第四話・紺碧の集落(4)
下の部屋では床にシチューの鍋が転がっており、無残にも中身がぶちまけられていた。
部屋の中に怒鳴り声が飛び交う。
「勝手な事をするんじゃないよ! こんなに材料を使って……! まったく、私たちがいない間に一人で豪華なものを作って食べようだなんて、卑しい子だね!」
フィトの叔母と思しき人物が、物凄い剣幕で怒り狂っている。
弁明をしようと、少女は懸命に掛け合った。
「ご、ごめんなさい……。今日、お祭りが中止になるって話を街で聞いたから、もしかしたら、叔母さんたち、帰ってくるかなと思って……」
「祭り……? お前、また勝手に街に行ったのかい!? 勝手に街に行くなとあれほど言いつけていただろう!? これだから困るんだ! 部屋の掃除もさぼったんじゃないのかい!?」
「いえ……! お掃除はちゃんとやりました!」
フィトは掃除をきちんと行っていた。
冥界に行く前、掃除や洗濯を終わらせてから家を出たのだ。
フィトはそれを信じてほしくて、ぶんぶんと頭を横に振った。
「嘘をつくんじゃないよ! 家事のひとつもまともにやらないで遊び惚けていたんだろう!? 毎日欠かさずやれって言ってるのに! ほら、ここなんか埃があるじゃないか!」
「え、あの……ごめんなさい……。でも、そこは、叔母さんが触るなって言った植木蜂で……」
「この期に及んで言い訳かい!? 嫌だよ、信じられないねぇ! 私たちが帰って来ないことが分かっていると、好き放題かい! なんて子だよ!」
叔母はギリッと歯を鳴らし、目を吊り上げた。
そのまま鬼の形相でフィトの目の前に立ち、右手を振り上げる。
その瞬間、ぱんっ! と乾いた音が部屋に響き渡った。
叔母がフィトの左頬に平手打ちをかましたのだ。
殴られた左頬が熱を持ち、ジンジンと痛む。
透き通るような白い肌が、晴れて赤くなっている。
フィトは痛む左頬を擦りながら、黙ったまま俯いた。
フィトの叔母は、そのままキッチンにずかずかと入っていく。
そして、カウンターに置かれた焼き上がったばかりの蜂蜜パイに手を伸ばす。
「こんなもの!」と、せっかくのパイも床に放り投げた。
フィトはその様子を、ただただ見つめている。
酷い仕打ちに対して何も言わず、唇を固く結んでうつむき続ける。
そんな中。叔父がそんな叔母の行き過ぎた行動を見かねて、口を開く。
「……お前、もうやめなさい」
叔母は叔父の言葉を聞くと、ふん! と鼻を鳴らした。
そして「片付けておきなよ」とフィトに冷たく言い放つ。
叔父はそんなフィトに対して声をかける事もなく、叔母と共に自室へ行ってしまった。
一人取り残されたフィトは、床に投げられた料理を片付ける。
美しい碧色の瞳は輝きを失くし、無表情のまま手を動かす。
しかし、きゅっと結んだ唇が、表に出さないようにと懸命に抑え込んだ感情を物語っていた。
こうして堪えているのは、いつまたこの部屋に叔母と叔父が戻ってくるかわからないからだ。
それに、屋根裏部屋ではレオンとリオンが自分を待ってくれている。
料理が食べられなくなってしまったことは、何か理由をつけて謝ろう、と思った。
そして、いい加減ふたりを冥界に送らなければ。
片付けを終えたフィトは、自室に行った叔母と叔父の様子をそっと伺う。
二人がこちらに戻って来ないのを確認すると、急いでキッチンに戻る。
フィトは叔母と叔父の目を盗み、静かにオーブンを開けた。
オーブンの中から、こっそり取っておいた蜂蜜パイが顔をのぞかせる。
本当は、レオンとリオンが冥界に帰るときに、お土産として渡そうと思っていた分だった。
叔母はさすがに、オーブンの中に料理が残っていることに気付かなかったようだ。
「これだけでも、残せてよかった……」
パイを手早く皿に乗せ、フィトはレオンとリオンが待っている自室へと急ぐ。
これをふたりにご馳走したら、ドアを開けよう。
そう、フィトは思った。寂しさをぐっと堪えて。
***
下の部屋から聞こえる話に、聞き耳を立てていたレオンとリオン。
耳の良いふたりには、フィトたちの会話が全て聞き取れていた。
フィトのことを心底心配する兄弟は、少女が戻って来るのを今か今かと待ち詫びていた。
その時、階段の下からトントントン……と音が聞こえてきた。
ふたりは耳をピクピクさせ、階段の下をのぞき込む。
薄暗い階段を登ってきたフィトは「よいしょ」と、屋根裏部屋に辿り着く。
「……ふたりとも、お待たせ!」
ひそひそ声でフィトは言う。
兄弟の心配を裏切るかのように、そこには花のようなフィトの笑顔があった。
小声で話す少女に合わせ、リオンも小さな声で言葉を返す。
「フィト、大丈夫? 大きな音が聞こえたりしたけど……」
「大丈夫だよ! 心配かけてごめんね! あ、これね、蜂蜜パイ!」
そう言って、フィトは皿にのった蜂蜜パイをふたりに差し出す。
香ばしくて甘い匂いに兄弟の鼻はすでに反応していたが、それよりも今はフィトのことが気になって仕方がなかった。
そんなふたりの心配を取り除こうと、フィトは笑顔で話し続ける。
「……叔母さんと叔父さんがシチューとパイを食べちゃったから、これだけしか残らなかったんだぁ。ごめんね、レオンとリオンのために作ったのに。これじゃぁ、お腹一杯にならないよねぇ」
明るすぎるほどの口調に、わざとらしさが滲んでいた。
フィトは、かなり無理をしている。なぜ、こんな時でも笑っていられるのだろう?
その笑顔の下に、どれほどの悲しみや苦しみを隠しているのだろう?
いままでだって、ずっとこの家で暮らしてきたはずだ。
こんな仕打ちを何年も受けてきたのだろうか。
レオンとリオンの中に、フィトの叔母と叔父に対する怒りの感情が渦巻く。
兄弟の前で、フィトの口から家族の話が出ることはなかった。
フィトの置かれている状況が気がかりだったが、ずっと聞かずにその言葉を飲み込んできた。
大切なフィトの事を、気付けまいと思うがゆえに。
いまでも、その話を避けるべきなのか?
レオンとリオンは思い悩む。
一部始終を聞いてしまっていたふたりは、懸命に辛さを隠そうとするフィトを見ていられなかった。
これまでフィトがいつも笑っていられることを、笑顔でいてくれることを、ずっとずっと願ってきた。
ただ、それは何も干渉することが出来なくて、自分たちが無力だったからだ。
フィトの本当の辛さを知ったいま、見て見ぬフリなんて出来るはずがない。
フィトの事を救ってやりたい。心から笑っていてほしい。
兄弟は、ぎゅっと拳を握りしめていた。
そして、悩んだ末。最初に口を開いたのは、兄のレオンだった。
「フィト、ありがとな。俺、実は蜂蜜が大好物なんだ。だから、すっげー嬉しい!」
レオンはそう言って蜂蜜パイを手に取り、美味しそうに頬張った。
「ああっ! 兄さん、ずるいよ! 僕も食べる! フィト、いただきます!」
突然の兄の行動に、リオンも負けじとパイを口に運ぶ。
腹が減っていたふたりは「うまい!」「おいしい!」と言いながら夢中になってパイを食べた。
フィトはニコニコしながらそんなふたりの様子を見つめている。
食べ終えると、レオンとリオンはとても満足そうな顔をしてフィトにお礼を言った。
「おいしかったよ、ありがとう」と。
「ううん。これだけしか持ってこれなくて、ごめんね。また作る機会があったらいいんだけどな……。そろそろ、冥界に帰らないとだよね」
自分の作ったものを美味しいと言ってもらえて嬉しい反面、ふたりと離れなければならないことが酷く寂しかった。
かなり長い時間、ふたりを引き留めてしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいになるフィト。
そんなフィトに、レオンとリオンは言葉をかける。
「……フィト、本当に辛いときは、辛いって言っていいんだぞ。一日一緒にいただけじゃ、地上に住んでいるフィトの事をわかってやれないし、何も出来ないかもしれないけどさ。話しくらい、いくらでも聞いてやるから」
「そうだよ。フィトが辛かったり悲しかったりするのは、僕も辛くて悲しい。だから、一人で抱え込まないでね」
ふたりの言葉が、フィトの傷付いた心に染みわたっていく。
とても、嬉しかった。
そっか……ふたりにはバレバレなんだな、と懸命に隠していたことが恥ずかしくなった。
フィトは考える。
耳の良いふたりのことだから、先ほど下の部屋であった出来事を全部わかっているのだろう。
全部聞いていて、知っていても、核心的なことは言わずに気遣ってくれている。
その気持ちが、あたたかくて、くすぐったくて。
このふたりになら、打ち明けてもいいのだろうか……?
フィトは何かを話そうとして、迷っていた。
ただ、時間がないふたりのことを思い、その思いもぐっと抑え込んでしまう。
しかし、ふたりの優しさに、フィトの心は少し解けたようだった。
「……レオン、リオン、ありがとう。そしたら、また今度会えた時に、お話聞いてくれる?」
絞るように出した声。
フィトの、心の声だった。
それを聞いて、ふたりは笑顔を浮かべると「もちろん!」と、嬉しそうに答えた。
三人は、声を抑えながら笑い合った。
***
「……それじゃあ、ふたりとも、ドアを開けるよ」
フィトは、屋根裏部屋にひとつだけあるドアに手をかける。
「フィト、今日はありがとう! とっても楽しかったよ!」
「ああ、本当に楽しかった! ありがとな! また近いうちに、冥界に遊びに来るといい」
レオンとリオンは笑顔でフィトの顔を見つめる。
「ありがとう、私もすごく楽しかった! またすぐに、会いに行くね!」
フィトもふたりを見て、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、いくよ……」
そう言って、フィトがドアノブを回す。
ギイィ……と鈍い音を立て、ドアが開かれた。




