ファンファーレ【著作権フリー】
ファンファーレ
作 本田実和
本人による朗読 https://www.youtube.com/watch?v=mH_7olVBo7k&feature=youtu.be
スタンドの方から、観衆のざわめきが聞こえる。いよいよレースが始まるようだ。何気なく見たパドックに、私は一瞬くぎ付けになってしまった。
あれは、確かに間違いない。そう、あの馬だ。
父が獣医師として見守り続けた競走馬。GIレースを引退してからは種牡馬として故郷の牧場で元気に暮らしたロッキーホープ。
その産駒として後に、何頭もの駿馬が誕生した。
そして今、ターフに現れた馬は、そのロッキーホープを祖父に持つ孫馬なのだ。
馬体から闘志を漲らせ馬は歩いて行く。
どうやら、あの馬は次のレースにエントリーされているようだ。持病の左前脚の不安説が囁かれていて、十番人気と評価は意外と低かったが、私はレース展開に興味を覚えた。
予想通り、レースは激しい攻防。
直線コースに至るや、二頭の強豪馬が抜け出ようとした瞬間に、奇跡は起きたのである。
あの馬が唸りを上げて馬群を割って走り込んできたのだ。場内は大歓声。多くの予想を裏切り、まるで単騎殴りこみの形相だ。そのとき、一度も観たことのないはずのロッキーホープが、私の前を駆け抜けていくような気がした。スタンドの大声援を受けながら、全力疾走でゴールを目指そうとしている。
「あきらめないで。がんばるのよ。」
興奮のあまり私は思わず立ち上がってしまった。
ゴール前にガクンと失速したように見えたが、それでも持ち直してアタマ差の二着に飛び込んできたのだった。
残念だったが、負けても悔いのないレース内容だ。
けれどその時、そんな余韻を打ち砕くように、誰かが「パンクだ!」と叫んだ。
スタンドの観衆がざわつく。
結局、馬の失速の理由は左前肢不全断裂ということらしい。
不安視されていた左前脚に故障をきたしていたのだ。おそらく競走馬としての再起は絶望だろう。
それでも、最後の瞬間までひるまずゴールに突っ込んだあの馬の勇壮果敢なレースに、多くのファンが感動して勝者に劣らない大拍手をいつまでも送り続けていた。
私は、胸に熱いものがこみ上げてくるのを抑えられずにいた。
そしてなぜこれほどまで自分が馬に魅かれるのか…今初めてわかる気がしていた。
遠い日、私や母に背を向けて、馬をそしてひとり別の人生を選び日本を後にした父の背中。
まだ許せそうにもない。
でもいつかきっと父に笑って会える日が来る…せめて今はそう信じたい。
競走馬は、生まれてから約十八ケ月(二歳)を経過すると、いよいよ本格的な準備が始まるが、これを「馴致」という。
この時期の基本訓練が、競走馬としての将来を左右するとも言われ大切な時でもある。
私の馴致はまだまだ始まったばかり。
馬に魅かれ焦がれた父の娘として、私は胸を張って生きて生きたい。
今夜こそ、母に話そう。獣医…それも競走馬専門の獣医師になりたいという私の夢を。
「どこかに、この私を必要としてくれる馬がいる。そんな獣医師に私はなりたい…」
競馬場を覆う空は、どこまでも蒼く続いている。最後のダービーに敗れた馬の姿は、もうどこにもいない。ファンファーレの音が風にのって遠く近く聞こえている。私は大きく伸びをして深呼吸した。
そして、出口のゲートを目指して軽やかに走って行った。