玉ちるばかりものな思ひそ(卅と一夜の短篇第16回)
疾うに日は沈んだ。闇が辺りを包む時間になっても蒸し暑い。水辺の近さが涼しさよりも、湿気を呼んでくる。緋袴に生絹の単と夏の寛いだ衣装で汗を見せぬようにしていても、衣は重たくまとわりついてくる。
女は眠れぬまま、脇息にもたれて御簾ごしに外を眺めていた。
――確かにわたしはあの人と夫婦になったのには打算があったけれど、それはお互い様だった。
女は、権勢家の娘である天皇妃に側近く仕える女房。
男は、同じく権勢家になびく国司で武力を誇る剛の者。
好いたのどうのというような青い年頃ではなかった。一通りの色事や人生の辛酸を知った、人生の夏から秋に向かおうとする同士、安定した生活や、一緒になれば権勢家に対して受けが良いかも知れないと考えが浮かばなかったとしたら嘘になる。
――それなのに……。
男がみずからから離れてしまって、こんなにも切ない想いをして、貴船の社を訪おうとは、若い頃の自分だったら有り得なかった。戯れに紛れて忘れようとしていたかも知れなかった。
最早勢いに任せるような若さもなく、かといって髪を下ろすような覚悟も信心も薄い。ひたすら男を想い、夜離れを嘆いている。
ふっと、小さな光が現れ、消える。
――蛍……。
女は歌を口にした。
「物思へば澤の螢もわが身よりあくがれ出ヅる玉かとぞみる」
――わたしを見限った男を想い過していると、飛び交う沢の蛍が我が身から抜け出た魂かと見えてくる。
すると、忘れたことのない男の声が囁くように聞こえてきた。
「奥山にたぎりて落ツる瀧つ瀨の玉ちるばかりものな思ひそ」
――この人里離れた山奥で、激しく落ちる滝の瀬に砕け落ちる水のように魂を砕け散らすほど物思いに沈んではいけない。
――今の声は……、いや有り得ない。しかし、貴船の明神のお声なのだろうか……。
蛍は光を点滅させながらなおも舞う。
――そうね。恋心に魂を彷徨わせていていいことはないわ。でも、この苦しさはどう報われるでしょう。
女は声に出さずに、問うてみたが、答えはない。答えはみずからが出すしかないのだろう。長い髪が首に背に、重苦しい。
脇息にもたれたまま、眠ったらしい。気が付くと、夜が明け、朝の支度をと側仕えの者が声を掛けてきた。
そこへまた違う側仕えの少年が駆け込んで来た。
「大変です、丹後守様がいらっしゃいました」
身繕いをするいとまもなく、見慣れた男が女の許へと足早に歩み寄ってきた。
「迎えに来た。
左大臣殿から浮かれ女と呼ばれた程の女が、俺からの訪いが減ったを苦にしてお籠もりとは小娘のようだ。
気の利いた歌や掛け合いは苦手だ。さあ、顔を見せてくれ、式部よ。
そなたはいつ見てもいい女だ。さあ、ともに行こう」
背の高い、無骨そうだが、情のある男が女の手を取った。
「やすまさ……、あなたもまるで無茶をする若者のようですよ」
「それで似合いであろう」
男は笑うと女を軽々と抱き上げた。この男はこむつかしいことを一切言わず、行動で示す。情趣も何もないが、今はただこの胸に抱かれているのが嬉しいのだと、女は感じた。今はそれで充分。蛍のようにふっと光っては消えてしまうかも知れないうたかたでも、ここにあるぬくもりは本物だ。
今は昔の、貴船神社でのある夫婦の姿であった。
後拾遺和歌集第二十
雑 六
神祇より
男に忘れられて侍りける頃、貴布禰にまゐりてみたらし河に螢のとび侍りけるをみてよめる
和泉式部
物思へば澤の螢もわが身よりあくがれ出ヅる玉かとぞみる
御返し
奥山にたぎりて落ツる瀧つ瀨の玉ちるばかりものな思ひそ
この哥は貴布禰の明神の御返しなり。男の聲にて和泉式部が耳に聞えけるとなんいひ傳へたる
引用は『後拾遺和歌集』(岩波文庫 西下経一校訂)より