第一話・声の呼ぶ方へ(2)
さらに歩いて行くと、グラシナに来る途中にあった分かれ道にぶつかる。
「こっち……?」
フィトが進んだのは、来た道とは違う方向。慣れない地形に戸惑いながら、フィトは歩いたことのない分かれ道へと進んで行く。
ふと、月に叢雲がかかり、辺りが一気に暗くなる。
さっきグラシナを出た時は、雲一つない星空が広がっていたのになぁ、とフィトは夜空を見上げる。
風が吹いているせいで、雲の流れが速くなっているようだ。谷風に押さえた、長いまっすぐな黒髪が指に絡む。
リリーの花が、灯りの役目をしてくれているおかげで、かろうじて進める程の明るさはある。
夜の闇に物怖じしてはいられない。歩くペースを緩めることなく、フィトは先へと向かう。
その時――。
暗闇の中に怪しく光る何かが見えた。不気味に光るその真紅の光は、だんだんこちらに近付いてくる。
なんだろう、と目を凝らして見てみるも、暗い上に岩陰が邪魔してよくわからない。
真紅の光を放つものと、距離が三メートル程に縮まったその時。
リリーの花と、雲から顔を出した月明かりに照らされて、それが姿を現す。
夜の漆黒に溶け込むような黒い毛並みに、真紅の瞳。四つ足で俊敏に動き、牙を剥く生き物。
その正体は、狼の群れだった。真紅に光っていたのは、狼の瞳だったのだ。
「グルルルル……!」
狼は鋭い牙の間から唾液を垂らして低く唸っている。
逃げようと後ろを振り向くも、フィトはすでに取り囲まれていた。台地の上にも、こちらを見下ろす狼の姿がある。
狼の群れは、ざっと見ただけでも八頭はいるだろう。じりじりと距離を詰めてくる。
「うそ……! どうしよう……!」
どこを見ても、逃げ道が見つからない。絶体絶命の恐怖に、フィトは身体をすくませた。
今更ながら、少女はレオンとリオンとの約束を破ったことを後悔した。こんな事になるなら、さっき素直に声をかければよかった、と。
目的地は、きっともう少しのはずなのに。
私、ここで死んじゃうの――?
もう、ふたりと会えないの? それに、お兄ちゃんにもまだ――。
ひと際肢体の大きなリーダー格の狼が、力強く遠吠えするのが聞こえてきた。
狼の遠吠えは、狩の前触れを意味する。狼たちは、完全にフィトを獲物として狩るつもりのようだ。
遠吠えが終わると、リーダー格の狼が吠え声で仲間に合図をする。そして、狙いを定めた狼たちが一斉にフィトに飛び掛かってきた。
フィトはぎゅっと目を閉じて、死を覚悟する。
――もう、ダメ……!
フィトがそう思った直後。
活路を完全に断たれ、助かることを諦めかけていた小さな少女は、異変に気付く。
「あれ……?」
たったさっき、狼は自分に飛び掛かってきたはず。
それなのに、身体に痛みが走ることもなく、スプラッタな展開にもなっていないのだ。
「どういうこと……?」
なにが起きたのだろう。飛び掛かってきたはずの狼が、フィトを襲うことをピタリと止めたのだ。
狼たちは、怯えたような様子でうろうろと辺りを彷徨っている。そして、あろうことか狼たちはその場に座り込んでしまったのだ。
「何が起きてるの……?」
死を覚悟していたフィトは、そっと周りを見渡す。
すると、フィトが歩いてきた方角から聞き慣れた声が響く。
「おいお前ら、待てだ、待て! そのまま動くんじゃねーぞ!」
「そうそう! お前たち、おすわり! だよっ!」
声の方向を振り返ると――。
月明かりに照らされた人影が、遠くにふたつ見えた。
リリー・オブ・ザ・バレーに吹く風に茶色いローブをなびかせ、その見覚えのある人影が走ってこっちに向かって来る。
「レオン……! リオン……!」
ふたりを見つけた途端、フィトの顔がふにゃっと崩れた。
「フィト、大丈夫!? 怪我はない?」
息を切らせながらフィトに駆け寄る兄弟。
リオンが心配そうにがばっと肩を掴み、尋ねてくる。
「……うん、大丈夫だよ。何ともないよ」
「そっか、よかった。もう、心配したよ! どうして……」
そう言いかけるリオンを、レオンがぐいっと強引に押しのける。
リオンは横暴な兄の行動に文句を言おうとしたが、レオンの表情を見て口をつぐんだ。
その様子を見て、いつものレオンじゃない、とフィトもすぐに悟った。
物凄く怒っているのだろう。拳を震えるほど握りしめているのが見て取れる。俯くレオンの顔は、月明かりが逆光になってよく見えない。
フィトの前で腰をかがめ、レオンはゆっくりと口を開く。
「この、バカっ!」
開口一番に出た言葉がこれだった。
突然、バカ! と怒鳴りつけられてフィトはびっくりして目を見開く。
「なんで一人で勝手に出てったんだよ! 俺たちになんの相談もなしで! こんな夜中に! 今は何事もなく助けられたからよかったものの、もう少し遅れてたら命落としてたかもしれねーんだぞ!?」
物凄い剣幕でフィトを叱るレオン。
弟のリオンも、喧嘩以外でこんな風に怒るレオンを見たのは久しぶりだった。
最後に、こんな風に兄さんが怒ったのはいつだったっけ、とふと考える。
「バカ! バカバカバカ! 大バカだ、フィトは!」
立て続けにバカを連呼するレオン。
その気迫に、フィトもリオンも思わず黙り込む。
「理由があってここまで来たんだろ? それはわかってるよ。だけど! どんな理由があるにせよ、死んでからじゃ遅いんだよ……!」
レオンは、ぎゅっと握った拳にさらに力を込める。
その拳から血が滲んで、ぽたぽたと地面に滴った。
「人間は、弱い生き物だ。俺たち怪物と違って傷の治癒力も低くて、魔法も使えない。一度だって致命傷を受けたらすぐに命を落としかねない。……長い年月、冥界の門番やってるからさ、わかるんだよ。死んだらもう、その魂は甦ることは出来ない。二度と生き返ることはない。魔法を使ったって、何したって、死んだら終わりなんだ! もう、話すことも笑うことも出来ない。泣いたり怒ったりも出来ない。フィトがそんな風になるのは……そんなのは、嫌だ!」
怒りに身体を震わせながら、レオンは声を絞り出して言う。
「……なぁ。頼むから、勝手にいなくなったりしないでくれ。俺たちの知らない所で命を危険に晒すような真似はしないでくれ。俺たちは……俺は、フィトがいなくなるなんて、絶対に嫌なんだよ……!」
話し終えると、レオンは力なく項垂れる。
そして「フィトが無事で、本当によかった……!」と、最後にこう言った。
「ご、ごめ……ごめんなさいぃ……! うわあああああん!」
レオンの魂の叫びともいえる言葉を聞いて、フィトは感極まってボロボロと泣き出した。
死に直面した怖さと、ふたりが来てくれた嬉しさと安心と。いろいろなものが溢れて止まらなかったのだろう。
レオンとリオンは、泣きじゃくるフィトを黙って見守る。少女が落ち着くまで、ただ、側にいてくれるのだった。




