第一話・獣兄弟とプルメリアの少女(1)✿挿絵✿
人間の過ちが地上を揺るがし、神・ゼウスの慈悲によって救われたという過去から百年後――。
人々は悲しみを抱えつつ、地上のあちこちに傷跡を残しながらも明るく暮らしていた。
***
地上の世界――アスタルジアとは、別の次元に存在する場所――冥界。
そこに、ケルベロスのレオンと、オルトロスのリオンの怪物兄弟はいた。
レオンが兄、リオンが弟。
しかし――。この怪物兄弟は恐ろしい獣のような姿をしているわけではなく、人の姿を成しているのだ。兄弟そろって、耳と尻尾をくっつけて――。
「あーあ。もう交代の時間なのに、どうしてライラ姉さんとラドは来ないのかなぁ!」
「リオン、お前ってほんとせっかちだなー。時間過ぎてるっつっても、まだ五分だろ?」
「兄さん、決まりは決まりだよ! ハーデス様に言いつけてお仕置きしてもらわないと!」
「まぁまぁ、もう少し待ってやろうぜ? 今度何か奢らせればいいだろ」
ため息交じりに言う弟をなだめるように、レオンはリオンの肩に手を置いて言う。
それを聞いた弟は「それは名案だねぇ! そうしよう!」と、にんまり頷いた――。
レオンとリオンの兄弟は、冥界の支配者・ハーデスの命により、冥界の門番を担っている。
地上で死者となった人間が冥界に行く為に門をくぐった後、決して後戻りすることの無いよう見張る事――それが、門番の仕事だ。
兄弟の外見年齢は、人間に例えると十八歳前後といったところだろうか。
身長は、高くも低くもなく平均的。年子なのかそれほど変わらないが、やや弟のリオンの方が高いと見える。
兄レオンは、ふさふさした栗茶色の髪に、射るような眼差しの朱色の瞳を持つ。頭部には髪色と同じ色の犬耳が、ローブの下からは深緑色の竜の尻尾が見えている。
弟リオンは、ふわふわした銀色がかった白髪に、穏やかな眼差しの山吹色の瞳をしている。兄のレオンと同様、頭部には犬耳が生えているが、白い髪色とは対照的な漆黒のたれ耳が特徴的。ローブの下からは白い蛇の姿形をした尻尾が見える。首からかけている懐中時計は、お気に入りの代物のようだ。
ふたりとも、デザインや配色が異なる白と黒を基調とした衣服を身に纏い、フード付きの茶色いローブを羽織っている。
どうやらこれが、怪物門番の一般的なスタイルらしい。
「奢ってもらうんなら、俺は蜂蜜タルトがいいなー」
「兄さんは本当に蜂蜜が好きだねぇ。僕は何にしようかなぁ……せっかく奢ってもらえるんだから、出来る限り高額で普段は食べられないようなものにしよーっと!」
「ははっ。お前、ほんと容赦ねーよなぁ」
「えぇー? だってせっかくだし、悪いのは遅れてくる方だし?」
兄弟はよほど腹が減っているのか、遅刻門番達に奢らせる食べ物の話をしていた。
ここぞとばかりに償いをさせようとする弟に対し、兄レオンは呆れ気味に「はぁ。我が弟ながら、いい性格してるよ……」と、苦笑いを浮かべた。
「……話変わるけどさ。お前、また背ぇ伸びたよな?」
「ああ~、そうかもね。最近また少し伸びたかなぁ?」
「いいよなー。俺ももっとデカくなりてーなぁ」
「いいじゃない、言うほど変わらないよ?」
「変わるっつーの! 弟より小さいなんて、兄の威厳に欠けるんだよっ!」
ぷんすかと地団太を踏むレオンは、よほど身長の事を気にしている様子。
そんな兄に、悪戯っぽく笑いながら「何言ってるの。兄さんの方が力も能力も上なんだから、僕が勝ってる事がひとつくらいあってもいいと思うけどねぇ?」と、リオンは言う。
そんなリオンの言葉に乗せられて「そ、そうかぁ? まぁ弟より強いのは、兄として当然だけどな!」と、得意げになるレオン。
しかし――。兄を立てるような事を言って油断させておきながら、この弟は裏でほくそ笑んでいた。
よからぬことを考えているこの弟は、わざとレオンを褒めて持ち上げたのだ。兄の事をハメるために――。
「……まぁ、弟に身長で負ける兄貴なんて超絶カッコ悪いし、僕は絶対なりたくないけどね! あはははは!」
ゲラゲラと腹を抱えて笑うリオン。話術巧みな弟は、こうして兄を弄んで遊ぶのだ。
まんまとリオンの思惑通りに乗せられたレオンは、開いた口が塞がらない。そんな生意気な弟を、レオンは朱色の瞳で射貫くように睨みつける。
「……おい。今日という今日は、絶対に許さねぇぞ……」
「ぷくくく……! だって事実じゃないかぁ! やーいダサ兄ぃー!」
怒りの炎が逆巻いて見える兄に対し、いいよいいよぉ~! と、リオンは心底楽しそうにあっかんべーをして火に油を注ぐ。
ふざけた態度を取る弟に対し、牙を剥き出しにして「ブッ殺す……!」と飛び掛かかった。
「はははっ! ダメ兄貴はすーぐ頭に血が上るんだからぁ!」
「ふざけやがって! 避けんじゃねーっての!」
「黙って殴られるバカがどこにいるんだよ、バーカ!」
「あぁ!? 生意気言ってんじゃねーぞっ!」
人間にとっては、幽々たる辛気くさい場所である冥界――。
そんな冥界で、子供っぽく取っ組み合いをする門番ふたり――。
能天気な犬耳兄弟は、しょっちゅう兄弟喧嘩を繰り広げては、懲りずに叱られているのである。
「……おっと。通行人が来たな」
レオンが指差す方向に、リオンは目をやる。
ふたりは取っ組み合いを一時中断し、何事もなかったかのように持ち場に立ち直る。
「あ、違うよ、兄さん。あの姿は……」
リオンが言葉を口にするよりも早く「レオン! リオン!」と、その人物から声が発せられた。薄暗い冥界に澄んだ明るい少女の声が響く――。
少し照れたような、嬉しそうな表情で「フィト、今日も来たんだね」と、弟のリオンが手を振った。
「……もう、またケンカしてたでしょう!」
「さ、さぁ?」
「何のことかなぁ~?」
白々しく誤魔化し、あさっての方を向く兄弟。
少しむくれた顔で「またしらばっくれるんだから~。仲が良いのはいいことだけど、怪我、しないでね?」と、少女は心配事を口にする。
「うぐ……」
「うう~、気を付けるよぉ……」
レオンとリオンは、可愛いフィトには頭が上がらないのだ。
ポリポリと頬をかいて、恥ずかし気にバツの悪そうな返事をした。
フィトは地上に住む、十六歳の女の子。
腰まであるまっすぐな長い黒髪に、くりっとした大きな碧色の瞳。一言で言えば、可愛らしいという言葉がぴったりな、年齢よりも幼く見える顔立ち。
背丈は小柄で華奢な体つき。瞳の色と同じ碧を基調とした、町娘のエプロンドレスには装飾品などはついておらず、素朴で優しい雰囲気が漂う。
「そんな事より! 今日はね、ふたりに見せたいものがあって来たんだよ!」
「見せたいものって?」
リオンは興味津々にフィトを見つめる。
フィトはくすくすと笑って「ほら、綺麗でしょう?」と、後ろに隠していた手を前に差し出す。
そこで、ふたりの目に映ったのは――、一輪のプルメリアの花だった。
「これはね、地上で咲いている花だよ。プルメリアっていうの!」
「へえ! とっても綺麗だね! それに、すっごく良いにおいがするなぁ~!」
くんくん、とリオンはプルメリアに鼻を近付けてうっとりする。
「実はね、今日は地上でお祭りをやっていてね。プルメリアは、お祭りの象徴なんだよ。神様の宿る神聖な花って言われているの! とっても綺麗に咲いていたから、ふたりに見てほしくて、持ってきちゃった!」
笑顔を見せる黒髪少女に、思わずレオンとリオンはきゅんとする。
嬉しそうに話すフィトを見て、兄弟は目を細めて笑みを浮かべた。
フィトは美しい碧の瞳を輝かせながら、楽しそうに語る。
「地上では、街にも海岸にもたくさんプルメリアが咲いててね、すっごく綺麗なんだぁ! このプルメリアは白と黄色だけど、もっといろんな色が咲くんだよ!」
「へえぇ~! それ、めっちゃ興味! いつか、地上に見に行く事ができたらいいなぁ~……」
フィトの語りを聞いて、リオンは夢見るようにそう言う。
冥界には花が咲かない。花どころか、草や木も生えない。いつでも薄暗いのは、地上と違って太陽の光が無いからなのである。
冥界の門をくぐると、どこまでも広い荒野が続き、しばらく進むと死者の渡る三途の川が流れている。その先に、冥界の城が建っているのだ。