ルーツ 最終回
「田庭さんは他にもあるよ」と私が匹見町を訪れた際に聞いた事がある。匹見町にもあり、益田市(旧益田市地域)にはもう少し多くあるらしい。山口県にもある筈だ、と聞いた。
『田庭』は特殊な名前でもなんでもない。少なくとも島根県西部、山口県辺りでは。その由来については不明だが、近畿中北部の様な古代の丹波地方を田庭と呼んだというそういった類の謂れについては聞かれなかった(調査もしていないが)。
地域の繋がりは道によって成る。都を中心として西へは山陽道、日本海側なら山陰道。地域の繋がりは人の繋がりの事だと思うが、確実に京丹後市も山陰を通って山口県下関、そしてその先の九州に繋がる。
山陰道の両端それぞれに近い場所にある『田庭』と『田庭』に何か繋がりがあるのではないか? あって欲しいという願望が私の中に数十年在り続けている。何も無い可能性の方が圧倒的に高いと予測してはいるのだが、どうも拭えない。願望が妄想となって、今ここで書いているような事を考え続けている。
今はどうか知らないが、『家系図を作る』というのが流行るとまではいかないが世間で話題になった事があった様に思う。我が家の、自分のルーツを知りたいというのは誰しも思う事だろう。何処から来たのか? いつから○○姓を名乗ったのか? 血の繋がりは何処まで広がっているのか? こういった事を知りたくなる気持ちは生きれば生きるほど強まっていくものらしい。
私の場合は興味を持ったのが幼い頃で調べる方法も知らなかったし、いつしか勝手に想像して物語を作るという妙な方向へ行ってしまった。周りに手掛かりらしく思えるものが何も無かったならきっとこの様な妄想は生まれなかっただろう。しかしながら私の周りにはあった。今思えば多分何でもない、京都の酒呑童子の物語を遠く離れた父の実家のある山陰の秘境匹見町で観たり、祖母の実家である尼子氏の源流と京の都、そして最も面白い妄想となった、島根県匹見町とその周辺の姓『田庭』と丹波地方の古代の呼び名『田庭』。『田庭』について簡単にまとめると、古代丹波地方は田庭と呼ばれたが現在田庭姓は殆ど無いと思われる。一方、中国地方には田庭姓がある。丹波の『田庭』は古事記に出てくるような古代の呼び名であるから最初に現れたのはこの丹波。中国地方の田庭姓が何か関連性を持つとすれば現在は見当たらない丹波の田庭氏が西方へ移動して――という、これが私の楽しい仮説である。
「うちは最初から中国地方の人間だ! 丹波なんていう所から来た流れ者じゃない!」
と、憤慨される田庭家の方が居られるかも知れないが、どうかご容赦願いたい。そう思いたい気持ちは非常によく分かる。だが、私はそれでもこの仮説を捨て去る事が出来ない。なぜならば私のこの物語には続きがあるのだ。
遥か古代、田庭の里で生まれて後、西に移った田庭氏。長い年月を経てその『田庭』の一人が再び東へと戻った。かつての『田庭の里』へ。しかしそこに田庭氏を名乗る者は既に無く、伝承が僅かに残っているだけであった――。
妄想なのだからもう少し楽しい結末の方が良さそうなものだが、この最後の部分だけは少しばかり事実が含まれている。それが幼い私を妄想に駆り立てる理由だ。
田庭の里に偶然やってきた『田庭』。私の妄想仮説でいうならば、山陰の秘境の町から田庭姓の途絶えた田庭の里へ遥か時を越えて東還を果たした田庭氏の一人、それは私の父である。
くどいようですが、この文章は私個人が子供の頃何となく考えてきた妄想であり、その内容を調査、吟味したものではありません。