第二話・コバルトの風(1)✿挿絵✿
突き抜けるような青空の下、豊かな草原の上でレオンは目を覚ました。
頬をなでる風が心地良い――。フラフラする頭を押さえながら、ゆっくりと身体を起こす。
「何がどうなってんだ……? 確か、大きな揺れに襲われて……」
ぼうっとした視界の中、先ほど自分の身に起きた事を巡らせるレオン。
そして、遅ればせながら自分の置かれている状況に驚いた。
「ここは、どこだ……!? 二人は!?」
レオンが慌てて辺りを見回すと――。
近くにリオンとフィトがまだ気を失ったまま倒れていた。
「おい、二人とも大丈夫か!?」
弟とフィトのもとへ駆け寄り、身体を擦りながら声をかける。
すると――。先に、リオンが意識を取り戻した。弟の無事に、ホッと気を緩めるレオン。
キラキラと自分を照らす太陽の光に、リオンはたまらず目を細めた。
「んん……眩しい……」
「よかった! 目が覚めたか!」
目覚めたばかりで、ぼんやりとするリオン。
意識がはっきりしてくると、はっとした様子でリオンは飛び起き「兄さん、フィトは!?」と、慌てて兄に詰め寄った。
真っ先にフィトの心配をする弟に、レオンはふっと笑いかける。
「大丈夫、生きてるよ。まだ意識が戻らないけど、時期に目を覚ますだろ」
兄の目線の先――。自分のすぐ隣で倒れているフィトにようやく気付くリオン。
こんなに近くにいたのに気付かなかったなんて――。自分は途方もなく焦っていたのだと、リオンは自覚する。
しかし。黒髪の可愛い少女の無事に、ホッと胸を撫で下ろした直後――。
急に飛び起きた為にめまいが襲ってきて、リオンはその場にどさっと座り込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ?」
「……うん。急に飛び起きたから、ちょっとめまいがねぇ……」
頭を押さえ、片目を瞑るリオン。
落ち着いてまわりを見渡すと、広がるのは見慣れない景色。
ここは一体どこなんだろう、とようやく自身の置かれている状況を考え始める。
「……それにしても、ここは? 冥界じゃない……よねぇ?」
「ああ。冥界じゃない事は確かだな。こんな明るい景色、産まれて初めて見たよ」
「そうだね。僕も兄さんも、暗い冥界で育ったからねぇ。なんていうか……どこだかわからない得体の知れない場所だけど、すごく綺麗な所だなぁ~」
レオンとリオンは、まじまじと青く澄み渡る空を見つめる。
そして、そこに浮かんだゆっくりと形を変えていく雲や、目を焼くような眩しい太陽に感銘を受けた。
どこまでも続く草原の先には、白い美しい大きな街が見える。
「う……?」
遅れて意識を取り戻したフィト。
目を覚ましたフィトに、レオンとリオンは安堵の声をかけた。
「フィト、気が付いたみたいだな! よかった!」
「本当によかった! 目が覚めなかったらどうしようかと思ったよ!」
仰向けで横たわり、ぼーっとしているフィトを覗き込む兄弟。
フィトはふたりが側にいてくれたことに安心して、顔をほころばせた。
「……私、気を失ってたんだね。ふたりとも、心配かけてごめんね」
そう言ってむくりと起き上がると――。フィトは、ある事に気づく。
「あれ……? 私、どうして戻って来れたんだろう?」
「「えっ?」」
少女の言葉を聞いた兄弟の頭に、同時に疑問符が浮き上がる。
どういうことだ? と、互いに顔を見合わせるレオンとリオン。
「ここ、地上だよ。それで、あの街のはずれにある集落に、私の住んでるお家があるんだもの」
しばし、三人は沈黙になる。
兄弟はその言葉を反復すると、やっと意味が理解できた様子。
「「えええええええええええーっ!?」」
ワンテンポ遅れて驚いた犬耳兄弟は突如、大声を上げた。
ふたりの側に座っていたフィトは、ふたりの声を聞いて一人ビクッと跳ね上がる。
犬耳兄弟がびっくらこくのも無理はないだろう。
なにせ、地上に来てしまったのだ。あの、地上に。
兄弟はワナワナと震え、言葉を失くしている。
フィトは、そんなふたりを心配して声をかけた。
「ふたりとも、大丈夫……? いきなりここは地上だーって言われても、ねぇ? あはは……」
すると――。
フィトの心配を他所に、ふたりは目を輝かせて話し始める。
「う、うそだろ!? 俺たち地上に来ちゃったのかよ!?」
「信じられないよねぇ! 地上だよ!? ずっと来てみたいと思ってた地上だよ!?」
ハフハフと興奮しながらウエーイ状態のふたり。
レオンとリオンにとって、地上に来ることはとんでもなく嬉しい出来事だった。
願ったり叶ったりの状況。
夢のまた夢が、夢物語が現実になって訪れたのだ。
テンションが上がりすぎて、何が何だかわからない。
パチーンパチーンと何度もハイタッチをしている。
そんなふたりの様子を見て、ぽかんとするフィト。
余計な心配だったのかぁ、と思い、拍子抜けしてしまったのだ。
楽しそうに草原の上でじゃれ合う兄弟。
マイペースなふたりを見て、フィトは思わず、ふふっと笑みをこぼす。
ふたりが本当に地上に来てくれたことに、フィト自身も嬉しくなる。
「もしかして、お願い叶っちゃった?」
「かもな!」
「だね!」
フィトがふたりに問うと、満面の笑みでレオンとリオンは答えるのであった。
***
「しっかし、まさか本当になるなんて思いもしなかったよ。地上に来られたらいいよなー、なんて話をしていた矢先だったからさ」
「ほんとにね。僕もびっくりだよ!」
「嬉しいけどさ、ちょっと頭が追い付かないよなー!」
レオンとリオンは青々と広がる空を呆然と見つめていた。
目の前で起きている事態が大きすぎて、どうも考えが巡らないのだ。
兄弟がそんな事を考えていると――。突然の出来事で頭から離れてしまっていたあることを、フィトは思い出した。
「あ! そういえば! 女の子は!?」
そう――。冥界で穴に落ちる前に聞こえた、美しい綺麗な声。
高さ的に、女の子の声だとフィトは思っていた。
「フィト、ここに来る前にも言ってたよね。それは本当なの?」
「うん! はっきり聞こえたもん! えっと、なんて言ってたんだっけ……?」
フィトは、うーんうーんと考えるも、なかなか思い出せない様子。
次から次へと色々な事が起きたので、記憶が混乱しているのだろう。
「僕と兄さんには,女の子の声なんて聞こえなかったよ。それに、あの時は僕たち以外の誰かがあそこにいる気配はなかったし……」
「確かに俺もまわりを見たけど、女の子なんてどこにもいなかったと思うぜ?」
兄弟は口を揃えてそう言った。ふたりが言うことも本当のことなのだ。
しかし、フィトの言うことも嘘ではない。確かに声は聞こえたのだから。
だとすると――。レオンとリオンには、あの声は聞こえていないのだと、フィトは悟る。
そして思い出す――。あの声は確かに『たすけて』と、言っていた事を。
あの声が誰のものだったのか、自分に何を伝えたかったのか――。
何もわからない以上、どうすることも出来ない。
ふたりにあの声が聞こえてないのなら、いまは自分の中に留めておくべきなのかもしれない――。そう、フィトは考えた。
話を誤魔化そうと「……えへへ、幽霊の声でも、聞こえちゃったのかなぁ?」と、冗談交じりにフィトは話しをする。
「そうだね、冥界だからありえない事じゃないかも。変な声が聞こえたって、おかしくはないと思うよ」
そう頷く二人に、一人無言になるレオン。
それを知ってか知らずか、明るく声をかける弟がいた。
「あれ~? 兄さん、どうしたの? さっきからずっと黙っちゃってさぁ~?」
「あ? あぁ、別に……」
レオンは思う――。こいつは、何を言っているんだろうか。
十中八九、いや、十中十句、つまりは百パーセントわかって言っているのだ。
なにせ、弟なのだから。兄の事はよぉぉぉぉぉく知っているのだ。
本当にいい性格してやがんな、とレオンは弟を睨む。
兄の威嚇などお構いなしに、薄ら笑いを浮かべるリオン。
何かを企むように、不敵な笑みをこちらに向けている。
何を隠そう、レオンは幽霊が苦手なのだ。
この弟はそれを面白がっており、いままでもその事で散々な目に遭わされてきた。
今回も、絶対に何かを企んでいるに違いない。
レオンも弟の事は、よぉぉぉぉぉく知っているのだ。
この顔は、ロクな事を考えていない時の顔だ。いまリオンが考えている事は、だいたい予想がつく。
そんな思惑に乗るかよ、とレオンは突っ張った表情を見せた。
そんな兄弟のやり取りを見て、上手く誤魔化すことが出来たと安心しているフィト。
純粋無垢なこの少女には、まだ犬耳兄弟のしょうもない心理戦は伝わっていない――。
「……そういえばさ。冥界の仲間がね、暗闇の向こうから女のすすり泣く声が聞こえたとか、こないだ食堂で話していたような……兄さん、この話し知ってる?」
「あぁ? 知る訳ねーだろ」
いきなり怪談話をぶち込んできた弟を冷ややかな目で見るレオン。
思った通り、また兄の事を晒し者にして、楽しもうという魂胆だろう。
しかし――。わかっていても、内心は今すぐにこの場から逃げ出したかった。
こんな話は耳害以外の何物でもない。
ところが――。兄のプライドと威厳が、それを許さなかった。
それに、フィトの前でカッコ悪い姿は見せたくない。
ここはドンと構えて立ちまわってやろうじゃねーか、とレオンは武者震いをする。
レオンはありったけの虚勢を張り、言うなら早く言えよ、こん畜生! 怖くもなんともねぇぞ馬鹿たれが! と、心の中で叫んだ。
まったく、口の悪い兄である。
その挙動不審なレオンの様子を見てニヤついているリオンが、ゆっくりと口を開く。
「ちなみに、それはね……」
リオンが話の続きを口にしようとした時――。
自分の犬耳が、ぞわぞわと拒絶反応を起こすのをレオンは感じた。
「……や、やめろおおおおおおおおおお!」
弟の話を遮り、大声で「無理無理もう無理! やっぱ無理ー!」と、レオンは騒ぎ立てた。
犬耳を塞ぎ、無様にも地面に這いつくばる兄の姿を見て、リオンは堪えきれずに笑い出す。
フィトはそんな二人の様子を見て、おろおろしている。
「あっははははは! 兄さん、どうしちゃったの? まだ一言も話し始めてないじゃないかぁ~? 僕が言おうとしたのは、ハーデス様の機嫌が悪い時の顔があまりにも怖くて、書類を渡しに行けないってお城のすみっこの暗闇でぐずり泣いていたライラ姉さんの妹の話だよ?」
レオンは、腹を抱えて笑う弟をぽかんと見つめていた。
よほど物怖じしていたのか、目にはうっすらと涙が溜まっている。
そして、我に返る。そんな弟を見ていると、沸々と怒りが込み上げてきたのだ。
レオンの中で、ぷっつんと何かが切れた音がした。
「お前ッ……! よくも馬鹿にしてくれやがったな……!」
「だって! だってさぁ! 冥界の門番やってるのに幽霊が怖いとか、傑作だよ!」
「このクソガキ……! 奈落のタルタロスに落としてやるよ……!」
「出来るもんならやってみなよ! やーいやーいダサ兄ぃー!」
化け物の形相で怒る兄を横目に、リオンは腹を押さえて笑い続ける。
幽霊がダメな事がフィトにバレてしまい、レオンは心の底からリオンを恨んだ。
ただ、言えよ言えよと虚勢を張ったのは、紛れもなく自分自身なのだが。
レオンは完全に冷静さを失い、牙を剥き出しにしている。
フィトの前でカッコのつかない恥を晒されて、顔を真っ赤にしてワナワナと震えた。
「リオン! レオンいじめるのは、ダメだよっ」
収集のつかない兄弟を黒髪少女は静止する。
先ほどまで困惑していたが、少し冷静さを取り戻した様子。
しかし怒っても可愛いなんて、何という正義なのだろう。
頬を少し膨らませてむくれる小さなフィトは、本当に可愛らしい。
「レオン、オバケが怖くたって、大丈夫だよ? 誰にだって苦手なものはあるよ?」
優しく笑いかけられて、照れたようにレオンは目をそらす。
情けなくも、フィトの言葉に口元が緩んだ。
女の子にオバケ嫌いを励まされるなんて、少々複雑な気持ちだったが。
「……まぁ、冥界に来る人はみーんな、幽霊だけどねぇ?」
懲りない弟は、そんな雰囲気に水を差すように、笑顔で兄の肩に手を置いて言った。
それを聞いて返す言葉がなくなり、考えもしなかった事実にレオンは固まった。
それにはフィトも苦笑いをするしかなかった。
兄貴、もう門番やめちまえよ――。