いきなりこんなこと聞いて、そりゃどぎまぎしちゃうわよね。でも私ね、まだるっこしいの嫌いなの。あのね、私、不倫はいやなのよ」

「え?」

「自分でやったくせに言うけどね、あれ、やっぱりやっちゃ駄目よ。どんな事情にしてもね、持ち主のあるものを盗んじゃいけないのよ」

「持ち主ですか」

「そうよ。私の場合だって、事実上は独り者の男だったんだけど、法律的には彼には妻という形の女性が居たわけよ。そのことって、ものすごく重いのよ」

「そうですか」

「だって、あなただってそれは痛感してるはずよ。仮に法律上の奥さんのことをまったく愛していないといってもね、それは離婚の理由にはならないの。あのね、新しい女性が出来て、例えばベッドに一緒に居るとするでしょ。そのとき、そのあなたと抱き合いながらよ、あなた、本当に心に曇りの一点も無かった? そうじゃないでしょ、あったでしょ」

「いや、そんなことは・・・・・そうだなあ・・・・」

「嘘ついちゃだめ。私に今嘘ついても、あなた何のメリットも無いのよ。正直に考えて。一点もよ。何のわだかまりも無く、その新らしい人、抱けたの?」

「・・・・・」

「もし抱けたって言うんなら、私悪いけど、あなたともうお会いできないと思うわ。だってそれ、絶対に嘘だもの」

「あの、僕の場合、妻には既に他の男が居たんですよ」

「あら、そうなの。そう。でも、でも、それがどうしたの?」

「え?」

「女が浮気したから、自分にも浮気する権利があるって、まさかそんな風に考えているんじゃないわよね」

「いや、権利だなんて、まさかそんな」

「あのね、男っていつもそうなの。男は、外に出かけるから、自由に遊ぶのが当たり前、女は家庭でじっと夫の帰りを待つのが当たり前、っていう考え方。あなたもそういう考えなのね」

「いえ。そういうことはまったく無いですよ」


 話はどこまで進むのだろう。友人の仲介で初めて会った中年の男女が語らう内容だろうか。彼女は残っていたコーヒーに口をつけて、僕の胸元を見つめていた。言葉を選んでいるかのような表情を見せた後、

「とにかく。私には娘が居るの」

とポツリと言い、また黙った。視点を動かさない。

「悲しいけど、その娘が、父親にそっくりなの。顔立ちも、モノの仕草も、クセも、最近は喋り方まで似てきた気がする。今11歳。まだまだ子供だけど、時々ハッとするくらいに大人びて見える時もあるの。そんな時、あの男の姿がちらついてビクっとする。最近はそれが多くてね」

「何年ですか」

「え?」

「離婚されてから」

「ああ。そう、私も5年」

「娘さん、会いたがりませんか、お父さんに」

窓の外の舗道には絶え間なく人が行き交うが、誰もガラス越しの店の中を覗こうとはしない。日曜なので、学生やサラリーマンのスーツ姿もなく、ゆったりと歩く人が多い。銀杏並木がその向こうの車道との間を隔てる広い舗道で、若者がアクセサリーを売ったり、帽子を被った老人がキャンバスを立てて風景画を描いたりしている。

「全然」

「全然? へえ」

「子供なりに、我慢してるのよ。本当は恋しかったんだと思う。でもあの子、一言も言わないで来た。自分の子ながら、大したものだと思うわ。私の心の中を一生懸命覗いて、パパの事は絶対に口に出しちゃいけないって感じてきたのね。1年生の途中から急にパパがいなくなったって、父親参観に来てもらえなくなったって、公園で遊んでもらえなくなったって、何も私に訴えて来なかったわ」

「へえ。大したものですね」

「子供なのにね。その頃、まだ6歳7歳の。だから、親が馬鹿でも子は育つって本当のことかも知れない。あ、違うかな。親が馬鹿だから、子が賢く育つのかしら。11歳の今、もう立派な大人みたいよ」

「お母さんは今でもステージに立ちますよね」

「ああ、たまにね。食べていかなくちゃいけないから、声が掛かれば行くわ。最近昔のファン達がまた聞くようになったらしくて、小さなコンサートなんかに呼ばれるの。ギャラは昔の十分の一だけど、無いよりはましだわ」

「ということは、この先も音楽からは離れられませんね」

ちらっと僕の目を見て、すぐに答えた。

「それはそう。歌をやめるなんて、考えたことも無いもの」

ウェイトレスが、水を足しにやって来た。彼女はまたタバコに火をつけた。注がれた水を少し飲む。グラスの淵は口紅で染まっていた。

「あなた、何が生きがいなの」

「え?」

「生きがいよ。生きる目標、生きる理由。一番大切にしていること。悪いけど、その歳で一人暮らしで、退屈な毎日でしょう。何が目的で毎日暮らしてるのかしら。それとも、そんなもの無いの? 仕事、仕事の毎日?」

「仕事は忙しいです」

「食品販売のお仕事とか」

「はい。食材の飲食店への卸会社の営業ですね」

「そんなに忙しいのに、良く浮気する暇があったわね」

そう言われても答えようが無い。言い淀んでいると、彼女の方から助け舟があった。

「ね。せっかくだから、外を歩かない? ここでこんなことばかり話していても仕方ないし。この近くに池のある公園があるでしょう。行って見たいな。あなた、時間大丈夫?」「はい、行きましょう」

立ち上がった彼女から、華やかな香気が伝わってきた


 喫茶店から歩いて10分ほどのところに、大きな池を構えた市民公園がある。中秋の午後の日差しに恵まれて、多くの人が散策に訪れていた。池に住みつくカルガモの群れを間近に見れる位置のベンチに腰掛け、彼女は大きく伸びをした。ブラウスからはみ出た細い腕の色が痛々しいほどに白い。しかし広げた手の平には幾つもの筋が浮き立ち、年齢をそれなりに感じさせた。

「ねえ吉田さん」

と彼女は初めて僕を名前で呼んだ。

「はい」

「私の生きがいはね、何だと思う?」

話は続いていた。

「それは、歌でしょう、もちろん。歌の無い生活は考えられないとさっきおっしゃっていたし」

「そうね。それはそうよ。でも、歌ばかりじゃないわ。歌はその一つであり、稼ぎの元。他の生きがいは沢山あるのよ」

「ほう。それはどういうことですか」

「あそこにカモの親子が居るじゃない。もしあなたがあの子ガモに石をぶつけたら、親ガモはどうするかしら」

「うーん。カモはどうだか分からないけど、もしカラスなら、きっと飛んできて僕を襲うでしょうね」

「カラスでなくとも、カモだってそうよ」

「そうでしょうか」

「生きてるもの、みんなそう。犬だって猫だって、その辺の虫けらだって。何故ならね、子供は親のものだからよ。生き物は、自分の持ち物を取られようとすると抵抗するの。これ、本能でしょ」

「なるほど」

「その持ち物を増やすことって、生きがいだとはいえない?」

「持ち物を増やすこと・・・・・」

「モノや人だけじゃないのよ。気持ちも。感情も。子供の数を増やせっていうんじゃ無いの。それが一人であっても、自分がその子に与えることのできるものを、どんどん増やしたいということなの」

「多くの愛情を注ぐということですね」

「そう。限りなくよ。どこまでもよ。出来る限りのことは、すべてしてあげたいと思うの。だから、私だって自分の子供に石を投げられたら、相手に逆襲すると思うわよ。あなただってそうじゃない?」

「うん、そうかもしれない」

「そういうね、愛の対象をもっともっと大きく、豊かにしていくこと・・・・・それが私の生きがいなの。分かるかな」

「分かりますよ、多分」

「でもね、あなたはきっと分かって無いと思う」

そう言い、彼女は足を組み替えた。スカートが膝の上までずれ、黒いストッキングに覆われた細い足の形が一瞬現れた。


 目の前の池の淵には、小さな水の紋を作りながら、数羽のカモが集まってきた。岸辺には蓮の葉が幾平も広がり、カモ達はその合間を動いている。

「何故ですか。分かってると思いますよ」

覗き込むように横から見た彼女の頬には薄く紅が差され、長い睫毛は色濃く塗られ、その根元にはアイシャドウの青みが広がっている。僕の視線を感じた彼女は、その睫毛をパタパタと上下させた後、横目で僕を見た。黒い瞳には曇りが無い。視線を正面に戻し、重ねた膝の上で両手を組む格好をして、彼女は答えた。

「だってあなた、浮気ってそういうことでしょ。守るもの、愛を与える対象というものを、履き違えたということじゃない。違う?」

口調が鋭かった。有無を言わせない力がある。

「元の旦那の場合はそうだった。あのね、浮気してもいいの。たまには息抜きに、その辺の若い女の子をからかったていいわ。病気さえ持ち込まなければ、女遊びだってしてもいいの。でもね、不器用な男って、そっちに全力をかけちゃうわけよ。自宅にはスッピンの奥さんと鼻をたらした子供が待ってるのに、自分は外でチャラチャラしたロマンスの世界に溺れちゃうのね。探したら、いっぱい出てきたわ。ラブレターだの、ラブメールだの。たっぷりと。いろんな相手に、愛してる、誰よりも君を愛してる、今の妻などこれっぽちも愛していない、結婚は失敗だった・・・・・なんて、そんなことばかり書いてある。ねえ、おかしいでしょう。少なくとも、ただの浮気なら、離婚なんかしないわよ。でも、心まで向こうに持ってかれちゃって、それ以上一緒に住む気にならないわよ。分かるでしょう?」


 僕は言葉が出ない。彼女がまくし立てたことは、全て自分の離婚時に元の妻が引導を渡したときに言ったことと同じなのだ。

「男ってさ、目の前のことを取り繕うことしか考えないのよね。目の前の彼女が機嫌悪ければ、おだてて、あれこれ買ってあげて、機嫌が直ればそれでいいの。今のことが解決すれば、それでいいのよ。その先の5年、10年なんて、ちっとも見ちゃ居ない。ね、あなただってそうだったでしょ。きっとそうだったって思うわ」

 図星なのだ。まるで5年前のあの悪夢の日々が現となったような錯覚を覚える。

 カモが三羽、パタパタと水辺にしぶきを上げて飛び立った。二羽が先に、少し遅れてもう一羽が。

「ほら、あれ見てご覧なさいよ。あの、先頭の二羽は仲間なのね。あとから追いかける可哀想な一羽、あれは、あなたの話の場合、誰みたい?」

奔放な快楽の生活を続けた僕と相手の女性が、先頭の二羽なのだろう。それを哀れに追いかける一羽は、元の妻なのか。

「後ろの一羽は・・・・・出て行った妻ですね」

すると彼女は今度は僕の顔をまじまじと見つめ、呆れたように答えた。

「いやね。まだ分からないの。あれはあなたじゃないの」

視線の先の哀れな一羽は、やがて力なく水面に落ち、所在無げに辺りを見回していた。



 (続く)

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