3 人ならざる
ドアをくぐってまず目に飛び込んできたのは、まっすぐに伸びるカウンターに、綺麗に並べられた椅子だった。
高級寿司屋をイメージさせるカウンター席の向こう側には、魚の入っている水槽や食器棚が並び、奥にあるのれんの向こうへと続いている。
「さて…ようこそ、料亭『おこう』へ。私は店主のむつというものだ。まあ、こちらに聞きたいことは山程あるだろうが、まずはこちらから聞きたいことがいろいろあるのでね。少し質問に答えてほしい。」
「は、はい。」
むつと名乗った若い男は手に持っていたレジ袋をカウンターの上にドサリと置くと、ちらりとカウンターの奥に目をやる。
「ごめんなさいごめんなさいほんとごめんなさい許してくださいお願いします…」
隅で座り込んで丸くなりながら、ブツブツとこちらを涙目で見つめながら謝罪している猫耳のついた幼女。
よく見れば、お尻のあたりから力なく垂れ下がった尻尾まで付いている。
あれが人ではないのは、長年幽霊とお付き合いしてきた香夜にはなんとなくわかった。
普通の人だったらいわゆる獣人なんて見たら大騒ぎするのかもしれないけど、それは普通の人の話。香夜は長年の経験から、意外と冷静にその光景を見ていた。
むつと名乗った男は、その丸まっている獣人幼女に声をかける。
「君、一体何をしたんだね?」
「そ、それは…。」
むつの声に、幼女は涙のいっぱい溜まった目で香夜をちらりと見る。
「何?」
「あ、あの…。」
キョロキョロと辺りを見回し、どこにも逃げ場がないーー
そんなことを悟ったように見えたけど、そのままふるふると震えながら、手を差し出す。
そしてゆっくりと開いた手にはーー
「…あ。」
「ごめんなさい…。」
香夜が猫に奪われた、お守りがあった。
「本当に、ごめんなさい…でも、貴方の持っているそれが、すっごく高いものだと思って…。」
「貴方、もしかして…あの黒猫?」
「はい…。」
返事とともに、ボンっと白い煙が猫の周りに上がる。漫画のように立ち上った煙が屋内の一角を真っ白に染め…そこから、ニャー、という鳴き声と同時にあの黒猫が出てきた。
「うわ…。」
「化け猫の女の子なんだ。」
むつが代わりに答える。
「全く…君、いくら銭が欲しかったからって人間の持ち物を奪ったらダメだろう?」
ボンっと煙に包まれて女の子に戻った猫は、またごめんなさい、と頭を下げた。
はあ、と一息ついたむつは、今度は香夜の方に向き直る。
「さて、こちらから色々聞きたいことがあるんだ。こんな風に化け猫を見てけろっとしてる人間がどうしてこんなところに迷い込んだのか…とかね。」
ーーーーーーーーーーー
「ーーふむ。なるほどね。それはそれは、大変だったね。それにしても、そんなに霊感の強い人間は久々に見たな…。」
香夜がとりあえずここに辿り着いた経緯を伝えると、むつは手を組み直した。
横には化け猫の女の子が椅子に座って、申し訳なさそうにちびちびとお茶を飲んでいる。
香夜の前にもむつに出してもらったお茶と、とりあえず返してもらえたお守りが置いてあった。
レジ袋の中身をとりあえず、といってように奥に運び込んだむつは、すぐに現れた。
もっとも、あのポロシャツにジーンズからは着替えて、割烹着だったので驚きはした、けど。
料亭、『おこう』と言っていただろうか。
店内を見渡すと、まず最初に目に飛び込んでくるのはやっぱりカウンターの向こうにある水槽だ。
見たことある限りだと鯛やフグ、その他名前のわからない魚がたくさん泳いでいる。その隣にはコンロらしきものがあって、大きな鍋もある。
奥に続くのれんの向こうには、炊事場らしきものも見えていた。
これだけ見ると、高級そうな料亭だ。
ただ…普通に化け猫がいる料亭が、ただの店ではないのは何となくわかる。
「あの、今度は私が聞いてもいいですか?」
「…ああ、そうだね。聞いてくれて構わないよ。」
むつは香夜をまっすぐ見る。
「ここは、どこなんですか?」
「まあ、それを聞くよね…。
簡単に言えば、ここは人ならざる者の住む世界だよ。」
むつはそう言うと、香夜に人差し指を突き出す。首を傾げると、むつはそのままクルクルとトンボにやるように人差し指を回す。
途端、ボンっという音とともに煙があがり、人差し指が二本になった。
「わっ…!」
「…と、まあこんな感じで。私も亡霊の端くれでね。見た目は普通かもしれないけれど、人間じゃないのさ。」
また音を立てて人差し指を元に戻すと、むつはにこりと笑う。
「君たち人間にはわかんないだろうが、こんな風に人間以外の生き物の住む世界ってのは色んなところにある。『神世界』って言うんだ。つまり異世界だね。」
異世界……。
「私、帰れるんでしょうか…?」
「心配は無用。私たちはこういう領域にいるけど、君たちの住む『現世界』にもたまに入り込みながら生活してる。だから、二つの世界を繋ぐ道はいっぱいあるさ。返してあげるから心配しなくていい。」
むつの柔らかな笑みには嘘もなさそうだし、とりあえず香夜はホッと一息ついた。
何となく自分たちのいる世界とはかけ離れている気はしていた。
幽霊は見たことあっても化け猫なんて知らなかったし、実際こうして霊体とじっくり話すのも初めてだけど、それに関しては全然驚きも恐怖もない。むしろ、帰れるかどうかだけが心配だったのだ。
「まあ、本当は、二つの世界を繋ぐ入り口なんて君たちには見えないんだけどね。
今回は君の強い霊能力と、この化け猫が門の開き方を乱暴にしちゃったから入れたんだろうね。」
「そうなんですね。なら、猫ちゃんにはお仕置きですね。」
「ひいっ!!」
突然自分の名前が出たからか、またビックーン!と音が出るほど猫ちゃんの毛が逆立つ。
かわいい。
「ほ、ほんとにごめんなさい!こんなはずじゃなかったの。そもそもあそこの妖門をあなたが通れるなんて思わなかったから…。」
「へえ。でも、猫ちゃんは人の物を盗んで逃げようとしたんだ。ドロボーだよ?こんなの。」
「ご、ごめんなさいほんとにごめんなさい…。」
何となくS心が働いて話を振ってみたら、とんでもなく涙を目にためて謝られてしまった。別にとって食おうと思ってるわけじゃないし、そんなにびっくりしなくてもいい。
「うそうそ、全然怒ってないよ。」
「んっ…。」
内心罪悪感にかられながら、香夜は猫耳幼女の頭を撫でる。問題は家に帰れるかだから、帰れるとわかった以上、損はない。疲れたくらいか。
ポタポタと机に落ちる涙を見るに、普通に責めすぎてしまった。ダメだ、鈴を弄る時と同じくらいの強度で弄ってしまった。
「でもさ、なんで私のお守りとったの?」
ただ、それだけ気になったので聞いてみた。
猫ちゃんは目をゴシゴシと手でこすって、顔を上げる。
「そのお守りから、妖力がしたので…なんとなく、いいものだろうなって。今時珍しいですから。」
「妖力?これから?」
「私、『ねる』って名前なんです。
ここで料理をしてもらうのに、お金が必要だったんですけど、集まらなくて…。それで、どうしようって思ってたらあなたから妖力を感じたから。気になって後をつけたら、お守りが落ちて。そこから妖力がしたから、その、つい…。」
魔がさしたってことか。
むつはふむ、と唸ると、私の前に置かれたお守りを手に取る。
「ずっと感じているが、これは妖力というより神力に近いな。だいぶ小さいけど、厄除けには十分だろうね。このお守り、どこで手に入れたんだい?」
手の中のお守りをひっくり返したり握ったりしながら、むつは香夜に尋ねた。
「おばあちゃんからです…。何でも代々伝わるすごいお守りだから、絶対なくしちゃダメだし、子供に渡してねって。」
「最近神力のこもったものなんて中々ないからね。君のおばあさんもそれが厄を避けてくれることを何となく感じてたんだろう。でもねる、お前忘れたか?ここは神もいる世界なんだよ。神力のこもったものなんてそんな大した値段はない。」
がっくりと肩を落とすねる。
「まあ、ともかく本当は君が…。」
と言ったところでむつは、ああ、と言い直して、
「そういえば君の名前は?」
と尋ねた。
「蜜谷香夜です。」
「香夜さんか。いい名前だね。
その香夜さんが…。」
「香夜でいいですよ、くすぐったいです。」
「ふむ、そうか。香夜、君が今すぐ帰りたいというなら帰そう。お守りも取り返したことだしね。」
香夜は少しだけ考える。
正直この世界にいる意味はない、けど…。
ちょっとだけ気になったこともあった。
「ねるちゃん…でいいのかな?」
「は、はい!?」
「なんでお金が必要だったの?」
途端、ねるの尻尾がしおしおと縮こまる。
「実は…私のお母様が、病気なんです。何か美味しいものを食べさせてあげたくって…。ここは、料理の頼みなら何でも叶えてくれるお店だって聞いてたんです。」
「で、私がお金を持ってきてくれと言ったわけだ。」
「へ…。」
香夜は、むつの顔を見る。
むつは顔を変えなかったが、それでもその瞳は優しく光っていた。
こんな人が、お金のことでそんなことを言うのだろうか。
むつは何も言わずによいしょ、と立ち上がると、そのまま店の奥に向かって歩き出す。ねるは顔を上げると、その背中に呼びかけた。
「あ、あの!」
足を止めたむつは、振り返る。
少し残念そうな、でも諦めも覚悟も混ざった複雑な表情だった。
「すまない、私も責任のない仕事はしたくないんだ。お金を払ってもらわないと、私も生活できない。」
「必ず!必ず後で払います!でも今、お母様の元気がないのを、これ以上見てられないんです!」
「そうはいかないさ。じゃあ聞くがねる、お前私がもし君のお母さんに作る料理に手を抜いたら、どうするのかね?」
「じゃあ、私ここで働きますから!」
「それもダメ。お前、まだ10歳くらいだろう?そんな子を厨房に入れるわけにはいかない。」
「でも…でもぉ…!」
「あ、あの!」
香夜は、見ていられなかった。
まあむつの言いたいことは高校生の自分でも何となくわかる。香夜だってお小遣いをもらっているし、バイトをしている子も周りにチラホラいる。お金は大事だ。
そして、お金を払うっていうのは、それなりの責任を伴うって相手に伝えることだって理屈も誰かから聞いたことはある。
でも、さっきからこの子は泣いてばっかりだ。
今だってポタポタと、そろそろ池になるんじゃないかってくらい涙を流して。
「ーーじゃあ、私が代わりにお店のお手伝いしましょうか?」
自分はこの化け猫ちゃんのことなんて何も知らないけど。今日出会ったばっかりのこの子を助ける義理なんてないかもしれないけど。
「こう見えても、結構手先は器用なんです。どうでしょう?」
ーーこのままほっとくのも、なんかお後が悪いような気がした。