後編
そして、その夜。
レオンはニーナを伴って、あの黒き竜に姿を変えると、人の姿のニーナとクルトを背に乗せて、一気に空間を飛び越えた。
この男のこの能力だけは、いつも目を瞠らされる。
多忙な王であるこの男にとって、この能力をもつに至ったことはまさに僥倖といっていいだろう。なにしろ、それでどれほどの移動時間が短縮できるか、はかり知れないからである。
考えてみれば、あのミカエラが女の身で各国を飛び回り、あれほどの陰謀を巡らせることができたのも、ひとえにこの能力があってこそなのだろう。
ともあれ、三人はそのまま、王宮のバルコニーから一気に竜国大陸の上空へと移動して、しばらく星空の中を飛び続けた。
ニーナは黒光りする精悍な竜の背の上で少しクルトの体を支えるようにしながら、ずっと困ったように顔を赤らめていた。
○●○
黒竜であるレオンは、南方の国、土竜国をも飛び越えて大洋の上空をゆき過ぎると、やがて海原にうかぶとある島へと下降していった。月明かりに照らされた夜の雲が、頬のすぐわきをどんどん飛びすぎるのを、クルトは不思議な面持ちで眺めていた。
北方の国である風竜国では、冬から春に移り変わるまだ寒い季節ではあるけれども、南方ではすでに夏の花々が咲き始めるころだった。
風竜国では夜だったけれども、その島ではちょうどいま、太陽が西へ没しようとしている時間帯のようだった。
温かな南国の風が、夕刻の海辺を照らしている。
山育ちのクルトは、海なんて本当に、この二人と出会うまでは見たこともなかったのだけれども、静かに打ち寄せるさざなみの音は、不思議と心になつかしい何かをかきたてるような思いがするのだった。
クルトは、ニーナと人の姿に戻ったレオンを浜辺に残してすこし離れ、波打ち際にたつ不思議な形をした木の根元に立ってそちらを見ていた。枝らしいものはなにもなく、太くてつるつるした幹があるだけで、てっぺんにやたら広くて固そうな葉っぱがばさばさと伸びている、へんてこな木だった。
花の香りなのか、どこかから果実のような、甘い香りが漂ってきている。
レオンとニーナは、しばらく黙って、水平線に没しようとする燃えるような夕日を見ていた。
しかしやがて、レオンはじっとニーナを見つめてから、また苦笑したようだった。
「申し訳ありませんでした、姫で……、いえ」
と、思わずまたそう言いかけて、一度口をつぐむ。
「……クルトから聞きました。お寂しい思いをおさせしたようで、まことに申し訳ございません」
ニーナは黙って、そんなレオンを見返していた。
その碧い碧い瞳が、夕日の色で、いまは橙色に燃え上がっているようにも見えた。
ニーナは困ったように項垂れた。
「……いえ。ごめんなさい。わたくしのわがままなのです。……わかっているの」
そう言うと、ニーナは片手を差し出した。
レオンがその手を取って握り、やがて指を絡ませて握り合わせる。
「でも……」
ニーナがうつむいて、小さな声で言ったのが聞こえた。
二人とも、クルトには背を向けて海を見ているのだが、彼女がひどく頬を赤らめているに違いないことはクルトにもよく分かっていた。
「わ、わたくしは、もう……あなたの妻なのですから。もっと、その……えらそうにしてくださって構わないのです。……いえ、どうか、そうなさって……?」
「……いえ、その。『えらそうに』と申されましても――」
レオンもこちらからは背中しか見えないが、きっと困った顔になっているのに違いなかった。
クルトはなんだかもう、さっきから臍のあたりがもぞもぞしている。本当に、こうして端からでさえ見ていられないような二人だ。
これでいい大人だというんだから、やっていられない。
もう亡くなってしまったけれど、仲のいい夫婦だった自分の両親のことだって、睦まじくしているところをこんなふうにこっ恥ずかしい思いで見たことはなかった。
が、とうとうしまいに、ぐしゃぐしゃっと頭をかき回して、クルトは二人の方へ駆け戻った。
「あーっ! もう! じれったいなもう――!!」
そうしてがつんと、軍装を着た姿のレオンの脇腹あたりに拳を当ててどやしつけた。
「いい加減にしろ、ほんと! あんた王様になったんだろ! えらっそーにしてりゃあいいじゃんか。王様っつったら、お妃様よりも上じゃんか! ニーナさんがそうしていいって言ってんだから、素直にそうしてりゃあいいっつうの――!」
レオンが片眉をあげて変な顔になり、少し睨むようにしてクルトを見下ろした。
しかし、レオンが何か言うより先に、ニーナがその機先を制した。
「そうですわ、陛下。一国の王となられた御方が、いつまでも妃ごときにそんな態度でいらっしゃっては、下々への示しもつかないというものでございましょう」
そんなふうには言いながら、やっぱりニーナは頬を染めて、恥ずかしそうに小さく咳払いをした。
「思い出してくださいませ。わたくしの父、ミロスラフと、母、ブリュンヒルデのこと。お二人がどんなご夫婦であられたか、あなたもご覧になっていたではありませんか?」
そう言われて、レオンも目を上げ、ニーナを見つめ返した。
「ミロスラフ陛下と、妃殿下ですか――」
そしてついと、水平線に没しようとする夕日のほうへと目をやった。
「……素晴らしいご夫婦であられましたね。まことに――」
ニーナは黙って、少しだけ微笑んだ。
彼女の父、水竜王ミロスラフはまだ健在だ。
しかし、その母、王妃ブリュンヒルデはすでに、「竜の袂」へとその身を移された御方だった。
「……恐れ入りますわ、陛下」
そうしてレオンの手を握ったまま、ニーナは彼と同じようにして、静かに夕日を見つめた。
「でも……。あのような王と王妃になりたいと願うのは、高望みなのでしょうか……? あなた様とそんな風になりたいと、そう望んではいけないのでしょうか。陛下……」
「…………」
レオンは黙って、しばらくニーナを見つめていた。
が、やがて静かに首を横にふった。
その片手がついと上がって、無意識に己が妃を抱き寄せようとしたようだったが、ふとすぐ下にいる小さな少年のことを思い出したかのように、その手は元の場所に戻った。
「努力したいと思いま……いえ、思う。しかしどうか、自分に少しばかり時間をいただけ……くれないか。……アルベルティーナ」
その瞬間、ぱあっとニーナの顔がほころんだ。
「ええ。もちろんにございますわ、陛下。……でも」
そう言って、ニーナはちょっといたずらっぽい光を目に浮かべた。
「できましたらご自身のことも、『俺』とか、『私』とかおっしゃっていただけたら、なお素敵」
「…………」
「そうね。どちらかと言えば『俺』かしら。だって、ほかの皆様にそうおっしゃるときの陛下は、とっても素敵なんですもの」
にこにこ微笑むニーナの顔は、少女のそれのように華やいでいる。
どうやらこの人、ずっと長い間、彼からそんなふうに話しかけられることを密かに夢に見てきたということのようだった。
レオンはさらに変な顔になったが、ひとつ吐息をついてまた頷いた。
「……は。努力します」
(……よし!)
クルトもにかっと笑うと、さも今思いついたかのように、ぱんと手を叩いた。
「さって! じゃあ俺、ちょ〜っと、あっちの方とか、見に行ってくるな! こんな珍しいとこ来たの、はじめてだし!」
「え、クルトさん……」
ニーナが驚いた目で見下ろしてくる。
不安げになったニーナの目線を受けて、レオンはしかし、安心させるように頷いた。
「一応、危険な動物などはいないはずだが。何かあったらすぐに呼べ。……あまり遠くに行くなよ」
「分かってるよ。そんじゃまあ、ごゆっくり〜」
「ご、ごゆっくりって、あの、クルトさん……?」
ニーナがどんどん、その頬の赤味をあげてゆく。
クルトはもう、そこから先の二人のことは見なかった。
ぱっと駆け出し、島の奥手のほうへと向かう。
(もう、ほんっと、世話がやけるぜ……!)
砂地に生えたあまり見慣れない植層の繁みのなかへと走りこんで行きながら、クルトはちょっとにやついていた。
『風竜国としちゃ、一日も早く跡継ぎの王子殿下が欲しいとこだかんな。それも、できれば何人もな。んだからあんま、まわりちょろちょろしてお二人の邪魔すんじゃねえぞ』
そんなことを嘯いたのは、あの巨躯をした男だったか。
(わかってんだよ、そんなこと――)
北の「竜の星」は、この島からは随分と低い位置に見える。
クルトはそれを見上げながらにこにこ笑って、跳びはねるように森の中へと駆け込んで行ったのだった。
○●○
後日。
クルトは再び、ニーナの居室に呼ばれた。
「え? ど、どしたの……? ニーナさん」
自室の長椅子で、そこに置かれたクッションをぽかぽか殴りつけながらちょっと涙目になっているニーナを見て、クルトは一瞬、緊張した。
しかし。
「だめ……! クルトさん、だめ……!!」
顔をまた真っ赤にし、声を震わせたニーナは決して、悲しんだり苦しんだりしているのではなかった。
いや、ある意味、とても「苦しんで」いたかもしれないけれども。
○
「あーもー、やってらんねええ!」
そう叫んで、王都の居酒屋でやけ食いに走っているクルトの前で、巨躯の男が苦笑している。
男はあのミカエラと共に国をしばらく離れていたが、こうして時折りは風竜国へ舞い戻ってきて、レオンから給金を貰うとまた旅立つ、ということを繰り返しているのだ。
「おーお、そりゃ大変だ。『新婚サン』は甘酸っぱいねえ。まっ、俺ぁ勘弁して欲しいけどよ」
くはは、と笑いながら麦酒のカップをあおる男は、それはそれでどことなく幸せそうに見えるのが不思議だった。
男はなんにも言いはしないが、どうやらあのミカエラとどうにかなったのだということは、クルトにも何となく分かっていた。
「『可愛くてかっこいいの、どうしましょう』って、知らねえよっ……!」
どかーんと、クルトが爆発する。
男の奢りなのをいいことに、頼みまくった色んな料理をどんどん食い散らかしてゆきながらくだを巻く。いや、「さすがに酒は早えだろ」という男の言によって、それだけは阻止されてしまったけれども。
そうなのだ。
あれ以降、確かにレオンは努力してくれているらしい。
つまり、なるべく「王らしく」、ニーナを妃として扱おうと。
曰く、
「ひめ……アルベルティーナ。今朝もごきげん麗し……いや、息災でなによりだ」
「本日は、自ぶ……俺は、西方の検分に出かける予定なのです……いや、なのだ」
「あな……そなたに少し、相談させて頂き……いや、したいことがあるのだが。いいだろうか――」
いちいち、話が長くなってしょうがない。
そして、きわめつけが。
「お慕い……い、いや――」
周囲に居る召し使いだの、他の臣下だのといったみなみなは、一人だけ涙ぐんで喜んでいるアネルはともかくとして、なにやら一様に唖然として、変な顔になっているらしい。
もちろんレオンは、臣下たちに対しては堂々とした物言いと態度のままだ。
それがいきなり、新妻で正妃たるアルベルティーナ妃殿下を前にした途端、上のような訥々とした話し方に変貌してときどき咳払いなどしてみたり、口許を片手で覆って考え込んでしまったりと、あからさまに態度がおかしくなるのだという。
要は、落差が激しすぎるのだ。
店の女に麦酒のおかわりを注文しながら、巨躯の男がまたくはは、と笑った。
「それ、『かっこいい』かあ? いや、親しみはめちゃくちゃ湧くかもしんねえけどよ。姫サンも、よくわかんねえな――」
「だろ? ほんっと、やってらんねえ――」
「ま、いい傾向じゃね? あの野郎はなにしろ、肩に力が入りすぎだかんな。そのっくらいがまあ、丁度いいわ」
がくりと落としたクルトの肩を、でかい手のひらがばしばし叩いた。
「まっ、そっちはおめえに任せるからよ。っつうか、おめえにしかできねえだろ。『竜の新婚夫婦』のお守り役、せいぜい頑張んな。下級兵どの?」
「うああ。さいっあく……」
片手に揚げ鶏の足をにぎったまま、卓の上にごん、と額をぶつけて、クルトは長い長い吐息をついた。
2017.3.25.Sat.~2017.3.26.Sun.
(執筆期間:2017.3.21.~2017.3.23.)
なんだか、「かっこ可愛い」って言葉があったなあ、なんて思い出しました(笑)。