銀世界に閉じ込められた天使
「あなたはこの場所をどう思う?」
世界を覆ってしまいそうなほどの、まっ白な日差しが降り注いでいた。
「どうって?」
私は一歩踏み出した。低反発クッションみたいに、ほんの少し足裏が沈んだ。
「いっつも同じような景色で、つまらないと思ったことはない?」
彼女はくるりくるりと廻り始めた。ワンピースもタイツも、羽織物も全て白い。綿毛が舞っているような雪降る様子。水中を漂う海月の如き軽快なステップ。それらがまるで、見ているこちらを幻想世界へ招いているようだった。
一面の銀世界に彼女。金髪の天使が雲上の世界へと、自分を誘っているような錯覚を見ているようでもあった。
「ここは季節がずっと停まったままなのよ。」
*
遠くで車のクラクションが鳴り響いた。辺りは働きアリのように人が溢れかえっていて、ちょっと見渡せばビルの立方体とその中に何百個とはめ込まれた、これも四角形の窓ガラス。どれだけ天に近づけば気がすむのかと思いたくなるほどの、馬鹿でかい高層ビルが林立している。人種も地位もあべこべの人間たちがごっちゃになって、あちらこちらを行き交っている。耳に入ってくる多様な言語、ガソリンや食品、香水の臭い、視界に広がる渾沌とした風景、全ての現象が自然と私の頬を引きつらせ、眉を寄せざるを得なかった。
肩からずれかけたヴィトンのバッグをもう一度抱え直そうとしたところ、ふと振動を感じた。ハッとして取り出したスマホは着信画面、それも三分ほど前からずっと鳴りっぱなしだったようだ。すかさず通話を押す。
「大変お待たせしてすみませんでした。こちら時枝です。」
心中相当焦っているが、ここで感情を顕わにするのはあまり得策ではない。電話主は教授なので、ここで口調がぎこちなくなることは信用の低下に繋がり兼ねない。
「ニューヨークには辿りついているのですが…、え?」
NY某高層ビル56階の一室。
「失礼いたします。」
僅かな金属音を出して自動扉がスライドする。そこは前方にスクリーンが降りていて、長机が四角形に並べられた、所謂会議室の様相を呈していた。しかし、スクリーンには何も映っておらず、天井の照明が全て点灯したままだった。集合している一同の様子からも不穏な空気が流れていた。
そこに、一人長机に囲まれた中心で佇んでいた、白髪の欧米人と思われる老人男性がこちらに歩み寄って来た。
「アートイノベーションセンターの技術部、時枝イリナ講師ですね?」
歳の割には声の調子が整っている、綺麗な英語だった。
「はい。遅れて真に申し訳ないことです。」
「そんなことはもはやどうでもいい。支倉教授から電話口で聞いたと思うが、問題は我々のもとに届くはずだった3Dの機材一式が、何者かに盗まれたということだ。」
老人はおそらく、本会議のリーダー、キルコビッシュ・マロノフ企画部長だろう。国防総省からの要請で、とある3Dビジュアルデータの作成にとりかかってもらいたいとのことで集められたグループで、日本の技術者にも協力を煽りたいと以来を受けたので、こうしてはるばる海を超えてやってきたのだった。だが、肝心の機材が盗難にあったらしい。アメリカで同様の機材が準備出来ないと言うわけではないが、言語設定上などで、普段から愛用しているタイプが使いやすいという理由で、日本から運び出していただけだ。
ならば、何故会議室はこんなにも深刻な空気なのか。
「誰に、盗まれたのですか?」
「人の特定はできていないが、荷物はロスで一度下ろされ、NYまで運送するその過程で何者かが強引に奪い取り、そのままモスクワ行きの便に乗ったことが確認されている。モスクワ警察に連絡して、到着次第すぐに荷物チェック、身体検査を行うよう要請はした。」
「了解しました。では、容疑者取り押さえ次第荷物を受け取れるよう、モスクワへ向かえばいいですね?」
イリナが言い終えるがすぐに、部屋の奥で乱暴に椅子が引かれる音がした。細身でメガネをかけた、白衣のやつれた日本人、支倉 彰吾博士だ。
「ロシアの者がなぜ3D機材を欲するんだ? 確かに技術に乏しい紛争地では、武器の量産に利用されかねないこともあり、そもそも3D製品の持ち込みが出来ない国がある。しかし、ロシアが未発達とはあまり思えない。あそこもまだまだ先進国のはずだ。そこの調べはついているのか?」
マロノフは横一文字に口を結び、眉根を寄せた。西洋風欧米人ならではの、角が鋭く四角形よりの造りは、線がなめらかな日本人に比べると僅かな変化でも大きく印象が変わる。
「すまないが、まだ情報収集の段階だ。今のところの予測としては、ロシア国内の反組織グループが技術を盗みに来たか、我々がこれから行うデータ作成の妨害と捉えている。」
「…、なるほど。時枝、くれぐれも身辺に気をつけて行ってくるんだ。こちらはお前の作業の前にもまとめることが多い。一緒に行くほどの時間がない。」
「ああ、そこは大丈夫です。我々で一人ボディーガードを雇っています。入ってくれたまえ。」
すると、スクリーンの右横にある扉が手動で開いた。こちらは蝶つがいで固定された一般的なドアのようだ。中から背が高い黒髪の白人男性が出てきて、軽く会釈した。
「ドゥシェーレ・ハルストマン。国土安全保障省(DHS)の、財務省秘密検察局、特別捜査官の者だ。」
「待って下さい! これ、大統領命令なのですか?」
イリナは思わず目を剥いた。財務省秘密検察局と言えば、シークレットサービス、即ち大統領や在米中の首領、高位の者やそれらの配偶者の身辺警護が仕事の者たちだ。基本的には大統領から主な任務が発令されるものである。日本で3D技術の研究開発をして、医療などに必要となる特殊な資料作成、文化遺産の修正や複製、歴史的彫刻の復元や、デザイナーの案を3Dデータに造り変えるようなことを、ちまちまと行っているイリナに付ける人間にしては、格式高い相手だった。
「その通りですよ。今回のデータ作りは極めて重要なものになっている。それは事前に少しは聞かされているとは思われる。」
イリナは軽く頷いた。
「我々に任せられていることは一般的には極秘である上、データ作成の内容自体も少し困難だ。君は日本においては3Dという技術をかなり高度に扱えるスペシャリストと聞いている。大統領は計画の重要性から彼の派遣を許したのだろうけれど、我々は君という人材も重要視している。くれぐれも気をつけて行ってきてくれたまえ。」
「承知致しました。」
*
「私たちはこの地で生まれただけなのに、何故こんなところにいつまでも、留まっていなければならないのか、イリナは考えたことがある?」
彼女の美しい表情が、真っ白な吐息越しにこちらへ向いて、微笑んだ。私はすかさず答える。
「あるわ。やりたいことがあっても、私たちはずっとここにいなきゃいけない。窮屈な思いをしないわけがないわ。」
私の返事を聞いた彼女は、さも嬉しそうにくすくす笑いながら、くるりと一回転した。
「じゃあ、私と一緒にここを出よう! イリナは賢いから大丈夫。一緒に頑張って認められれば、私たちに待っているのは自由で暖かいところよ。」
「でも、他のみんなは置き去り? 優秀になれて出ていけても、家族までをも置いて行くの?」
私の言葉に、彼女はピタッと動きを止めた。両手を後ろに回して前かがみになって、私の表情を伺ってきた。
「違うわイリナ。出て行っても、私たちが自由を手にする時はもっと先。夢を叶えた時なのよ。」
「…夢?」
金髪の天使は微笑んだ。色白で、とても自分と同じ境遇の人間とは思えなかった。けれど彼女は、私たちと同じ人種なのだ。
*
「寒々しい景色ですねえ。」
丸い窓の外側はおそらく氷点下。霜がこびりついていて、その先に見えるのも無数に荒れ散る雪だった。
「…、そうですね。」
イリナは飛行機の窓際で、頬杖をついていた。ドゥシェーレ・ハルストマンとかいうボディーガードは、妙におしゃべりなようで、聞いているかどうかもわからないイリナに向かって、今のようにちょくちょく声をかけてくる。随分気楽なものだとため息が出てしまう。確かに、大統領や閣僚の警護に比べれば、イリナの警護なんて眠っていてもできそうなものかもしれない。
「警護する上で必要があったので、少しだけあなたのことを調べさせて頂きました。見た印象だと日本人そのものでしたので驚きましたが、あなたはロシア出身なのですね。」
突然自分の話をされたので、やむを得ずイリナはドゥシェーレに顔を向けた。白人男性らしく、一見ひょろ長いが図体もそれなりにがっしりしている。
「ロシア人たって全員白人ではないわよ。モンゴルに近い東部のロシアには、アジア系の民族が住まう村だって存在する。」
「そうでしたか。ロシア出身で18歳の頃、日本国に上陸。日本国籍を取得して、早稲田大学法学部に入学するも、二年目に退学。その後東京藝術大学彫刻科に再度入学して、卒業後、同大学内のアートイノベーションセンター勤務。3D技術を扱ってさまざまな分野で活動中。あっていますか?」
「ええ。」
「彫刻やっていらしたのですね。3Dモデリングの技術もそこで習得したのですか?」
イリナは思わず睨んだ。任務に関係の無いことを聞かれるのは苛立つ。相手は友達でも同業者でもなんでもない、関係のない欧米人なのだ。
「ええ、その通りよ。質問はそこまででいいかしら?」
イリナの雰囲気を察したのか、濃い眉毛を垂れさせて、ドゥシェーレは苦笑いした。
「すみませんね。なにせ知りたがりでして。最後に一つ、ロシアの地に再び降りるってどんな心境です?」
予想外の質問に、思わず言葉を詰まらせてしまった。そのせいか、口角の上がったドゥシェーレの表情がどこか挑戦的にも見えた。
「懐かしいわよ。」
気だるい気持ちを押し殺して笑ってみせた。
到着ロビーで一休みをしながら、盗難者から回収したであろう、愛用機器を待ち続けた。ドゥシェーレは周囲を気にしてか、イリナの後ろに立って鋭い視線をまき散らせている。仕事に真剣な時はあまり話しかけて来ないようだ。やがてモスクワ警察が数人駆けよってきた。
「お待たせいたしました。ただいま、押収した機材を金庫から解放致しました。どうぞ、こちらにいらしてください。」
荷物受け取りのために、警察官たちに着いて歩き、警察の黒塗り大型トラックのトランクへ向かった。両開きのトランクの口を、一人の警官がすばやく開けると、鉄製の大型なボックスが現れた。それは確かに、イリナが出国する際に詰め込んだものだった。精密なもののため、こうして輸送するしか手段がなかったのだ。乗り込んで自分の手で確かめるが、間違いはなかった。果たしてこんなものが、どのように盗まれたというのか、手口が気になってきた。
すると突然、大きな衝撃音と共に視界が真っ暗になった。
「なっ!」
振り返れば、先ほどまで解放されていた扉が塞がっていた。慌ててこじ開けようとするも、完全に外側から栓が降りていてビクともしない。
「ドゥシェーレは何をしているのよ!」
バッグからスマホを取り出して、明かりを得る。と、
「まあ落ち着け。こっちに客席がちゃんとある。」
いつのまに乗りこんでいたのか、後ろから声がして、思わず一瞬震えた。振り返ると、飄々としたようすのドゥシェーレが、貨物室の一部に、車両前方につながる扉が設置してあるのを指差していた。
扉を開けると5段程度の階段があり、登り切ったところに、向かい合わせにソファーが置かれ、その間にテーブルの置かれた、リムジン染みた空間が広がっていた。先ほどの警官たちが、黒スーツの姿で鎮座しており、イリナたちへ視線が注がれていた。
「嵌めたわね。ドゥシェーレも合わせて皆グルだったってことでしょ?」
イリナの両手が、ドゥシェーレによって縛られた。イリナは誕生日席に座らされ、真向かいに座る40代くらいの男性と対面する形になった。見渡す限りでは全員白人男性である。
「いや、我々は何も嵌めたほどのつもりはない。その拘束は形式的に行ったまでだ。確認さえとれればすぐにでも解放する。」
覚めきった目を向けて、真向かいの男は淡々と話した。
「なんのこと?」
「イリナ・トキエダ。貴方が今も尚、ハルージア・シェスタコビアの意思を持っているかの確認だ。」
二日前
実際の人間の動きを特殊カメラで撮影し、エクセルに出されたいくつものX、Y、Z曲線の数値から、人間がある行動を起こす時の軌道を再現しようという計画が、何年か前から開始していた、イリナの個人研究にあった。複数の仕事の合間にかなりの行動のデータ化を作り上げてきていた。
この日、その研究内容を扱って、人工人間の制作に参加してほしいとの要請が、アメリカから極秘で来たのだ。これは人造人間ではなく、機械人間だ。映画のターミネーターを想像してもらえれば分かりやすいだろう。骨格や筋肉を人間そのものと同様につくりあげても、動きのぎこちなさがあれば不審に思うのが生物の感覚だ。その感覚を一切ゼロにまで持っていけるような、より人らしい動きの再現に、この研究は使えるということだった。シリコンの強度などを調整することで、人間の筋肉と同様の弾力までもが再現できるのが3Dプリンターの技術だ。今や人間モドキを作り上げることまでもが可能と言われる程に進化していると言える。
人間モドキを作るのが一体なんのためなのか。
アメリカの国防総省が何を考えているのか。
「イリナ・トキエダ。貴方は樺太在住の日本人の血族。太平洋戦争終戦時に、ロシア兵の虐殺から逃れはしたものの、兵士たちから強姦にあった日本人女性を先祖に持つ者の一人。不純から成り立った一族だけが、東部ロシアの人知れぬ小村に隔離され、監視された状態で生き延びている。ハルージア・シェスタコビアも同様の境遇にあった。」
イリナの頭の中で、まだ十歳そこらのハルージアの幻想が蘇った。黒髪黒目のイリナと違い、西洋の血が濃いハルージア。彼女の一族は日本の名字を辿ることができず、シェスタコビアの名前でいるしかなかった。それを、彼女は憎んでいた。
「本来ならば、あの小村からは抜け出せない。しかし、君たち二人は、異例の才能を放って見せた。人種差別が問題視される現代において、偉才を無視するほどロシア政府も強制力を持てない部分があった。君たちはそうして抜けだした。永遠の雪の監獄から。」
報われなかった自分たち一族を救う。
これが、ハルージアの言っていた夢だった。
「ハルージアは貴方達を従えているってことかしら?」
「我々はロシア人だ。しかし、反政府団体として彼女と共にある。彼女の意思のもと、一族を救済する。」
「その目的と、アメリカ国防総省の計画妨害がどう繋がるってわけ?」
向かいの男は乾いた喉を、一旦水で潤した。彼の視線が、イリナよりも上へ向けられた。おそらくドゥシェーレとアイコンタクトをしたのだろう。ドゥシェーレが前へ出てきた。
「キルコビッシュはロシア政府の人間だ。」
「なっ! 嘘よ。データベースにちゃんと欧米出身のって…。」
ドゥシェーレが手を上げてイリナの口を制した。
「欧米出身だからといってロシアに鞍替えしないとは限らないだろう。そもそも私だって、本当は、ロシア出身ながら米国籍に移った人間だ。別にアメリカとロシアは喧嘩しているわけじゃないから、不審にも思われない。」
驚きに絶句するイリナを見つめながら、ドゥシェーレは更に続けた。
「キルコビッシュの思惑はこうだ。最新技術をわざと一旦盗ませ、ロシア政府に解析を依頼する。盗品を取りに時枝イリナが飛行機で移動している間に、解析なんて殆どできる。ロシア出身の私を警護につけて、作戦をうまく実行できるようにしたつもりなのだろう。私が、自分に同意するものとみて。勿論キルコビッシュの前では同意を示した。しかし私は反政府側の人間だ。キルコビッシュから作戦を聞かされた段階で手を回しておいたということだ。」
「…、じゃ、じゃあ、計画通りに機材を受け取れなかったロシア政府は今、私たちを追っているってこと?」
「そうなる。」
背を蟲が這うような感覚に襲われた。盗品を持ち帰りに訪れただけのつもりが、犯罪の渦中に身を投げてしまったのだ。
「イリナ・トキエダ!」
向かいの男に大声で名前を叫ばれ、反射的に相手を睨みつけてしまった。
「隠すことはできない。我々は全て周知だ。アメリカが貴様の技術を用いて、人型兵器の開発にとりかかろうとしていたという事実も当然含む。しかし、米国政府が計画を進める以前から、人体動作の研究を個人で行っていた理由はなんだ?」
私たちが自由を手にする時はもっと先。夢を叶えた時。
唐突に脳裏で浮かび上がった言葉が、イリナを悲しませた。
「私はただ、科学と混合したアートプロジェクトとして、いつか、人のためになる機械人間の開発をしたかっただけ。まさか、兵器開発に繋がるだなんて、思ってもみなかった。もし、実現出来たなら、私の功績によって、あの村はもっと認められるはずだと思った。法学部を辞めたのは、日本の政治しか動かせないと思ったから。かと言ってロシアへ戻って政治に関わったところで、ハルージアとは違って、私は日本人の血が強い。村出身の差別意識から、いつ遠ざけられるかも分らない。だから、目に見える形で誰かに訴えようと思って、今の仕事についたと言うことよ。」
「兵器開発に否定的な割には、随分あっさり参加しているように伺えるが?」
「日本は今や、アメリカに忠実な下僕ですから。支倉博士も、国を考えると断るわけにもいきませんでした。」
イリナのセリフに嘘偽りがあるかどうかという判断に、周囲の者たちは冷静なジャッジを入れている。そんな中、向かい側の男が持つ、スマホが振動した。男が電話対応をすると、場の空気が一瞬にして、静まり返った。
「計画通り、彼女を送り届けています。はい、了解です。では失礼いたします。」
通話を切ると、男は顎をしゃくって、ドゥシェーレにイリナの拘束を解かせた。
「お前のことを我々は信用するとしよう。もうすぐ、クイーンが待つところへ辿りつく。」
イリナは両腕が解放されたところで、大きくため息をついた。ハルージアと対面すると思うと、心を擽るようななつかしさと、根底から冷えあがって来るような恐怖の二つに、大きく揺さぶられて落ち着かなかった。
やがて、トラックの振動がゆっくりと消え失せ、向かいの男から順に、一同は外へと降り立っていった。ドアから顔を出すと、肌を切るような寒気が全身を襲ってきて、一瞬で凍えた。他の連中は、黒スーツの上に上等な上着を羽織っているが、イリナはアメリカへ行く格好しか準備がなく、ロシアの気温には適していなかった。辺りを見渡すと、一面が真っ白な雪の絨毯で覆われていて、一同が向かう先に、小さな古い工場があった。歩いていると、その工場の中央扉が開かれ、金髪を揺らした少女が一人、軽やかなステップで出てきた。
そこで、イリナ以外の一同は、一旦歩みを止めて一礼した。イリナの右隣で、ドゥシェーレも頭を下げていた。
「何事もなかった? ドゥシェーレ。」
ゆっくりとこちらへ距離を詰めながら、彼女がやって来る。腰に届く程の長髪は、癖で巻き毛になっている。ファーの襟がついた真っ白いダッフルコートを着て、真っ白な厚手タイツとブーツを履いている。美しいプロポーションに、ギリシャ彫刻のような素顔が成長を見せるが、10歳のころから印象は殆ど変わらなかった。
「よかった。イリナ、私のところへおいで。」
歩みを止めて片手を差し出すハルージアへ、ドゥシェーレが背を押して、行くように促した。一同を背に、イリナは歩きだす。何をされるのか不安で、思わず生唾を飲み込んだ。間近に来て、差し出された彼女の左手に、そっと自分の左手を重ねた。彼女の青い双眸は、手を重ねた瞬間一気に緊張感を得た。イリナが戸惑っていると、ハルージアは突然、繋いだ手を思い切り引っ張りイリナを自分の後ろへ追いやった。イリナが思わずつんのめって、あたふたしていると、雪で無音なこの空間に、無数の銃声が響き渡った。
振り返ると、ハルージアの背中越しに、先ほどまで立っていた一同が、四方八方からの弾丸で、皆地面に這いつくばったり、仰向けになったりして呻いていた。既に身動ぎもしない者もいる。工場のあらゆる場所に潜んだ者たちが、彼らへ向けて連続発砲しているのだ。鉄の雨は、起きあがろうとする者が動かなくなるまで、永遠と彼らに振り続けた。
アワビの踊り焼きに似ていた。生死の境でもがき苦しむ人間の姿がそこにあり、イリナは、彼らの血しぶきと雄叫びに耐えきれず、目を反らして込みあげるものを必死で抑えた。
「怯えなくてもいいのよイリナ。あともう少しだから。」
ハルージアの透き通る氷のような、凛とした声が舞い込んだ。銃声は鳴り止んでいて、彼女の微笑みがこちらを見下ろしていた。気をとりなおして背筋を伸ばすと、雪景色の中で、何人もの男の遺体が埋まっていた。すると、
チュンッ
ハルージアの金髪が僅かに靡いて、二人の後ろにある工場の壁に、弾丸が嵌めこまれた。
「ドゥシェーレね。話をしましょう? 大丈夫、部下は今弾切れ起こしているから、撃って来ることはないわよ。」
ハルージアの視線の先は、イリナたちが乗って来たトラックへ向けられていた。見つめていると、背の高い影がトラックの後ろから颯爽と現れた。
「…我々のことを知っていたのですね。」
冷えた宵闇のような表情で、ドゥシェーレが呟いた。片手に拳銃を持っている。
「紛争地の鎮圧のために動くアメリカ軍の妨害を、我々が始めたあたりから、欧米の動きはしっかり見ているのよ。私の部下になるといって貴方がやってきた時、国防総省がついに、私のことを本格的に抹殺しようとしていることに気がついた。」
「…、初めからお気づきでしたか。」
ハルージアはおかしそうに首を傾げて、くすりと笑った。
「貴方が、私と米国、どちら側のスパイなのか、勿論初めは考えたけれど、今回の機材輸送計画を、あなたの口で聞かされた時にすぐに分ったわよ。あなたたちは、私の幼馴染イリナを引きずりだすことで、私を無理やり誘き出そうとしたのよね? そしておいそれと出てきた私を暗殺する。それが、大統領からの命令でしょう? ドゥシェーレ。」
「そこまで把握済みですか。まさにその通りです。キルコビッシュが機材をロシア政府に盗ませたのも、私どもがそれを横取りしてハルージアに手渡すというのも、どちらも米国政府の作戦命令です。言わば、自作自演。ハルージアの手がこれ以上世界へ広まっていく前に、阻止せねばならないのです。そこで、貴方を自然に処理するために強奪事件を装ったということです。」
ドゥシェーレの視線が、そこでイリナへ向けられた。
「支倉教授とイリナ・トキエダに依頼された仕事も、彼女を日本から引きずり出す口実でしかありません。」
次の瞬間、ハルージアの右手が素早く上がり、数発ドゥシェーレ目掛けて放たれた。しかし、ドゥシェーレはその初動をしっかり見ていたのか、器用に身をかわして避けながら、こちらへ発砲してくる。ハルージアが弾を避けながら攻め続ける中、イリナは壁に寄りかかって姿勢を低くすることしかできなかった。どう動くべきか考えていたそのとき、突然耳を劈く爆音が鳴り響き、ドゥシェーレのいたあたりが噴煙に覆われていた。ハルージアが得意げに笑って、彼に向かって走りながら発砲を続けた。
地雷だ。彼女はドゥシェーレを発砲で誘導し、見事罠にはめたのだ。遠目でよく見えなかったが、金髪の天使が、生きようと蠢く影に向かって、終焉の幕引きを鳴り響かせたのが聴こえた。
両足を失って体を穴だらけにされ、無様に両目が見開かれたままの死体に、白い手がそっと触れ、瞼が閉ざされた。
「御苦労さま。部下としてはかなり使える子だったんだけどね。」
ハルージアは立ち上がり、くるりとこちらを振り向いた。
「米国が、各国の紛争を、首領を暗殺することで撃沈させていることは知っているわよね。人間が自由意思を持って良いとされるのならば、たとえ少数の者たちであっても、彼らの意思を皆殺しで終わらせるのは間違っているわ。与えられた権利を、大国が剥奪するなんてことはあってはならない。」
「…だから貴方は、ロシア政府に盾突き、果ては他の大国にまで暴力を振るいだしたというの?」
「暴力ではなく抑圧よ。だって、そうして誰もが権利を得て平等になることが、私たちが夢に見た世界でしょう?」
白く美しい銀世界にはいくつもの死体が転がっている。その上で、天使は清らかな舞いを見せる。ああ、彼女の中では、あの時から大国全てが敵だったのだ。迫害対象とされ、後ろ指を指されてきたことによって生きてきたことによって生まれた反抗心は、思いのほか根強かった。彼女の、でき物一つない滑らかな白いおでこ辺りへ、私はそっと人差し指を向けた。
「ハルージア、貴方がしていることは単なる人殺し。人種差別といっても、私たちのように生きていても問題の無い時代よ。ユダヤ人迫害ほどの悲劇は今や起こらない。」
人さし指の第一関節をもう片方の指でつまむと、綺麗にひっこ抜けた。断面に顕わになっているのは、銃口。ハルージアの双眸が大きく見開かれた。
「けれども、貴方がしていることによって、再び悲劇が起こるわ。無情に奪われた命を惜しむ者たちからの、反撃が。」
体が僅かに反動で揺れた。指先から放たれた鉄の弾は、直線状を進み、真っ白な額に見事吸い込まれていった。天使は一瞬、空中を軽やかに浮遊した後、雪のクッションに舞い落ちる雪のように、倒れて行った。両目を閉じたまま、まるで眠っているかのように、穏やかな顔だった。
いつからか、粉雪が降りだしていた。
工場の影に隠れる者たちが、蠢く様子が聞こえる。
目で見れば、赤外線データで人間の居場所がすぐさま感知できる。
両手を上げて地面と水平に構え、全指の銃口を解放し、
潜む者たちをものの数分で全て、撃ち殺した。
ハルージアを殺すために造り出した、時枝イリナ(アンドロイド)は見事に役割を果たしてくれた。
大型トラックから、女性が出てくる。眼鏡をかけた金髪の女性だった。
彼女は、イリナのもとへ来ると、おもむろに自分の頭頂部をわしづかみ、金髪をあっさり外して見せた。メイクと眼鏡で綺麗に化けているが、こぼれ出た黒髪、時枝イリナ(アンドロイド)とほぼ同じ体格は、彼女こそが、本物の時枝イリナであることの証明だった。
イリナには、ハルージアと言う天才少女が生きている限り、世界のどこかで災いを起こすかもしれないことが、容易に想像できた。小さかったあの頃は、明るい未来を信じたかったけれど、彼女にそんな未来はやはりやって来なかった。彼女は賢い。だから、米国の作戦にだってすぐに対応できるのだ。だからこそ、イリナは彼女を欺くことができる兵器を作った。
イリナはアンドロイドの頭をそっと撫でる。
「私そっくりの殺人兵器。彼女を騙せるのは、これしかないと思った。」
イリナの技術ならば、本物と見紛うほどの物を作り出せた。世間には全く公表せず、一人その時が来るまで密かに保管していた。
ある日、アメリカからの依頼に、イリナは眉をひそめた。3Dの技術ならば、日本以上に発達しているアメリカから、何故わざわざ自分に依頼が来るのかと。それも国防総省からだ。
依頼の知らせをしてきた支倉教授の態度も気がかりで、こっそりハックしたところ、この依頼の本当の目的が、電話音声の記録に残されていたのだ。そこで、いつでも突撃可能なアンドロイドと自分のすり替えを思いついたのだった。
「私は拳銃を握ったこともないから、これが貴方を使う絶好の機会だったのよ。皆にバレないで、よくここまで頑張ったわね。」
本物のイリナは、変装して大型トラックの倉庫に身を隠していたのだ。機材強奪時の運送業者に身分を偽り、タイミングを見て紛れ込んだのだった。
アンドロイドの頭に、さっきまで被っていたウイッグを被せた。
「でも、ごめんね。貴方はもう存在してはいけない者よ。」
「分かっているわ。大丈夫、身の滅ぼし方なら知っているわ。」
その後、一時間程経って、時枝イリナから連絡を受けたロシア警察が駆けつけた。
ハルージア・シェスタコビアの遺体は、ドゥシェーレ・ハルストマンの遺体の向かい側に転がっていたことから、ドゥシェーレによる暗殺が遂行されたということになった。
時枝イリナは今回の事件以降、死のショックから現在の職場を退職したと言う。
このように、アンドロイドの存在は、誰も知ることがなかった。
アンドロイドを作りだした時の、大量のデータは全て綺麗に消し去り、アンドロイド本体は、あの後自力であの場所から遠くへ離れて、人知れぬ場所で自害した。
作戦に巻き込まれ、とんだ被害を受けて心に傷を負ったとされている時枝イリナは、現在日本を離れ、フィレンツェの国立芸術アカデミアで働いていた。
この場所は、基本的に晴れ晴れとしていて、温暖である。見渡せばローマ彫刻が点在し、まさに芸術の都だった。
あの雪景色とは全く違う世界。
妬み恨み呪うようなことを考える日々とはかけ離れた、馬鹿みたいに陽気な日常だった。
ハルージアを殺したのは、イリナだ。
そして、ハルージアの心ができたのは、社会が不備であるせいだった。
人殺し兵器の罪を、いつかどこかで暴かれるかもしれない。
その前に、ハルージアのような人間を作りださないために動きたいと願った。
それが、故郷の家族や他の仲間を救うことに、繋がるはずだから。
自分のやり方は、どこか間違っているのかもしれない。
けれど、彼女にこれ以上罪を重ねて欲しくはなかったのだ。
眩い銀世界で微笑む天使が、その手を血で汚す姿など、もう二度と見たくなかった。
夕日に染まるフィレンツェの美しい町を見て、今更ながら、想いが頬を伝って零れていくのだった。