プロローグ
「おばあちゃん! 洗い物、終わったよ!」
幼い少女はそう言うと、濡れた手をタオルで拭う。ちいさなその手は、凍えるように冷たい水にさらされていたせいで、冷えきって赤くなってしまっていた。
少女は冷えた手を擦り、長い黒髪をさらさらと揺らしながら、小さい歩幅で洗い物をする為に使用した踏み台を片付ける。
「ありがとう。寒い思いをさせて悪かったねぇ。さぁ、一緒に暖炉の前で暖まろう」
――とある昼下がり。
古めかしい木造家屋の民家では、一人の少女と老婆が冬籠りをしていた。
あたたかみのある橙色のランプが照らす室内には真っ赤な絨毯が敷かれ、暖炉の低い焔がゆらゆらと揺れ動いている。
こじんまりとしたその空間には、所せましとノスタルジックな骨董品や古書棚が置かれており、唯一のスペースである暖炉の前で老婆は毛布に包まっていた。
老婆のもとへ向かおうと少女が部屋の中を歩くだけで、古びた木造りの床は鳴くように軋む。
ちいさな少女が老婆の隣にちょこんと腰掛けると、老婆は自分の被っていたおおきな毛布をすっぽりと少女にもかけてやった。
「わぁ! あったかーい!」
「ふふふ、そうだねぇ。今日はアスタルジアで年に一度の冬の日だからね。私の腰も寒さで弱っているみたいだ。そのせいで、手伝いばかりさせてすまないねぇ」
「ううん、いいの。私がやりたくてやっているんだもん。おばあちゃん、こうしてくっついていると、もっとあったかいねっ!」
「うん、そうだね。フィト、ありがとう。お前は本当にいい子だねぇ」
フィトと呼ばれた少女は、老婆に褒められると嬉しそうに「えへへ」と笑う。
老婆は冷えきった少女の手をあたためようと、しわ深い手で優しくこすりながら、ある物語を話し始める。それは、遠い昔から伝わる、アスタルジアの昔話だ。
「フィトや。今日はお前にひとつ、昔話を聞かせてあげよう」
「昔話……?」
「ああ、そうさ。興味は湧きそうかい?」
「うんっ! 私、おばあちゃんのしてくれるお話し大好き! 今日もお話し、聞かせて!」
フィトがそう言うと、老婆は嬉しそうにくしゃくしゃの笑顔を浮かべた。
そして何かを思い出すように、ゆっくりと語り始める。
――――その昔。
一度死した者を再び甦えらせる事が出来るという、夢のような魔法が生み出された。
その魔法は人間に大きな希望と幸福を与えたが、後に蘇った人々がモンスターに豹変してしまうという悲劇に変わる。
元々は人間だったはずのモンスターは自我を失い、人間を襲った。
かつては愛しい人の形をしていたことを悲しみ、嘆きながら、人々はこれ以上の犠牲と死者を出さない事を願い、モンスターが土に還るよう神に祈った。
それを哀れに思った天空の支配者である神々の王・ゼウス。
ゼウスの慈悲により、人間たちの祈りは聞き届けられる。すると、ゼウスと地上に住む精霊たちの力によって、モンスターは人間が暮らす地上から消え去った。
そして、地上に平和が訪れた――――。
「――というのが、この世界・アスタルジアに伝わる、神話と呼ばれる昔話なんだよ。フィトにはまだ少し、難しかったかい?」
「ん~! つまり~つまりは、人間が悪い事をしたのに、神様と精霊様が助けてくれたってことでしょう……?」
「ああ、その通りだよ。いつも教会にお祈りに行くだろう? それはね、神様と精霊様に感謝の気持ちを捧げる為なんだよ。……いつも感謝の気持ちを忘れずにいたら、神様と精霊様が皆を必ず護ってくれるからね」
老婆がそう話していると――。ぬくもりで心地よくなってしまったのか、いつの間にか少女は毛布の中で微睡んでいた。
老婆は、そんなフィトの頭をそっと撫でてやる。
「……まほう、ぽぽぽぽって……んふふ~……」
むにゃむにゃと話す少女は、一体どんな夢を見ているのだろう。
魔法で悲劇が起こったというのに、夢に見るほど魔法という言葉に強い憧れを抱いたのは、子供心だろうか。
老婆は穏やかな眼差しで、そんな愛らしい小さな少女の寝姿を見守るのであった。